【第四章】白い刀と黒い短刀
葉月と長月は、このままでは死罰される。父は説得しても、聞いてはくれなさった。
しかも、腹の中にいる子を、"それ"呼ばわりしたのだ。美月は衝撃を受けて、暫く動けなかった。もしかしたら、生まれてきた子は誰にも愛されず、孤独に生きていくのかもしれない。可哀想で仕方なかった。
「私が死んだら、この子は一人になってしまう」
子がこの城から出られるか定かではない。孤立してしまうかもしれない。
思い悩んだ時、部屋のすぐ外に、気配を感じた。
「そこにいるのは、誰」
美月が声をかけると障子越しに見える影は話した。
「慈屋敷に仕える忍びにございます」
跪く影は、低い声でそう言った。
「慈屋敷ですって……?」
慈屋敷は、如月が葉月の誕生日に建てたお屋敷だ。
美月は警戒しながら、障子の向こうにいる忍びに問いかけた。
「何か用?」
「こちらを」
障子の隙間から、文が差し込まれた。それを受け取ると、忍びは美月が止める間もなくサッと姿を消した。
美月は渡された文をじっと見つめて、恐る恐る広げた。
「長月……?」
差出人は、長月であった。
その内容は、葉月と鬼蛇が美月とその腹の中にいる子を殺す計画を立てているということだった。それを知らせたのは、睦月が殺したはずの繭であると。
「楓……」
美月は長月の本名を呟いた。
美月の身を案じての文を送ってきた。長月にまで裏切られたのだとショックを受けていたが、まだ彼の中には良心が残っていた。
美月はお蝶と瑠璃に、文の内容を伝えた。しかし、三人とも疑問がいくつかあった。美月がいるこの菊ノ清城は誰にも落とせぬほど強力で防御に長けている。今最も警戒されている葉月が撃ち落とすには無理があるように思えるが。
「葉月がこの城に来ても、父上に殺されるだけ。簡単には私の元に来れないと思う。でも、鬼蛇は……?」
それを聞いて、お蝶と瑠璃も頷く。
「あの男は謎が多くて、どんな手段で城に侵入するか分かりません」
「そういえば……」
瑠璃は眉をひそめた。
「変な事言っても良いかい」
「何、瑠璃」
「葉月様は、何故か相当鬼蛇を信用していたんだよ」
瑠璃の不思議そうな顔に、お蝶は首を傾げた。
「それがどうしたの。一応、味方だし鬼蛇はずる賢いから信用するんじゃない?」
「そうなんだけど……」
あの見るからに怪しい男に信頼を寄せる葉月が、どうしても変に思えてしまう。瑠璃は何か引っかかっていた。
「とにかく、鬼蛇は警戒しましょう。……そうだ大変、葉月は時を司っているから時間を止める能力を持っているんだ」
葉月が時間を止めている隙に、城へ侵入する気かもしれない。
「でも、あの力は葉月にとっては相当な負担がかかるのに……」
「鬼蛇なら、上手く言って葉月様に使わせるかもしれないね」
瑠璃は鬼蛇の恐ろしさを知っている。あの男ならどんな手を使ってでも城に乗り込んでくる。葉月への負担など知ったことではないだろう。
「そうだ……二人とも、少しだけ待ってね」
……………………………………………………
美月は父の部屋へと足を運んだ。睦月は、如月と共に何か話し込んでいたようで、美月が来ると訝しげ目を細めた。
「何用だ。またくだらぬことをぬかしに来たか」
「お聞きしたい事がございます。よろしいでしょうか」
睦月は自分の前を軽く叩いて、美月に座るよう促した。美月は父と叔父という偉大な二人の前に座り、意を決した表情で話し始めた。
「父上は、鬼蛇と戦った事があると聞きました。鬼蛇と遭遇したのは、どこですか」
突然、何を言い出すかと思えば。娘は何のつもりだろう。
「菊ノ清城。この城に、奴は侵入してきた」
「あいつは、この城に入れたのですか……? 見張りがいるはずでしょう?」
「見張りは頭がおかしくなったが故に、余が全て殺した」
「なるほど、わかりました。鬼蛇は必ず、私を殺しに来ます」
「その時は、葉月もろとも奴を殺す。それで良かろう。まあ、もうこの城の防御は以前よりも固くなっておる。向こうも近づけまい」
睦月は葉月の父親がいる前で平然とそう返した。如月は何も言わない。息子が殺されるというのに、如月からはそれを止めようとする意思が伝わらない。
それに、このまま放置すれば、鬼蛇が必ず攻めてくる。
「父上、これを」
信じてくれないのであれば、と美月は長月からの文を父に渡した。
