【第四章】自分の役割
草木帳からの迎えが、静美の里に降り立った。草木帳の使いと、赤子を抱える一人の男が、館に到着した。もちろん、日暮と、夕霧だ。彼が直接、美月を迎えに来たのだ。
館の奥で休んでいる美月は、沙華の呪いが進み、思うように体を動かせないのだという。
女中が美月が居る部屋まで案内してくれた。館は静かな場所で、奥に行くにつれて、その静けさは更に増した。
ある部屋の前に止まると、女中がお客様ですと声をかける。中から返事はなかったが、女中は障子を開いて、どうぞと部屋の中へと夕霧を促した。
中へ入ると、女中は一礼して、障子を閉めた。
薄暗い部屋の中で、彼女は眠っていた。痩せていて、顔色も良くない。夕霧の気配を感じ取った美月が目を開いて、こちらを見た。
「どちら様……」
おかしい。美月は確かに、夕霧の顔を目で捉えているはずなのに、最初にそんな台詞が飛んでくるなんて。
「美月……?」
声をかけると、美月の目が見開いた。
「夕霧……」
美月は体を起こして夕霧を手探りで探し始める。それで、分かった。
「美月……まさか、目が……」
美月の両目に、光が灯っていなかった。その白い手が夕霧の肩に触れると、頬へと登ってくる。
「ああ、やっぱり……あなたなのね……」
残酷だった。やっと会えたのに、彼女は夕霧の顔を目で見ることが出来ない。
それでも、夕霧と再会出来た事に嬉しそうに微笑む美月は、何度も夕霧の輪郭を手で確認する。
今まで眠っていた日暮が、小さく声を発した。美月は、夕霧の腕の中を、光を失った目で見つめた。
「日暮……?」
「ああ。一緒に、お前を迎えに来た」
日暮の頬に、涙が一滴二滴と落ちていく。
「そう……そう……」
美月は涙を拭い、日暮の頭を探して、そっと撫でる。
「ごめんな、迎えに来るの、遅くなって」
「あなたと日暮に会えた。私はもう、満足よ…」
拭っても、涙はまた流れてくる。ずっと、会いたかった。こうして会話を交わせる事が、何よりも幸せだった。
例え、目から光が消えたとしても、思うように体が動かなくても、こうして、愛する人の気配を感じられるだけで良かった。
その幸せに浸っていた時に、突然、体中から力が抜き取られたかのように美月は夕霧の肩に倒れかかった。
慌てて彼女の肩を支える。
「迎えに来てくれて、ありがとう。もう一度、日暮に会わせてくれて……ありが…とう……」
もう、話す気力さえも残っていない。酷く疲れてしまった。もう、息をする気力も、残っていない。
「美月……?」
──ああ、誰か。助けて。
「美月……!」
──私は、まだ皆と一緒にいたい。
「おい、誰か……!」
──まだ、死にたくない……。
「──あらぁ、死んじゃった」
物陰からそんな二人のやりとりを聞いていた繭は残念そうに呟いた。鬼蛇は睦月と文月の二人と戦いたがっていたのに、文月が死んだと聞いたら悲しむだろう。
鬼蛇は今、菊ノ清城に捕えられている。だが、彼はそんな簡単に捕まるわけない。何か企んでいるはずだ。
「鬼蛇様は今は迂闊に動けないでしょうし、葉月はもう使えませんし……」
ならば、鬼蛇が動き出すまで待つしかなさそうだ。
全く面白くない。
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美月の亡骸は、草木帳へと運ばれた。
まさか、亡くなった状態の美月が来るとは思わなかった弥生は泣き崩れ、琥珀がそんな弥生を支えていた。
美月の傍についていたお蝶を見て、琥珀は不思議そうな顔で瑠璃の居場所を聞いた。お蝶曰く、美月に手紙を残したまま姿を消したという。その手紙の内容は、まるで遺書のようだった。
多くの者は、夕霧を心配していた。固く目を閉ざした美月の傍らで、日暮を腕に抱えて、じっと座って動かないのだ。
もうずっと、何も食べていない。眠っていない。夕霧も、弱ってきていた。
そんな時、夕霧の父親違いの妹と弟、小桜と小雪が草木帳を訪れた。
弱りきった夕霧を叱ったのが、小雪だ。
「お前まで死んでどうする!」
日暮は生まれて間もなく、母親を失った。父親まで失えば、きっと孤独に生きていくだろう。
「夕霧、日暮様がいるのです。しっかりしてください」
小桜に肩を揺さぶられ、俯いていた夕霧はようやく顔を上げた。情けない、実に情けない。
悔しげに唇を噛んだ夕霧の服を、日暮が小さな手で掴んだ。
「日暮……」
日暮は美月によく似ている。髪の色も、顔立ちも。性格はどうだろう。これから成長していくにつれて、色んなことが分かってくる。
