【第四章】友となる
美月の左目は、闇しか映さない。残された右目だけで水無月の動きを見極めなければならなかった。
水無月の動きは早く、加えて、力も強い。刀と刀がぶつかり合い、どちらも譲らなかった。しかし、どうしても水無月が左側に回った時は目を使えないので気配で感じ取らねばならない。
美月も、隻眼の鬼となってしまった。
避けて、斬っての繰り返しを続けた結果、美月は常人では見つけることの難しい、一瞬の隙をついて、水無月の刀を払った。
その次の瞬間、美月は兄の胸に曼珠沙華を突き刺した。
──!
水無月は、ゆっくりと、自分の胸へと視線を下ろしていく。妹の刀が突き刺さった胸の辺りには、紅色の華が咲いている。そして、兄の心臓を刺した妹は、涙を流し、唇を噛んでいる。
水無月の手が、美月の頬に触れた。
「……っ!」
刀の柄を握りしめて、抜き取った。刀が深く突き刺さっていた傷口から、血を吹き出しながら、兄は仰向けに倒れた。
「にいさま……にい…さま……」
紅色に輝く刀が、するりと手から滑り落ちて、悲しい音を立てた。胸から血を流した兄を抱き上げて、何度か呼びかけたが、反応はない。
──もう私の元から消えてしまうの?
その時、誰かに頭を撫でられて、驚いて顔を上げた。兄が残った力を振り絞って頭を撫でてくれているのだ。
「美月……」
掠れた声が耳に届いた。
「お前は、何も悪くないよ……」
「兄様…」
「自分を責めるんじゃないよ……美月を泣かせてしまった、僕を責めなさい……」
そう言って、兄は最後の微笑みを見せた。
「僕は、最愛の妹の君を、守るために生まれてきたんだ……。僕が遠くに行っても、ずっと、お前を…愛している……」
その言葉を、やっと伝えられた。水無月は満足そうに微笑むと、最愛の妹の腕の中で永遠の眠りについた。
水無月が亡くなって数秒も経たないうちに、先までの洪水が、嘘のように引いていく。里の者達は洪水に荒らされた故郷を呆然と見つめる。
その中心で、兄の亡骸を抱く美月と、父親を亡くして瑠璃の腕の中で涙を流すお蝶の、二人の女の泣き叫ぶ声がこだました。
……………………………………………………
夕霧、弥生、琥珀は美月たちよりも先に草木帳の都の如月の屋敷に到着した。頭領一家ではない者達の来訪に、如月は良い顔はしなかったが、大人しく三人を迎え入れた。
三人を興味深そうに観察し始めたのが、如月の妻で、葉月と長月の母親、野々姫である。後ろには、化け猫と思われる、おかっぱ頭の少女がついていた。
最も気になったのは、野々姫の腕に抱かれている赤子だ。
黒髪の赤子は、落ち着いた表情ですやすやと眠っている。
夕霧は、その赤子をじっと見つめたまま動かない。
「何を突っ立ってるの。本当、どうして男って頼りないのかしら……」
野々姫は困ったわぁと、呆れ顔で、夕霧に近づく。
よく見ろと言わんばかりに押し付けられ、夕霧は慌てて自分で赤子を抱いた。
途端、睫毛が震えて、赤子は目を覚ました。
「…………」
汚れのない綺麗な瞳を向けられて、夕霧は戸惑った。赤子は見知らぬ大人に抱かれても泣くこともなく、じっと夕霧を見つめている。
「日暮、だそうよ。文月に似て、可愛いと思わない?」
野々姫は三つ編みにした横髪を弄りながら、紅色に輝く唇を吊り上げて、赤子の癒しに浸るように長い睫毛を伏せる。
弥生と琥珀も、赤子を覗き込んで微笑んだ。
「可愛いわね。姫様に似てる」
弥生のその言葉に、夕霧の瞳が揺れた。
ああ、この子が、美月の子。
どうりで、彼女の面影があったわけだ。
でも、何故野々姫が抱いているのだろう。この子の母親である美月の姿は、どこにもない。
「野々姫」
「なあに?」