睦月はその文を広げ、睨むようにそこに綴られた字を目で追う。
「長月……」
睦月は文から娘へと、これが本物かと疑いの目を向ける。
「恐れながら、申し上げます。兄上」
睦月の横にいる如月が文を見つめて言った。
「この字は、長月のもので間違いないかと」
睦月は如月の言葉を信用し、納得したようだ。
「それで、なんだ」
「鬼蛇は武力ではないものを使ってこの城に侵入するのです。どれだけ防御を固くしたとしても、難なく突破されることでしょう」
「どういう意味だ」
睦月は鋭い眼光を美月に向けて、しかし、どこか興味深そうに聞いてくる。
但し、問題はどんな嘘でも見抜いてしまう、如月だ。慎重に言葉を選ばねば。
「鬼蛇は、他人の心を狂わせる能力を持っていると思われます。対象は、心を病んで、正常な判断が出来なくなるのでは」
睦月は眉間に皺を寄せて、目の前の娘を見据える。
「何故、そのような事が分かる」
美月は胸に手を当て、
「私が、その術にかかったことがあるからです」とはっきりと言った。
睦月は、嘘を見抜く力を持つ、如月の反応を横目で確認した。如月は美月に対して、特に疑いの目を向けている様子はない。
「竜宮での事。兄様が殺された時、私は心を病みました。叔父上様、私が草木帳に来た時、何か変わった事はありませんでしたか」
そう問われ、如月は顎を引いた。
「あの時お前は寝たきりの状態であったが、草木帳に着いた時には、何かぶつぶつと呟いて頭がおかしくなっておった。瘴気もそれに従ってどんどん濃くなっていった」
やはり、あの瘴気が原因か。あの瘴気は、体だけでなく心の奥底まで蝕んでいく恐ろしい毒であったようだ。
美月はそこで、城の見張りに起きた出来事を考察した。
「たとえば、鬼蛇が見張りの一人を大勢の前で虐殺し、恐怖を煽る事で精神を狂わせたのであれば、城への侵入も簡単でしょう」
睦月はそこで思い出した。そういえば、見張りの中でも一人だけ、見るも無残な有様の者がいた。両腕を切り落とされ、目をほじくられて、中の物が引きずり出されていた。
その周りにいた者たちも心を病んでぶつぶつと何かを呟きながら瘴気を発していたのだ。
「なるほど、それが奴の真の力か。となると、お前の言う通り、城を突破されるだろうな」
「恐れながら、父上。葉月も鬼蛇の術にかかっているのだと思われます」
「それがどうした。うつけ共を見逃せと。ならば、こうしよう。この文を届けたのは長月だ。長月だけでも助けようではないか」
葉月はどうなる。鬼蛇の思うままにされて、もっと状況が悪化するかもしれない。
「父上、まずは、葉月と鬼蛇を引き離したいのです。それから、葉月と話し合います」
「……好きにしろ」
少しの間が空いた後、ついに、父は了承してくれた。
「ありがとうございます、父上」
美月が部屋を後にした途端、如月はフッと笑った。
「弟よ、何がおかしい」
「兄上、葉月と長月のこと、殺さないおつもりでは?」
如月がそう言って微笑むと、睦月は鬱陶しそうに目をそらした。
「文月の言っていた、鬼蛇の呪術が確かなものであれば、文月は大したものですね」
「何がだ」
「文月もその術にかかっていたというのに、葉月の元に捕えられた卯月の生まれ変わりを助ける程に、意識がしっかりとしていたのですから」
感心したように如月がそう言うと、睦月はふんと鼻を鳴らし、「戯け」と低い声で返した。
「そのぐらい当たり前のことよ、誰の娘だと思うておる」
失礼しました、と如月はまたしても可笑しそうに微笑むのであった。
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弥生と琥珀と共に、優──否、夕霧は行方知れずとなった美月と、彼女の護衛であるお蝶と瑠璃の居場所を突き止めるために、竜宮を訪ねた。
突如、都に来たからだろうか、夕霧の姿を目にした途端、神無月は険しい顔で三人を静かに屋敷へと迎えた。
連れてこられたその部屋はとても静かで、小さな部屋だ。
夕霧と神無月が向かい合い、話が始まった。
「夕霧、随分と弱っているね。疾風も事情を知るまでは、毎日お蝶を探しに行っていたよ」
「三人の居場所を知っているのか」
「実は、睦月様が姫さんを草木帳に呼んだんだけど、それっきり戻って来なかった。おかしいと思って調べてたら、ある事が分かった」
神無月は更に真剣な顔を夕霧に向けて、こう言った。
