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鬼姫の曼珠沙華  作者: 紫木 千
第四章 『頭領一家編』
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【第四章】ただの化物

 冷たい空気。冷たい空間。まるで霧に包まれた世界に居るようだった。ここは、一体どこだろうか。息を吸うと、喉の奥までひんやりと冷やされていく。

 さっきまですごく熱くて仕方なくて、死ぬかもしれないと思った。それが嘘のように消えた。

 背中が、水に浸っているかのように、冷たい。意識がはっきりしてくると、自分が仰向けに倒れていることに気づいた。


 ──ふふふ。


 若い女の笑い声がこの空間に響いた。


「起きたか」

「えっ」


 見知らぬ女が、眠っている美月の顔を覗き込むように屈んでいた。自分以外にも誰かが居たなんて思わなかった。慌てて立ち上がり、女を凝視した。

 女は美月の行動を見て、おかしそうに笑った。

 茶髪の、巫女装束を着た女だ。神の使いか。だとしたら、自分は死んだのだろうか。


「何を慌てている。別に取って食おうなどと思っていないから安心しろ」

「……どうも」


 誰だろう。その巫女をじっと見つめていても、やはり見覚えのない顔だった。だが、よく見ると、誰かに似ている。厳しそうな、でも、優しそうな女性だ。

 巫女は立ち上がると、美月を見て、懐かしそうに目を細める。


「お前は、濡烏にそっくりだね」

「濡烏……」

「お前の母親のことだよ。黒髪の美女だったからそう呼ばれていた」

「母上を知っているのですか?」


 美月の問いに対して、巫女は真っ直ぐに伸びた睫毛を震わせて、静かに答えた。


「……親友だった」


 驚いた。母に巫女の親友が居たなんて。


「あなたは、人間?」

「人間だよ。妖の血は流れていない」


 鬼と人間の巫女がどういう接点があって親友に至ったのだろうか。


「あの、ここは何処かご存知?」


 これは最初に聞くべき質問だった。だが、見知らぬ人間の女性が自分の母を知っていた事が衝撃的すぎて今の自分の身に起きている事に気が配れなかった。

 巫女は優しい目で美月を見つめて、それから寂しそうな目で辺りを見渡した。


「ここは、私の心と思って良いよ。冷たくて、果てのない。私以外、誰も居ない」


 美月は、巫女と同じように周りを見渡した。

 霧がかかっていてよく見えないが、この冷たい世界はまだ遠くへと続いているのだろう。これが、今目の前にいる巫女の世界なのだろうか。


「でも、私もいる」

「お前は、早く戻った方が良い。お前を待っている者がいるからね。小さな命が」


 巫女の言葉から、この肌寒い世界で初めて温かさを感じた。


 ──ああ、あの子が生まれた。


 頬を緩ませた美月を見つめて、巫女も微笑んだ。


「そう、母親は優しく微笑むものだ。我が子ほど愛しいものはない。だから、こんな冷たい世界を去りなさい」


 まるで、巫女にも子供がいるかのような話し方だ。


「ごめんなさいけど、冷たい方が魅力的じゃない? 月も、冷たいから美しい。あなたも」

「ふふふ」


 巫女は気品溢れる笑みをこぼした。


「さあ、もう戻れ」

「……もう一つ、聞いてもいい? あなたのお名前は、なんというの」


 美月の問いに、巫女は快く答えた。



「──私は、春日。夕霧と、小桜と小雪の母親だよ」



 霧に包まれていく春日は、早く戻れと美月を急かした。早く我が子に会いにいけと。その手で抱けと。



「──文月。日が暮れる前に、早くお行き。ああ、お前は、日暮れの闇がかった紅き空さえも美しいと言うのだろうか」






 赤子の産声が鮮明に聞こえてきた。自分を必死に呼び続けるお蝶の声が聞こえてきた。あの霧の世界から帰ってきたのだと確信した時、瞼が開いて、あの冷たい空気とは全く違う、温かな空気を吸い込んだ。


