【第三章】桜吹雪
どこを見ても桜、桜。
桜の花弁が満開に咲き誇り、地も空も桜色に染め上げられている。
美月はその華やかな景色に見とれている。
「今度、月火神社に行って弥生と皐月も誘ってお花見したいな。小桜と小雪と一緒にお弁当作って。楽しそう……」
小さな花弁は儚くも最後まで華やかで美しい。それでも、散っていく花々を見て優は眉間に皺を寄せてしまった。
そんな彼を隣で見ていた美月は首を傾げた。
「桜は嫌い?」
「嫌いじゃない……」
美しいが、何となく寂しさを誘う。
好きになれない。何故なら散りゆく様に美月を重ねてしまったから。
「すぐに散ってしまうだろ」
思った事をつい、口にしてしまった。誘ってくれた美月をがっかりさせただろうか。
だが、そんな心配をしなくても、美月はいつもの様に笑ってくれた。
「そうだね」
孤を描きながら舞い落ちてきた何百何千にもなる桜の花弁に紛れ、美月は寂しそうに呟いた。
そのまま桜に攫われて消えてしまうように思えて、思わず美月の手を掴んだ。
──?
美月の手は驚く程冷たかった。
美月は振り向き、その手を握り返して、優しくこう言った。
「すぐに散ってしまうからこそ、今この瞬間を大切にしようって思える。だから桜は最後の瞬間まで美しく在ろうとするの」
美月は短い時を生きる花々を、まるで自らを写す鏡のように見つめ、寂しそうに笑う。
「──美月!」
突然、美月は足元から崩れた。
慌てて彼女を抱きとめた。やはりまだ傷が──。
「……あれを使った後は体が怠くなるからね」
「まさか、昨日沙華の呪いを……」
あの技は美月の寿命を削る。使うなと言ったのに。とうとう使ってしまったのか。
「何で使ったんだよ! 前に使うなと……」
「使わなければ、あの場で死んでいた」
優の腕の中で美月はまた笑った。弱々しく。
「そうだね。母上も兄様も、私の目の前であっという間に死んでしまった。皆、皆……すぐに散っていくの。私の前から皆去って行くの。私も──」
「笑うな」
今の美月は何かおかしい。いや、だいぶ前から美月の様子がおかしい。気づくべきだったのだ。
彼女の前世の生涯や生まれ変わってからの育ち。そして大切な者達の死。
──美月の心は既に滅茶苦茶に壊されていた。
「もう、笑わなくて良いから」
腕の中で美月は首を傾げた。
笑ってくれる美月は好きだ。それでも、自分を誤魔化す為に笑って無理をする彼女を見るのが辛かった。
「俺は傍に居るから」
「…………」
「もう二度とお前の事を忘れないから…! だからそんな事言うなよ! お前を死なせてたまるものか!!」
美月の命をそう簡単に散らせやしない。
彼女を傷つけるものは全て始末する。そうしないと、傷ついて傷ついていつの日か、滅んでしまう。
美月を失うのが怖い。怖くて仕方ない。
何故前世の自分はあんなにあっさりと彼女の命を奪えたのだろう。それを思い出すだけで彼女を傷つけたこの手を切り落としたくなる。
美月は死を覚悟しているのだ。沙華の呪いを使っても構わぬと思える程に。それではいつ滅んでもおかしくない。
「お前の傍から離れないから…! 大丈夫だ、俺が──」
「優」
微笑みが失われ、濁りきった目を向ける美月は冷たい手で優の頬に触れた。
「私は、あなたの枷になんてなりたくない」
その時、美月の頬を一筋の涙が伝った。
「あなたが傍に居てくれると心が温かくなる。でも、あなたが幸せになれるのならもっと温かくなる」
「美月……」
桜が倒れた鬼姫と人間の男に降りかかる。儚く、散っていく。
優は美月の冷えきった手を握って、泣きながら微笑んだ。