「姫さんの腹の中には、子がいる」
それは、あまりにも衝撃的であった。
夕霧の後ろで話を聞いていた弥生と琥珀も、まさかの事態に絶句している。
妊娠している美月は安全な場所に、睦月の城に連れて行かれ、お蝶と瑠璃も付き添って城に居るらしい。
「姫さんはもう、人間じゃなくて鬼だ。赤子は半分鬼の血、もう半分は人の血を引き継いで生まれてくるだろう」
神無月は、生まれてくる子の父親が夕霧であると悟っていた。夕霧も、話を聞いた瞬間から、美月の腹にいる子が自分の子であることを分かっていた。
もしも、その子と美月が孤独を味わう運命にあるのであれば、今すぐにでも迎えに行かねばならない。
どうすれば会いに行ける、と夕霧は意を決した表情で神無月に聞いた。
「会うのは、難しい」
神無月は悔しげにそう答えた。
「だけど、君は会いに行かなければならない。早く会わないと、手遅れになる」
どういう意味だと、夕霧は眉間に皺を寄せた。「手遅れ」。この妙に心がざわつく言葉に、心臓が徐々に徐々に速く、五月蝿く、鳴り響いていく。
神無月は、何かを伝えようとして、躊躇った。夕霧に伝えなければならない事を、口にするのを珍しく怖がっている。
教えてくれ、何をそんなに恐れている。美月が、どうしたというのだ。
神無月はようやく口を開いた。
「──。姫さんは、子を産めば死ぬ」
神無月の心苦しい声が、静かなこの空間を冷たく裂いた。骨の筋まで、凍りつくような感覚に陥った。
「し…ぬ……? 死ぬって……」
「沙華の呪いで姫さんの体はとても弱っている。もしかすると、子を産んだ後、暫くは意識があるかもしれない。だけど、徐々に弱り果てて、最後は死ぬ」
美月は、選択を迫られている。自分の命か、生まれてくる子の命か。恐らく、優しい彼女ならきっと……。
会わなければ。彼女一人を、死なせやしない。
夕霧の決意を感じ取った神無月は、夕霧が美月と再会出来る方法を、全力で考えた。
「俺の、結界で君を菊ノ清城に連れて行く事が出来る」
神無月の提案は、とても体に負担のかかるものだった。竜宮を守りつつ、夕霧を守るというこの無茶な提案を、夕霧は了承する事が出来なかった。
「それはお前にはきついんじゃないのか。ただでさえ、都一つを守っているというのに」
神無月は首を振って、俺はそんなんで弱るような男じゃないね、と平気そうに笑った。その優しさに、心から感謝した。
「ありがとう、神無月」
そうと決まればすぐに支度しなければならない。
菊ノ清城は睦月のために建てられたという。人間は簡単に辿り着くことの出来ない。神無月の結界にいれば妖力により城に向かう事が出来て、尚且つ、誰かに見つかることもない。神無月の体力が持てばの話だが。
神無月は思った。このまま、文月姫と夕霧が今生の別れとなるなんて、あまりにも不憫すぎると。そんな悲しい運命を避ける為にも、自分が無理をしてでも二人を再会させるしかなかった。
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菊ノ清城の見張りは、鬼蛇対策の為に心を持たない人形に変わり、本来の見張り番の者達は物陰に潜み、様子を見る事となった。
兵の中では、心を操る鬼がいると噂になり、それは徐々に者共の心を脅かしていった。兵の中心となる者は、気高き睦月の兵が怯えていてどうすると弱気になっていた者達を奮い立たせる役目を果たした。
そうして幾日か過ぎていったある日。
とうとう、城の門が開き、隻眼の鬼が現れた。
何故、門番はあの如何にも不気味な雰囲気を纏う男をあっさりと通したのだろうか。見つからぬように門の外の様子を見に行った見張りによれば、門番をしていた人形は打ち壊されていたという。
そして、中で見張りをしていた人形を、隻眼の鬼はいとも簡単に打ち壊してしまった。
──なんだ……あの化け物は……。
物陰に潜み、様子を伺っていた見張り兵は生唾を呑み、逃げ出したい衝動と戦っていた。
全ての人形が灰となって消え去った頃、隻眼の鬼は周りを見回し、何かを探しているようだった。何をしているのだろうと見張りの一人はその鬼から目を離さなかった。
だが、なんということだろう。一瞬にして隻眼の鬼は姿を消した。
──消えた……?
目を必死に動かして、あの化け物の姿を探そうと視線を動かした時。
──!