「姫様っ」


 美月は、生きて帰ってきた。お蝶は溢れる涙を拭いながら、目を覚ました美月に安堵する。

 すぐ近くで、赤子の泣き声が聞こえて、視線を動かした。瑠璃が布に包まれた赤子を抱いている。

 瑠璃は優しく微笑むと、美月の枕元にそっと赤子を寝かせた。


「男の子だよ」


 そう言って微笑んだ瑠璃を見て、美月は目を輝かせて、枕元の赤子に視線を移した。


「日が暮れた頃でしょうか、その方がお生まれになったのは」


 お蝶がそう言った。もう時期、朝になる。お蝶と瑠璃は寝る間も惜しんで美月の出産の手助けをしてくれていたのだ。


 ──お前は、日暮れの闇がかった紅き空さえも美しいと言うのだろうか。


 霧の世界で出会った女は、夕霧と小桜と小雪の母親、春日であった。

 あの場所で、霜月を待っているのだろうか。我が子たちを見守り続けているのだろうか。



………………………………………………………………



 鬼蛇が豪快に吹き飛ばされたのは、美月たちが城を逃げて間もなくのことであった。大きな坂を止まることなく隻眼の鬼は転がり落ちていく。やがて大樹に打ち付けられ、止まった。

 白い刀を手に、厳格な雰囲気を纏う鬼が後から静かに坂を下りてきた。呆気ない、実に呆気ない。あれほど会いたがっていたというのにこうもあっさりと負けるとは。

 鬼蛇はゆるりと立ち上がると不気味な笑い声をあげる。


「あいも変わらず、奇妙な男よ」


 鬼蛇は、睦月の刀に斬りつけられた事を最大の喜びに感じているようだ。

 睦月は背後に迫った黒い短刀を振り払って、鬼蛇を見据える。


「睦月様。再び、あなたと命の奪い合いをする時が来るなんて」


 睦月に斬りつけられた傷はあっという間に消えて、痛みを感じぬのか、鬼蛇は平気そうに微笑んだ。

 不死身となれば、捕まえるしかない。しかし、どのようにして捕まえるか。

 鬼蛇の短刀が四方八方から高速で飛んでくる。睦月はその場から一歩も動かずに全ての短刀を振り払っていく。


「しかし……」


 前方にいたはずの鬼蛇の声が、背後から聞こえた。

 睦月はすかさず鬼蛇の横腹を斬った。


「残念ですね、睦月様」


 血塗れになって転がっていく鬼蛇はそう言って、唇の端を吊り上げた。


「あなたにも、気づけない事があったのですね」

「ほう。余に気づけぬこととは、何だ」


 興味深そうにそう聞いた睦月の顔は、実に冷たい、無表情であった。

 鬼蛇は更ににやにやと嫌らしい笑みを浮かべて、傷の完治した体で立ち上がる。


「まさか、私が知らないとでも思ったのですか。この城に、文月姫様は居ないのでしょう」


 睦月は慌てることなく、すっと目を細めて、鬼蛇の思考を読み取り始める。何をしたいのか、この男。


「──可愛いですね。貴方様のお孫さん、お生まれになったご様子」


 鬼蛇は片方しかない目をうっとりとさせてそう言った。待て。その目は、こっちを見ていない。睦月の表情が徐々に強ばった。


 鬼蛇は、分身の繭の目を通して、美月の赤子を見ているのだ。


 孫を奪うために、娘に危害を加えるつもりだ。睦月の中で、怒りが生じる。

 繭が、美月たち一行についていっているのだ。


「睦月様、あなたの余裕を打ち壊す。それが実に面白いのです」


 鬼蛇の全てが、不快で、気分を害するものだ。よくもうちの娘に手を出してくれたものだ。

 野々姫は、息子のために何度だって睦月の命に逆らう。息子が何よりも大切だから。


 ──鈴紅も、瑞樹と美月のために、己が運命に逆らっていた。


「我が子……。のぅ、鈴紅」


