【第三章】蜘蛛の足 獣の手
月火神社にて、弥生と皐月はある少年を捕らえていた。
弥生の腕の中でもがく鬼の少年、琥珀の目線に合わせ、皐月はしゃがんだ。
「おいこらガキ。何しにここに来た」
「知るかこの野郎!」
静かな田舎の神社に子供の騒ぐ声が響き渡る。
「お前なぁ、一応俺ら鬼神なんだが。まあ、いいか。とにかく静かにしてくれ」
と、皐月は呆れ顔で騒ぐ琥珀を諭し始めた。
無駄だったが。
痺れを切らした弥生は琥珀を押さえつけて怒鳴った。
「何しに来たのか答えなさい! 子供だからって我儘は許さないわよ!」
その怒鳴り声に琥珀の声はピタリと止んだ。傍に居た皐月もおお怖いと肩を震わせる。
弥生に睨みつけられ琥珀はようやく口を開いた。
「瑠璃に」
「はい?」
「瑠璃に会いたいんだ」
琥珀は怯えながら小さな声でそう答えた。
弥生と皐月は予想外の答えに戸惑う。てっきり葉月の命令で偵察にでも来たのかと思った。
「まあ、坊主。上がれよ」
皐月は子供に甘いようだ。弥生も仕方ない、と琥珀から手を離した。
その数時間後、お蝶と瑠璃を連れた美月が月火神社に訪ねてきた。
ちょうど良かった、と弥生は美月を神社に迎え、琥珀について相談した。
「あの小鬼が、瑠璃に会いたいって?」
「ええ。どうやら葉月様の命令でってわけではないみたいで」
弥生は「どうします?」と不安げに尋ねた。
危険性は無いようにも思える。とりあえず、瑠璃と対面させてみる事にした。
琥珀は瑠璃を見つけるなり、彼女に抱きついた。
「瑠璃! 竜宮にいると思ったのに見かけなかったから!」
「あんた、葉月様はどうした?」
「黙ってここまで来た」
琥珀は姉のように慕う瑠璃の存在に安堵した。
「鬼蛇に、瑠璃が生きていることを勘づかれてしまったんだ! 今は何もされていないけど、すぐに俺も瑠璃も殺されちまうよ!」
琥珀の訴えに瑠璃は眉間に皺を寄せた。
近々死ぬ運命であると知り、全てに意味が無いと悟ってしまい、殺されてしまう恐怖に怯える琥珀を抱きしめることにさえ躊躇してしまった。
瑠璃は自分達の存在価値の低さを改めて理解してしまったのだ。
「琥珀……」
「もう俺は、鬼蛇にいつ何をされるのかわからない!」
「…………」
鬼蛇の行動は、葉月によって決まる。葉月の命令次第で瑠璃と琥珀の運命が決まる。
どうせ、愛されてなどいないのだから、死からは逃れられない。
ではどうする。琥珀と共に逃げようと言うのか。それとも共に死──
「──瑠璃」
鋭い声が考えに苦しむ瑠璃の頭を裂いた。
傍に居た美月が瑠璃の肩を掴んでいる。
「瑠璃。姫様の呼びかけに無視とは良い度胸をしている」
「お蝶、良いの」
美月は瑠璃の手を握って微笑んだ。
「その子はどうする? このまま鬼蛇のいる葉月達の元に帰すのは危ないと思うのだけれど」
「…………出来れば、琥珀の事は助けたい。私は鬼蛇に殺されかけたんだ。きっと問答無用で琥珀のことも……」
瑠璃は襲ってきた不安に怯えつつも、表に出さぬよう必死に努めた。けれども、美月は瑠璃の抱えるものをしっかりと理解していた。
「大丈夫。私が救ってみせる」
美月の言葉が一気に不安を吹き飛ばした。
瑠璃は目を見開いて姫を見つめた。この姫なら、琥珀を救ってくれるのではないかと僅かに希望を抱いた。それほどまでに、美月の言葉は強く重みがあった。
「瑠璃は私のお願いを聞いてくれたから。傍に居てくれたでしょう? だから今度は私が、あなたを救ってみせるから」
瑠璃は分かった。文月は私を必要としてくれるのだと。
突如、後ろに控えていた弥生が険しい顔で縁側の向こう側を睨んだ。
「今度は何だ、弥生」
「う……何か、足音が沢山……」
皐月は気味の悪そうに顔を歪める弥生に首を傾げ、弥生の視線の先を見つめる。
「足音……? 」