「美月は、どこです……」
彼女は、無事だろうか。まさか、日暮を産んですぐに……。頭の中で最悪の結末が展開されて、一気に鼓動が速くなった。
「文月は静美の里にいるわ。この都まで間に合わなかったから、静美でその子を産んだらしいの」
野々姫は険しい顔でこう、続けた。
「その子をここに連れてきたのは、文月が従えている物の怪。実を言うとね、静美の里が水無月の怨霊に襲われて、壊滅寸前までに陥ったという報せが入ったの。恐らく、文月はその子を安全な場所に避難させたかったのでしょうね」
それは、まるで美月がたった今危機に陥っていると言っているようなものではないか。
「美月は……無事なのか…?」
「草木帳の使いが、迎えに行っているわ。落ち着きなさいな、赤子が不安になるでしょう?」
野々姫も、そう言っているが心配なのだろう。
──美月……。
菊ノ清城に行っても、草木帳に行っても入れ違いになってしまった。早く、会いたい。会いたい。
俯いて考え込んでいると、日暮の小さな手が目の前でチラついた。
「あなたのこと、心配なのよ」
弥生は日暮に優しい笑みを向けた。
すぐに会える。大丈夫。弥生はそう言って夕霧と日暮を安心させた。
「赤子に心配されるなんて情けねーぞ。ていうかさ、お前って父親じゃないのかー?」
琥珀に指摘されて、やっと自覚した。そう、日暮は夕霧と美月の子だ。
──父親……?
美月によく似た日暮が、夕霧を見て楽しそうに笑っている。
「何をそんなに不思議そうな顔をしているの、文月が知らない男と子をもうけたとでも?」
野々姫にさらっととんでもないことを言われて、夕霧はぐっと息を詰まらせた。
もちろん、別にそんな事思ってもなかった。ただ、父親という実感がわかない。
父親に愛情を注がれたことがないので、父親とは何なのかが、よく分からない。
どうするべきだろう。美月はどんな風に日暮を愛しているのだろう。
……………………………………………………
里の復旧作業が開始された。洪水で家が破壊され、多くの者が住む場所を失くした。
静美の頭、蟷郎の娘であるお蝶が、その者達を率いらなければならなかった。父を亡くしたばかりである彼女に、悲しむ時間など与えてはくれなかった。
そして、その洪水の元凶である大切な兄を自らの手で討った美月は、里を救った英雄のように扱われた。
この事件は、二人の心を傷つけた。
蟷郎の館で休んでいた美月に、女中がお茶を運んできた。御礼を言うと、里を救ってくれたのでと笑みを向けられた。酷く複雑だった。里は救えたが、この手で兄を殺してしまったのだ。
女中が部屋を出て行くと、美月と、湯気の立つお茶だけが残された。その湯気をぼんやりと見つめていて、気づいた。右目も、少しだけ霞んでいた。
そして、自らの手の平へと視線を落とし、唇を噛んだ。
──英雄なんかじゃない。
「私は…私は……っ…!」
──家族をも殺す、残酷な鬼だ。
雪女に取り憑かれた母を、憎き隻眼の鬼に蘇生させられた兄を、この手で殺した。
殺さなければならない事態だったのは分かっている。殺したことで家族の魂を救えたのだと、理解している。でも、何故家族を平気で殺すことが出来たのだろう。
──身も心も、人ではなくなったのだ。
その時、障子の向こうから足音が近付いてきた。ゆっくりと障子が開くと、瑠璃がそこにいた。
「瑠璃……」
良かった。親しい者に会って、安心したかった。今はそれだけでも心が休まるのだ。
「瑠璃……お蝶は大丈夫なの? 私も、そっちへ──」
「あんたは行かなくて良いだろ」
瑠璃に冷たく言い返されてしまった美月だったが、素直にわかったと、頷いた。
瑠璃は美月の傍に座ると、美月の瞳を見つめた。光を失った美月の左目は、瑠璃を映していなかった。
