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新連載です。よろしくお願いします!
──ああ、これはきっと罰なのだわ。
──私が前世で犯した身勝手で自己中心的な罪に対する罰。
その記憶が蘇ったとき、私は唐突にそれを理解した。
早送り再生された演劇のように頭の中に前世の17年間の一部始終が流れ込んできて、それと引き換えに私は年相応のあどけない子供らしさを失った。
その刹那、未来への希望に満ちて美しく色付いていた世界は斬首台に続く一本道のように灰色に暗転した。今まで大好きだった人達が、興奮のあまり眠れないくらい会いたかった人達が、後ろめたさのあまりに二度と顔を合わせられない人達へと変わる。
「カンナ、ごめんなさいね。びっくりさせちゃったわね」
強張って声一つ出せない私の肩に触れ、優しく微笑んでくれるのは親戚のスフィア・バレットさま。まだ27歳の若き侯爵夫人だ。
私の頭を撫でるその女の人は、子供の私から見てもとても美しかった。波打つ艶やかな金の髪を後ろで結い上げて、透き通る白い肌はまるで象牙のように滑らかだ。そして、その笑顔はいつかお母さまに連れられて行った大聖堂に描かれたフレスコ画の女神さまのように穏やかで優しい。
私はそのフレスコ画を初めて見たとき、あまりの美しさに息を呑んでお母さまに呆れられるくらいにその場に立ち尽くした。中央に佇む女神さま、その傍らには一人の少女が地に座っていて女神さまを見上げている。そして、若い一人の男がその女神さまに手を差し伸べており、更にその様子を少し離れた頭上から見下ろす男。少女の表情は救いを求めるような苦悶に満ちたものであり、女神さまと女神さまに手を差し伸べる若い男は穏やかな笑顔だった。そして、見下ろす男の人はその表情から感情を読み取ることは出来ない、とても不思議な作品だった。
フレスコ画には作者の名前と共に『来世への審判』と記されていた。恐らくはそれはそのフレスコ画の題名なのだろう。そして不思議なことに、私はその風景に既視感と懐かしさを感じたのだ。
申し訳ございません、と震える声がして私はハッと意識を取り戻した。私のすぐ目の前で不手際でカップを割ってしまった侍女が顔面蒼白で謝罪していた。
「いいえ、大丈夫よ。気になさらないで」
私は咄嗟にそう言って彼女に微笑んで見せた。すぐ横では割れてしまったティーカップを慌てた様子で別の侍女達が片付けている。薔薇の絵付けがされたとても美しいティーセットだったのだけど、それは見事に粉々に砕け散ってしまって今は小さな凶器へと姿を変えていた。
「あの、私体調が優れませんので休憩しててもよろしいでしょうか?せっかくの機会に申し訳ありません」
私は今にも倒れそうになるのを何とか堪えて、スフィアお姉さまに退席の許可をお願いをした。声が震えそうになるのを抑えるので精一杯、いいえ、もしかしたら私の声は既にひどく震えていたかも知れない。頭はガンガンと痛み、視界は徐々に暗くなっていく。
「それは大変!まあ、カンナったら真っ青だわ!こちらのことは気になさらないで、ゆっくりと休んで」
「はい。お気遣いありがとうございます」
スカートの裾を抓んで軽くお辞儀を返すと、私はクルリと踵を返す。後ろから、誰かカンナを部屋まで送って差し上げて、とスフィアお姉さまが侍女達に申し伝えるのが聞こえた。お茶会のホストのスフィアお姉さまはその場を離れる訳にはいかない。けれども、その口調から私のことを本当に心配していることはわかった。
いつだってスフィアお姉さまは優しく、美しく、完璧な淑女だ。もし理想の淑女を一人挙げなさいと言われたら、私は迷うこと無くスフィアお姉さまの名前を挙げるだろう。いつも優雅な身のこなしで社交界の皆の憧れの的。微笑めば花が咲いたかのようにまわりを明るくさせる。
ああ、スフィアお姉さま!私の理想のお姉さま!!
私は絶望で目の前が黒く染まっていくのを感じた。スフィアお姉さまに可愛がって貰っていることを今の今まで自分の一番の誇りに思っていたのにも関わらず、だ。フラフラとした足取りをバレット侯爵家の侍女と自分の侍女に支えられながらお屋敷の休憩室へと進む。その時、私はもう一人の会いたくない、会ってはならない人に遭遇することになった。
「カンナ?どうしたんだい??」
心配そうな声に俯いていた顔を上げれば、そこにはこの屋敷の若き当主であるバレット侯爵、エドウィン・バレットさまがいた。漆黒の艶やかな髪を後に纏め、上品なベージュのジャケットを羽織っている。いつも爽やかで洗練されたエドウィンさまと優しく美しいスフィアお姉さまは本当に絵になるお二人だ。
エドウィンさまは長い足でさっと私の近くまで寄ると、身をかがめて私を覗きこんだ。僅かに寄った眉間の皺は彼が私のことを心配していることを伺わせた。
「カンナさまは体調が優れないのです」
返事が出来ずにいる私の代わりにバレット侯爵家の侍女がそう答える。それを聞いたエドウィンさまの眉間の皺は更に深くなった。
「体調が?それはよくないね。私が休憩室まで運ぼう」
いえ、結構です。そう言おうと思った時には既に私はエドウィンさまに横抱きに抱き上げられていた。まだ成長期の私とはかなり差があり、普段は見上げるばかりの端整なお顔がぐっと近くなる。私は顔がカッと熱くなるのを感じた。
「大丈夫ですから、おろして下さいませ」
「カンナに何かあったらディルハム伯に申し訳が立たない。いつも甘えん坊なのに、君が遠慮するなんて珍しいな。顔も赤いから熱があるのかも知れない」
エドウィンさまはフッと口元を緩めると、そのまま有無を言わさずに歩き始めた。そして、目的の休憩室まで運ぶとゆっくりと私をベッドに下ろした。後ろに続いた侍女達が布団をそっとかけてくれて、天蓋のレースカーテンがおろされる。
「ディルハム伯には知らせを出しておくから、少し寝るといい」
エドウィンさまはわたしの頭を優しく撫でてからそう言い残すと、パタンと静かに扉を閉めた。侍女達も私がゆっくりと休めるようにと続き間の隣室へと下がっていった。扉が閉まった後の休憩室は物音ひとつせず、シーンと静まり返っている。
エドウィンさまの言っていたディルハム伯とは、私のお父さまのことだ。お父さまはディルハム伯爵家の当主であり、つまり私は伯爵令嬢だ。そして、エドウィンさまは私の父の従兄弟に当たる。
領地が隣同士なこともあり、私は物心つくかつかないかというような小さな時から両親に連れられてたまにバレット侯爵家に遊びに来ていた。そして、何年か前からは自分でお願いして度々バレット侯爵家を訪ねてきていた。
憧れの存在であるバレット侯爵夫妻や、私より少し年下のご子息達にお会いすることを、私はいつもとても楽しみにしていた。
「なぜ私はここに居るの・・・」
なぜなの?どうして私はあの人たちに可愛がられているの??私は二度とあの美しい人達の前に現れてはならない卑しい人間だというのに。厚かましいにも程があるわ。
「帰らないと」
すぐに私は姿を消さなければならない。そして、あの美しい人達の前に二度とこの卑しい身を晒してはならないのだ。そう決心したとき、私は双眸から止めどなくあついものが溢れて出てくるのを止めることが出来なかった。
今だけ、もう少しだけ。この涙が乾いたら、私はもう二度とあの人たちに関わることは無いだろう。