 睦月は再び迫り来る鬼蛇の攻撃を払いながら、今は亡き妻の名を呟いた。

 鬼蛇は、睦月の微かな微笑みを見て、訝しげに目を細める。


「娘が欲しくば、この男を止めてみせよ」


 今のは、誰に向かって言ったのだろう。ますます眉間に皺を寄せる鬼蛇だったが、ここで思わぬ出来事に陥った。

 鬼蛇の体が、鎖のように伸びたお経に捕えられたのだ。


「──よろしいのですか、そのようなことを口にして」


 鬼蛇は片目を見開き、突如現れた男を凝視した。

 夕霧が、そこにいた。


「ほう、どんな奴かと思えば、春日によく似た男だ」


 かつて高い霊力を持つ巫女であった女と、よく似た男を、初めて目にして睦月は面白そうに笑う。

 鬼蛇はもがくことなく、経に縛られたまま、いつもの気味の悪い笑みを浮かべている。瞬間移動で逃げれば良いものの、何故か夕霧の霊力にかかるとその術が効かない。


「貴様、我が娘についてまわる小汚い虫をここに連れて来るが良い」

「おやおや、いけませんね。繭はとても良い子なのです。そんな言い方、可哀想ではありませんか」


 鬼蛇からそんな慈悲深い言葉が返ってくるとは思わなかった。だが、それが本心なのかは定かではない。


「繭は、私の言うことをなんでも聞いてくれる、自慢の虫なのです」




…………………………………………………………




 長月はついに、兄に逆らってしまった。自分の初恋の相手に、兄の企みを伝えたのだ。

 誰かのために何かをしたいと思ったことなどなかった。ただ、一度恋をしてしまった彼女への償いのために、体が勝手に動いた。


 夕霧と文月姫に起こった悲劇の全ては、長月のせいだった。


 文月姫が次期頭領に選ばれたと知らされた時、誰よりも努力をしていた葉月は文月姫を妬んだ。それでも長月の文月姫に抱いていた感情が消え失せることはなかった。

 しかし、その頃だっただろうか。今までは、文月姫とよく会っていたのに、彼女が次期頭領に選ばれてからというもの、全く会わなくなってしまった。

 それもそのはず、睦月が彼女の外出や他者との交流を徹底的に拒んでいたからだ。


 それでも、会いたくて。


 こっそりと文月姫の住まいを訪ねた時に見たのは、長月にとって酷なものであった。

 長きに渡り、恋い慕っていた文月姫は人間の男と愛し合っていたのだから。


 知らぬ間に好いていた女を、まさかの人間に取られていた絶望感。それが長月を突き動かしてしまった。


 文月姫を妬んで、何度か暗殺を企てていた兄に、夕霧のことを話してしまった。兄はもちろん夕霧を使って、ついに文月姫の命を奪った。



 ──文月に謝り続けて、己のしたことの全てに後悔しながら生きることとなる。


 文月に、子が出来た。兄と鬼蛇は、その子供を奪って殺すつもりだ。そうして怒りに狂った文月をも、殺すのだ。

 その話を聞いて、長月はすぐに行動に移した。その結果、兄の怒りを買った。



「長月」



 葉月は長月を射抜く程に鋭い瞳をしていた。


「お前……文月に、俺の事を伝えたな……」


 葉月は元から厳しい性格で、それが顔に出ることもあったが、少しだけ違和感があった。厳しい、というより許さないという感情が芽生えているようだ。

 目の前にいるのは、兄ではないとすら思える。


「兄上……」

「お前まで、俺を裏切るのか」


 葉月の目は正気ではなかった。一瞬、幼少期からの辛い経験により、心が壊れてしまったのかと思った。結局、皆、葉月から離れていって、弟にまで裏切られて、もう何も信じられないのかもしれない。