美月も耳をすましてみるが聞こえてこない。弥生の地獄耳が聞き取った多くの足音とは一体……。
沢山の足音、身に覚えがないか記憶を探っているととある答えに辿り着いた。
「蜘蛛……?」
その時、その足音はすぐ近くまで迫った。
「まさか……!!」
人一人分の大きさほどの大蜘蛛が美月たちに飛び込んでんきた。
全員外へと避難した時には既に遅く、同じような大蜘蛛たちが美月たちを取り囲んでいた。
その中心に立つ、般若面を付けた少年が聞き覚えのある声でこう言った。
「──葉月様を裏切りましたね、仕方のない子です」
少年が右手を上げると蜘蛛たちは一斉に美月たちに食らいつこうと襲ってくる。
皐月は一匹殴り飛ばすと叫んだ。
「逃げろ!」
美月たちはその声を合図に駆け出した。
般若面を取り外した少年、絹は逃げて行く美月たちの背中を見つめて蜘蛛たちに命じる。
「文月姫は生け捕りに。弥生と皐月は確実に殺してしまいなさい」
命じられた蜘蛛たちは全速力で美月たちを追いかけ始めた。
この状態を人の目に晒してしまってはまずい。美月たちは人里離れた山に移動し始めた。
蜘蛛たちは美月たちを追って気を薙ぎ倒しながら山を登ってくる。
「しつこいし、見てて気分が悪いわ!」
弥生は矢を放ち、植物たちで蜘蛛の行く手を阻んだ。
もっと遠くへと足を速めた時、前方から聞こえる足音に美月たちは絶望した。
敵の尋常ではない程の数の多さに絶句した。
「囲まれた!?」
弥生と皐月はそれぞれ武器を持ち、向かってくる蜘蛛に立ち向かった。
「姫! そいつらと一緒に逃げろ! 俺と弥生は後で追いつく!」
「二人だけでこの数を相手にするの!?」
「決まってる! 俺らは強いからな!」
皐月は自信満々にそう言い放ち、槍を大きく振るって相手を何体か吹っ飛ばした。
ここで迷っている暇もない。
「必ず生きていて!」
美月とお蝶、瑠璃、琥珀は走り出した。
「姫様、本当によろしいのですか?」
「恐らく、敵の半分はこっちを追ってくるはず」
「え……!?」
お蝶は振り返った。確かにあの場にいたうちの何体かはこちらを追って来ている。
お蝶は一番近くまで来ている蜘蛛に苦無を命中させた。
「…っ……姫様、お逃げください! あたしが足止めをしておきます!」
「駄目に決まってる! 何を言うのお蝶!」
「あなたを守るのがあたしの役目です! あなたは生きなければならない!」
──生きなければならない……。
「姫様、お忘れですか? あなたは頭領となるお方です。睦月様の直接の血を継いでいらっしゃるのはあなただけです!」
お蝶の言葉が胸に刺さった。
──私は、頭領の娘。
だから、死ぬ事も出来ないのだ。そして、そんな自分のために誰かが犠牲になるのだ。
「お蝶……!」
「早くお逃げください!!」
お蝶は必死になって叫んだ。美月は悔しげに俯き、瑠璃と琥珀を連れて逃げた。
泣くことなど許されない。瑠璃は苦しさに耐える美月を横目で見つめて呟いた。
「あんたが私に、傍に居ろと言ったんだ」
瑠璃は青い炎を撒き散らした。炎に焼かれる蜘蛛たちは獣のような叫びを上げて力なく倒れていく。
「瑠璃……!」
「勘違いすんな! 琥珀を守るためだよ!」
瑠璃は覚悟を決めて、自分の主となった鬼姫に向き合った。
「傍に居てやるからその絶望のどん底にいるような顔をどうにかしな!」
「……!」
美月は今自分が情けない顔になっていたのだと知って恥ずかしくなった。
けれども、瑠璃の本気の声に答えなければならない。主は主らしく、堂々としていなくてはならない。
瑠璃と琥珀を救わなければ。
その時、瑠璃と琥珀に鎖が巻きついた。
「……あれは…っ…!」
それに気づいた瞬間、鳩尾に衝撃が走った。
まさか前方に敵が居たとは……!
視界に入ったその相手を見て、目を見開いた。
──長月……?