背後にいた、唇の端を吊り上げる、隻眼の鬼と目が合った。
……………………………………………………
「姫様お逃げください!」
美月と瑠璃のいる部屋に飛び込んで来たお蝶は切羽詰まった様子でそう叫んだ。危険を察した美月と瑠璃は、美月の腹の中にいる子を気にかけながら逃げ出す準備を始めた。
瑠璃はあまり動くことの出来ない美月の手を引き、睦月が呼んだという牛車に乗り込んで行く。
──あのお方が……。
瑠璃は美月の手を軽く握りしめて、かつての主を思い浮かべた。
──あのお方の狙いは、夕霧と文月の子。
瑠璃は決心した。もしも、葉月が現れた時は、自分がこの手で殺そうと。それが償いだ。
「行こう」
瑠璃がそう声をかけると、牛車は舞い上がり、天を駆けていく。
睦月のおかげで早めに逃げる事が出来た。大丈夫だ。このまま如月の待つ草木帳へと辿り着ければ、もう心配いらない。
「姫様?」
突如、異変を感じ取ったお蝶の声がこの狭い牛車の中に響いた。見れば、美月が腹を押さえて苦痛の表情を浮かべていたのだ。
「まさか……」
そんなまさか。予定よりも早い。しかも、今来るとは。
「そんな、こんなに早く……? ──ここからなら、あそこに行くしかない……」
お蝶は決意に満ちた顔で、牛車の外に向かって叫んだ。
「静美の里へ向かってください!」
なんとお蝶は、自分の故郷へと進路を変更した。前の主、水無月を守れずに死なせてしまった事で、もしかすると里の皆から腫れ物扱いされるかもしれない。それでも、美月のためなら、後悔はなかった。
妖の忍びが住む、静美の里に到着すると、何事かと多くの者達が寄ってきた。
牛車は館へと向かうと、館の主人が姿を現した。歳をとっているが、厳格な雰囲気を纏っている。牛車から、お蝶が飛び出してきた。
「父上……!」
「何事だ、蝶」
主人はお蝶に睨みをきかせると、それから牛車に目を向ける。
「父上、お助け下さい! 睦月様の御息女、文月姫様の子が今にも産まれそうなのです!」
文月姫の名が出た途端、主人は一刻を争う事と判断し、すぐに準備を整え始めた。
館の女衆が苦しみ悶える文月姫を部屋に連れて行く。姫は既に破水していた。女達は姫に声をかけて、協力的に出産の手助けをした。部屋いっぱいに、悲鳴が響き渡った。もしかするとこのまま、子を産めないまま死ぬかもしれない。そんな不吉な考えが瑠璃の頭を支配し始める。
………………………………………………
文月が逃げ出せたという知らせを受け、睦月は刀を持って城の外へと向かった。
周りの見張り兵は人形と生身の者を含め、全員血塗れとなって地に倒れ伏していた。
案の定、そこに居た隻眼の鬼は、睦月の姿を見た途端、感極まった声を空に響かせた。
「ああ、睦月様っ! なんということでしょう、貴方様の方からそのお姿を見せてくださるとはっ!!」
鬼蛇は、長年の願いが間近に迫り、興奮気味に話し始めた。
「見てください。生きている者は皆、儚いものです。この世を去りゆく者達の、最後の瞬間を見届ける。素晴らしい美しい最高ではありませんか」
長々と喋り始めたので、睦月は鬱陶しい、と顔を顰めた。
「つまり貴様は、ただ単に死にゆく者共を見たいだけか」
「何をおっしゃいますか。そこには、こだわりもあるのですよ。例えば、貴方様とか」
「戯けこの一つ目が」
睦月は腰元の刀を引き抜いた。美しい月のような、白い輝きを持つ刀は人間が生み出すことの出来ぬ異様な妖気を纏っていた。
──そう、その刀……私の目を奪った刀……!!
美しい。鬼蛇は待ってましたと言わんばかりに歓喜する。
──睦月の『覇刀菊』。
今は竜となった鬼の武器職人が、一番最初に作った武器。
「生きている……感じます、命を。鬼神の武器には、鬼の魂が宿っているのですから」
「まだ話し足りぬか。そろそろ貴様の話には飽きてきた頃よ」
相変わらずの冷たい対応でも、鬼蛇は笑顔が絶えない。確かに、ここで時間を潰してしまうの勿体ない。早く楽しみたい。
何百本もの黒い短刀が鬼蛇を中心に姿を現した。
「楽しみですねぇ」
白い刀と黒い短刀の戦いが始まる。