 唯一、葉月の元に残ったのは、鬼蛇だけだ。


「俺は、もう誰も信じない……お前も……お前だけは、信じたかった」

「…………」


 長月の眉間に皺が寄った。いつも兄のそばにいた長月は、もう見慣れてしまった兄の憎しみと悲しみの表情に罪悪感に掻き立てられる。

 文月を助けられた嬉しさ、兄を裏切ってしまった悲しみ。様々な感情が絡み合って、長月の心が動けなくなる。


「──!」


 気づいた時には、葉月の鎌が目前に迫っていた。

 長月は鎖で鎌を食い止め、振り払うと一歩後退する。


「兄上……!」


 構わず、葉月は長月の腹や急所、様々な所を狙って攻撃を続ける。

 驚愕した。兄が今、自分を殺そうとしているのだ。


「兄上、俺に、そこまで死んでほしいのかっ」


 葉月は答えない。闇に染められた空虚の瞳を向けられて、長月は酷く困惑した。何度呼びかけようとも、葉月には何の反応もなかった。兄と、戦いたくない。この手で、兄を殺めてしまったら、一生罪の意識に囚われてしまう。

 その時、気づいた。葉月から、僅かながら瘴気を感じた。


 ──鬼蛇の瘴気? 何故兄上からそんなものが……。


 いつの間に、瘴気を注ぎ込まれていたのだろう。もしや、葉月は操られているのだろうか。いいや、意識ははっきりとしている。ただ自暴自棄になっているだけのようにも思える。

 どちらにせよ、鬼蛇が原因なのだ。


「……っ!」


 長月は隙をついて、葉月の体を鎖で縛って自由を奪った。


「なあ、兄──」


 長月の鎖が引きちぎられた。引きちぎったのは、背中なら生えた斑点模様の羽をはためかせる醜い生き物だった。それを操るは、鬼蛇の分身である繭だ。


「お前、いつの間に帰ってたんだ……!」


 てっきり、繭は鬼蛇と共に菊ノ清城へと向かったものと思っていた。繭は葉月に再び自由を与えて、妙に落ち着いた口調で葉月を諭し始める。


「葉月様。文月姫は静美の里にいます。あなたを孤独にした、文月姫が、子を生んで一人だけ幸せになろうとしています。どうなさいますか? 殺しますか?」


 繭からは、鬼蛇と同じ瘴気を感じる。葉月は唇の端を吊り上げ、もちろん殺しに行くと鎌を持ち直す。

 兄の様子がおかしい。


「兄上、待ってくれ……!」


 葉月は止めに入る弟を突き飛ばして迷うことなくふらふらと歩いて行く。目的地は、文月がいる静美の里だ。そこは静美の里。忍びたちが多く集う、戦闘に長けた場所だ。そんな場所に行っても、葉月は捕えられるだけた。

 兄を追って捕まえようと試みたが、体中に糸が巻きついて、今度は長月が自由を奪われた。

 その糸は、まるで昆虫の幼虫が吐き出す繭のように、長月を侵食し始める。


「貴様っ!」


 長月は繭を睨みつける。


「兄上に何をした!」

「何……とは?」

「とぼけるな! どう見ても兄上の様子がおかしいではないか!」


 繭は既にこの場から去ってしまった葉月の行く末を見つめて、ああ、と顎を引く。


「心が弱いと、鬼蛇様に狂わされるので」

「やはり、鬼蛇か……兄上の心を狂わせたのは……!」

「心に闇を抱える者が、鬼蛇様と会話を交わし過ぎるとあのように頭がおかしくなるのですよ。お気をつけて」


 繭は年相応の笑顔を見せた。鬼蛇は普通ではないと思っていた。いや、それどころではなかった。鬼蛇も、その分身も、ただの化け物だった。




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