この幸福を、美月はもう二度と感じることが出来ない。生まれ変わったとしても、美月の運命は報われない。それは、あんまりではないか。
──美月に、幸せになってほしかった。
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──繭、聞こえますか。
「はい、あなたの声はどこにいても聞こえます」
──助けに来れますか。
「はい、もちろん」
──菊ノ清城にいる者達は、全員殺しても構いません。
「かしこまりました、鬼蛇様」
睦月と師走が菊ノ清城を出発した頃、師走が従える犬の霊、白狼が二人が乗る牛車に急いで入り込む。
師走は白狼の心を読み取り、顔をしかめる。
「何だ、師走」
「睦月様、大変でございます。鬼蛇が脱獄し、城が崩壊寸前までに陥ったとの報せが」
「何……」
繭を殺さない限り、命が尽きることはない鬼蛇は、城の地下に閉じ込められていた。だが、その繭が城に侵入し、鬼蛇を救助。城のほとんどの者が殺された。
しかし、繭がそれほど厄介なやつであったとは。
「城に戻りますか、睦月様。このままでは城が壊れてしまいます」
師走に問いかけられて、睦月は迷った。
あの城は、妻、鈴紅との思い出が詰まった大切な場所だ。
かと言って、城に戻れば、瑠璃の寿命を娘に届け損なって、娘は完全に生き返れなくなる。
妻と娘。妻の名を呟いて、目を閉じた。
「……このまま草木帳へ急げ」
「──。かしこまりました」
鈴紅は、歌が上手かった。美しい、澄んだ声を持った女だった。その評判を聞いて、あの城に招いたのが始まりだった。
睦月の刀には、瑠璃の命が宿っている。瑠璃は相当娘を大切に思っていた。その願い、聞いてやらねば。
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如月と野々姫の元に、菊ノ清城が襲撃されているとの報せが入った。
睦月と師走はこちらへ向かっているとのこと。とにかく、あの二人が無事なら良かった。だが、あの城が崩されたことは致命的であった。
「兄上はご無事だったか……。城に援軍を送らなければならぬ。草木帳の忍び隊と、兵を」
「ちょうど、霜月殿がいらっしゃってるんでしょう? 雪ノ都にも援軍を頼みましょう」
ちょうどいい所に、小桜と小雪が姿を見せた。話を聞いていたらしく、小雪は快く了承した。
その時、小桜が小雪よりも前に進み出た。
「私も、直接城に向かいます」
姉の決意に、小雪は顔を顰めた。
「何を言っている!」
「如月様と野々姫様の御膳ですよ」
「何故姉さんが戦いに出向かなければならない!」
小雪は必死に訴えたが、小桜は耳を傾けずに、如月の返答を待つ。
それで良いのかと、如月が聞くと小桜はゆっくりと顎を引いた。
小雪は更に焦った様子。
「良い、鬼神一人加われば戦も上手くいくだろう」
その返答に、小桜は有難く頭を下げた。
「姉さん、だったら僕も……!」
「あなたは都の当主。何かあっては困ります」
小桜は、個人的に、鬼蛇を倒したかったのだ。美月の大切なものを奪い、美月を苦しめた鬼蛇を。結局、美月が亡くなったのは鬼蛇のせいだ。
小桜は、全ての者達の仇を打ちたいのだ。
小雪の話は聞き入れない。小雪が同伴することは許さない。
それはただ単に、姉として、弟を守りたかったのだ。
「霜月殿。都を持つ鬼が死ぬ時は、都が危機に瀕した時よ。あなたは都を守らなければならない。簡単に死んではならないわ」
野々姫の言葉を聞いて、小雪は父親である先代の霜月を思い出した。雪女に追い詰められた都を救うために、父親は命を捨てた。小雪は同じく、命にかえても都を守らなければならない。重要な役割を持っておるのだ。
小桜はそれを理解していた。
「都を持たない鬼は、自分の役割を全うしなくてはね」
そう言って、野々姫は如月に微笑みを向けた。
「妾も、行くわ」
如月は、目を見開いた。
「何故……」
「あの城、懐かしいわね」
菊ノ清城は、睦月と先代の文月、そして、如月と野々姫の思い出の場所だ。この、兄弟夫婦の残してきた軌跡が、城にあるのだ。
「お前が、行くのか」
「失礼ね。妾はあなたよりも強いわ」
どっちが失礼なのか。如月は眉間に皺を寄せた。
野々姫とは出会いも最悪、子が生まれた後も最悪であった。性格が合わないと思っていた。
だが、野々姫は絶対に、如月の元から離れなかった。
野々姫は勝手に草木帳の兵を指揮し始めた。小桜も連れて、さっさと草木帳を出た。
都を出る際、妾がいなくても泣かないでねと、野々姫に言われた。
余計なお世話だと言い返したくなるが、戦へ向かう妻の後ろ姿を見て、何も言えなくなってしまった。