倒れ込んだ美月を受け止めて、長月は溜息をつく。
「面倒なことをしてくれたものだ……」
鎖に捕らわれた瑠璃と琥珀はまさかの相手に驚愕した。
このまま連れて行かれたら殺される。瑠璃は覚悟を決めて青い火を灯し、長月に向けて投げつけようとした。
「良いのか瑠璃。兄上に会えるというのに」
「何……」
「兄上はお前に戻ってきてほしいのだ」
嘘だ。そんなの、信じられない。
「今更何言ってんだい。あのお方は私に必要ないと言ったんだ!」
確かにそう言われたのに。今更もう戻れない。
そんなの、あんまりじゃないか。
「馬鹿な女だ」
長月はそう吐き捨てるとそれ以上は何も言わなかった。
他の者の愛情というものに心底呆れ返る長月は鎖で縛り付けた瑠璃と琥珀と、気絶した美月を連れて闇の中に消えていった。
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瞼をゆっくりと開くと視界に入ってきたのは光ではなく、闇であった。
ゆっくりと起き上がろうと手に力を加えた時、違和感を覚えた。手を上手く動かせないのだ。
視線を下ろしていくと自分が縄で強く縛られていることに気づいた。これは自分の力だけで簡単に解くことは不可能だと判断し、辺りを見渡す事にした。
今、石が積み重なって出来た壁に囲まれている。そこから僅かに外の光が漏れている事から地下ではないと分かる。そして、ここに居るのは自分だけ。
──瑠璃と琥珀がいない。
一応もがいてみるが縄は解けない。
「こんな立派な牢獄……葉月たちは一体どこに住んでるの……。それに、何でここに連れてこられたの……」
暗くてよく見えなかったが、壁を伝って行くと木で出来た格子の感触が肩に伝わった。
美月は物の怪を呼び出して格子を壊すよう命じた。影から次々と這い出てきた物の怪たちはその格子を掴むと一気に力を加え始める。
逃げられる、そう確信した時だった。
この牢獄の外の壁に一定の間隔で取り付けられた蝋燭の火が灯り、この暗い空間を照らした。
「ああ、勝手に逃げないでください」
灯に照らされ姿を現した鬼蛇の両手には黒い短刀が沢山握られている。
その短刀は美月の周りを取り囲む物の怪たちに突き刺さった。
「──ッ!」
肩や背中、体のあらゆる所に鋭い痛みが走った。鬼蛇から与えられた苦痛は物の怪たちと痛覚が繋がっている美月にも影響を及ぼした。
更に物の怪たちの体は短刀で床に固定されてしまい、美月の身動きも取れなくなってしまった。
「女とは、か弱きものでは? 悲鳴まで堪える事はないのですよ?」
唇を噛み締めて痛みに耐えた。
それに、何を言うかこの狂鬼。女の悲鳴を聞きたいだけの一種の変態のようにも思える。
物の怪たちから恐怖、憎悪などの負の感情が流れ込んできた。
「葉月に会わせなさい、今すぐに」
「おや、我が主に会ってどうするのでしょう」
「……主」
「はい?」
美月は鬼蛇を睨みつけた。
「本当に葉月を主だと思ってるの?」
この男がどのようにして葉月と知り合ったのか知らないが、葉月に対して絶対的な忠誠心を持っているとは言いきれない。
鬼蛇は薄気味悪い笑みを浮かべたまま、美月を見下ろす。その目は笑っていない。
「そうですね、どちらかというと契約でしょうか」
「契約……?」
鬼蛇はそうですそうですと何度も頷いた。
「私の望みは、あなたのお父上、睦月様ともう一度戦うこと。葉月様は睦月様の血族の者であり、しかも全ての鬼神の命を奪う計画を立てておいでですよね? そんなお方のお傍に居れば、睦月様に会う事が出来るかもしれないでしょう?」
すまし顔の鬼蛇憎しみの視線を向け、美月は鋭い声で反論した。
「葉月を、利用しているの……?」
「利用だなんて。これは私と葉月様、お互いの願いを叶えるために協力しているだけなのですよ」
「お前に父上は殺せない……!」
鬼蛇は瞬きを繰り返すと、眉毛を八の字して溜息を零した。この態度にはつい苛ついてしまったが、冷静を保ち、感情を表に出さぬように努めた。
「あなたの兄上様は殺せました」
その時、牢獄中に獣の鳴き声が大きく響き渡った。短刀が突き刺さり身動きが取れない物の怪たちは鬼蛇に向かって怒りと悲しみのまま嘆いた。
「静かに」
美月のやっとの思いで絞り出された声に反応し、鳴き声はピタリと止んだ。
鬼蛇は唇の端を吊り上げて短刀を取り出すと更に全ての物の怪の頭に打ち込んだ。
物の怪たちが悲鳴をあげる。美月も頭を貫かれる感覚に顔を歪めた。
「ああ、私としたことが本来の目的を忘れていました」
「本来の目的…………?」