それでも、隠しているつもりなのか、美月は明るく微笑んでいる。それを見ているだけで、瑠璃の心が傷んだ。
「日暮は草木帳に無事に辿り着けたそうよ。叔父上様が守って下さっている」
「そう」
美月はそう言って安堵し、瑠璃は悲しげに返した。
物の怪を呼び出す度に体を蝕む沙華の呪い。それでも、我が子を守れただけで、十分であった。
「文月、草木帳が静美を援護するとの話だよ。復興が進み次第、あんたを草木帳に連れて行くそうだ」
「分かった。草木帳が助けてくれるなら、静美は何とか助かりそうね」
安心したように笑った美月だが、瑠璃の心はモヤモヤとしていた。美月は辛い時は笑っている。
「文月、あんたは何も悪くないよ」
兄を殺してしまった美月に、まずこの言葉を伝えたかった。美月は目を見開いて、空虚の瞳でじっと瑠璃を見つめた。
自信なさそうに俯く美月の肩を掴んで精一杯に思いを伝えた。
「文月は心の優しい、良い奴だよ」
美月の反応はというと、俯いたままだが、僅かに口元が緩んでいた。
「瑠璃、あなたに会えて良かった」
優しくて、頼りがいがあって、でも実は不器用で。そんなあなたに出会えたことを誇りに思う。
「ねえ、瑠璃。私はあなたの主ではなく、あなたの友でありたい。前にお蝶にも同じようなこと言ったんだけど、お蝶は真面目だから却下されちゃった」
悪戯っぽく笑う美月は、瑠璃は友達になってくれる?と好奇に溢れた声で聞いた。
「……親しくなってやらんこともないけど」
「あら、なら友達になってくれるのね。良かった」
そうは言ってない……いや、それでも良いか。
前まで敵だった鬼姫が、友となった。不思議なものだ。生きていると、何が起こるか分からない。そう、思える。
美月は、瑠璃の手を握ろうとして……。
「…………」
少し話だけなのに、呼吸がしずらい。死期が迫っているのだと思い知らされた。
「瑠璃……どうか、聞いて」
改めて、瑠璃の手に自分の手を添えた。
「私が死んだら、あなたは自由に生きて」
「何言って……」
「私は左目が見えない。すぐに、右目も見えなくなる。今もね、息が苦しい。そのうち動けなくなる。だから……」
お願い。そうは言われても、瑠璃は納得出来なかった。友になったばかりだというのに、すぐに死んでしまうというのか。
「そんなの……そんなの嫌だっ」
「瑠璃……」
「あんたは、まだ夕霧に会っていない。日暮を、自分の手で育てたくないのか!」
美月の瞳が潤んだ。
「日暮の成長を見たかった……大人になった日暮を見たいと、思っていた。──私は、まだ死にたくない……死にたくないのっ!」
まだ、生きていたい。あれほど死を望んでいた鬼姫が、我が子のために生きたいと、強く願った。
──その日の夜、瑠璃は手紙を書いた。
丁寧な字で、自分の思いを一枚の紙と一本の筆に託すように。
その手紙を、眠っている美月の枕元に置いて、
──館を出て行った。
………………………………………………
夕霧の活躍で鬼蛇を捕らえることに成功し、彼を牢獄にぶちこんだ。
娘が静美で子を産んだことを聞いた睦月は、あまりにも悲しげな表情をしていた。
──娘はもう長くない。
方法はある。鬼蛇の寿命を娘に与えることだ。だが、鬼蛇はまるで生き物ではないかのように、睦月の術が効かないのだ。
何かあるはずだ。何か。
思い詰めるように考え込む睦月に、客が来たとの報せが入った。
その客を見て、驚いた。この菊ノ清城に来たのは、美月の従者である瑠璃であった。
「お前……何故この城に戻ってきた」
そう問いかけると、瑠璃は決意に満ちた顔で、こう答えた。
「──私の寿命を、文月に与えてください」