「ええ、あなたも疑問に思った事でしょう。何故、自分は殺されていないのか。何故、わざわざ牢獄に閉じ込める理由があったのか。あなたに聞きたいことがあったのです」
「聞きたいこと……」
鬼蛇は美月に歩み寄ると動けない美月の目線に合わせて、しゃがみこんだ。
「睦月様の居場所ですよ。あのお方はどこにいるのです?」
……………………………………………………………………
誰かに揺さぶられ、目を覚ました。
木造りの立派な天井が目に入り、視界の隅に顔を真っ青にした琥珀の顔が目に入った。
「琥珀……」
「瑠璃、大丈夫か?」
瑠璃は起き上がって辺りを見渡した。
「琥珀。ここがどこかわかるかい?」
「葉月様のお屋敷だよ」
「……ここを出よう」
瑠璃は立ち上がり、障子に手をかけた。その後ろに琥珀が付いてくる。
障子をゆっくりと開き縁側の向こうに広がる幻想的な庭。広すぎやしないか。
だが、瑠璃たちをもっと驚かせたのは障子の向こう側にいたやたらと頭のでかい、子供のような外見の妖であった。
「か、勝手に外へ出られては主に怒られます!」
妖は瑠璃に向かって両掌を向けて部屋へ押し戻そうとする。
「はあ……どきな」
「わっ……!」
瑠璃は妖を押し退けた。
妖はそれでも諦めずに瑠璃たちを引き止める。
「何だいこの頭でっかち。悪いけどあんたに構ってる暇はない!」
「しかし、葉月様にはあなたがたにはここにいてもらうように仰せつかっております故に、言うことを聞かなければこの頭がふっとんでしまいまする!」
「…………」
面倒なことになってしまった。
琥珀も困った顔でその妖と瑠璃を交互に見る。
「お願いでございます。どうかここに……!──葉月様?!」
妖の驚きに満ち溢れた声に、瑠璃は恐怖、歓喜、悲しみと数多の感情が迫り来る感覚に体が動かなくなった。
琥珀は硬直する瑠璃を見上げて困惑していた。
この世で最も会いたくなかった、愛する主。その存在は瑠璃たちの数歩先で立ち止まると穏和な声で瑠璃の名を呼んだ。
「おかえり、瑠璃」
おかえ、り……。
その言葉は混乱に陥ってぐちゃぐちゃになった瑠璃の頭の中にスっとしなやかに入ってきた。
隣に感じる小さな呼吸音。そうだ、琥珀がいるんだ。ここで間違った行動を取れば、二人とも死んでしまう。
意を決した瑠璃は無表情を努めて、ゆっくりと顔を上げた。
「葉月様……」
このお方は、何も変わっていなかった。その表情、仕草、何もかも。初めて会った時に、惹かれたあの時の感情が蘇る。
「瑠璃、俺の元へ戻ってこい」
まさかの提案に、瑠璃は訝しげに眉を顰める。
「あの日、あなたは私に仰いました。要らないと。何故、今なのです? 今度は要るのですか」
「誰に向かって話している」
葉月は鋭い視線を瑠璃に突き刺す。それでも瑠璃は狼狽えることなくはっきりとした口調で話した。
「私は、あなたに尽くしてきた。でもあなたは……」
私は、あなたを愛していた。でもあなたは……。
瑠璃は自分の気持ちを話してしまいそうになり、口を噤んだ。
わかっていたから。想いを伝えても、利用されるだけだと、わかっていたから。だから、今まではこうして傍でその想いを秘めているだけで十分だった。
「すまなかったな、瑠璃」
「え……」
あっさりとした謝罪が聞こえて昂りすぎて溢れていた感情が一気に消えた。
「瑠璃、お前には文月になってもらいたかったのだ」
「文…月……?」
「文月になる条件はこの世を、そして自らを憎む鬼であること。お前はそれに適していたから、突然捨ててしまえば更に負の心が増すと思ったのだ」
「そんな……」
「あとは、今の代の文月を殺せば良かったのだが……」
瑠璃を鬼神に、文月にするために、捨てたのだ。
その事実を知った途端、今まで抱え込んでいたものは何だったのだろうと疑問を抱き始めた。愛する主に捨てられた悲しみに悩みに悩んだこの短い時は全て無駄だったのか。
「戻ってくるのか、決めるのはお前だ。待ってやるよ、瑠璃。答え次第で、お前と琥珀の事は考えよう」
瑠璃は目を見開いた。
ここで、もう一度葉月を選べば、自分も琥珀も助かるのだ。
「俺の元に戻るのであれば、お前には文月を殺してもらう」
「え……」
「当然だろう。鬼神は死ななければ次の代には引き継がれない。今の代の文月を殺せば、お前が文月になれる」
あの子を、殺す……。
この手を握ってくれた文月を。こんな自分にそばにいてほしいと言ってくれた文月を、殺す。
迷ってしまった。前の自分なら躊躇わずに葉月の手を取っていただろう。
だけど、今は……。
──文月と葉月。どちらを選ぶべきなのか。