「お前と共に居られることは枷ではない。それが一生分の幸せになるのだから」
一生、共に居たいのだから。
「死なせないよ、美月。絶対に」
彼の決意を聞いた美月の目に再び光が宿る。
「夕霧……」
美月は男の真の名を口にした。
互いの額を寄せ、その温もりを感じた。
しん、と静まったこの場所。周りは桜色。この世界にたった二人しか居ないようだ。
そんな場所で二人で暮らせたら良いのにと、願ってしまった。
美月の肩を抱き、今という時を懸命に生きる花を見ながら地に腰掛けた。
美月は肩に寄りかかり、その景色を眺めた。
春の心地良い風が吹く。温かくて優しい風が。今は十分幸せだと思う。これ以上望んだらバチが当たりそうだ。
高校三年になると進路を決めなくてはならない。訳ありだらけの自分たちはどう生きるべきなのか。美月と居られるのならどうなっても構わない。今が続けばそれで良い。これは我儘だろうか。
暫くして、春の風が寒々しい冬の風へと変化した。
「……誰だ」
美月の肩を強く抱き、正体の分からない何かに警戒した。
『温かい季節はどうも好きになれないねぇ……』
どこからか聞こえてきたその声。何処かで聞いた事があるような……。
背筋が凍る程冷たい風は短命の花々の寿命を早めるように吹き荒れる。
「まだ生きていたのかい、文月姫様」
黒い髪、白い肌、白い着物。
実体を持たない透けた存在は唇の端を吊り上げた。
「あなた……どうして……!」
美月と優はその存在を凝視して震える声で叫んだ。
「どうしてここに居るの、雪女……!」
………………………………………………………………………
かつて、代々文月の亡骸に取り憑いて鬼を殺し続けた雪女の亡霊が居た。
美月の前世の母であった先代文月──本名、鈴紅──の亡骸にも取り憑き去年の冬、卯月の命を奪った。
しかし、その雪女の亡霊は成敗したはずなのに今、目の前にいる。
美月と優は立ち上がり、雪女の亡霊を睨みつける。
「何なの……滅びの力を持つ曼珠沙華でもあなたを消す事が出来ないというの……!?」
雪女は無造作に伸ばされた前髪から覗き見える鋭い眼光を美月に向けた。
「ああ、それねぇ? あの時、間一髪で逃げられたんだよ。あの女の体から……」
ねっとりとした口調で雪女は話した。
憎い。
美月はぼろぼろの体で曼珠沙華を呼び出して鞘から抜いた。
「だったら今ここで…っ…!」
「やめろ美月! 今無理したら……」
優は感情的になった美月の肩を掴んだ。
美月は殺意に満ちた目を母の体で好き勝手した雪女を睨みつけた。
「鬼姫ぇ。落ち着いて聞きなよ」
「誰がお前の話を……!」
「昨日、見たよ。糸と戦うあんたを」
雪女の口からその名を聞くとは思わなかった美月と優は目を見開いた。
「あんたらは、鬼蛇がどういう奴なのか知ってんのかえ? 鬼蛇はね、命がいくつもあるから一度殺したくらいだとすぐにまた蘇ってしまう」
その言葉を聞き、美月は悔しげに俯いた。兄を殺したあいつの命を早く地獄に突き落としてやりたいのに。
雪女はにぃ、と笑って美月たちに近づく。
「あたしも、奴が憎いのさ。何故なら、あたしの夫を直接殺した奴だからね」
──鬼蛇が、初代文月を殺した?
思いがけない真実に美月と優は眉を顰める。
「奴の事、あたしゃよく知っているよ。教えてほしかったら協力してほしいのさ」
「─! 私の母上の体で卯月を殺しておいて、協力しろと? どこまでも勝手ね……!」
「鬼蛇を、殺したくはないのかえ?」
雪女の更なる問に言葉が詰まった。
鬼蛇を、殺したい。憎い。でも、目の前に居るのはあの雪女。どう返答すれば良いのだろう。
美月は隣に居る優と顔を合わせる。優も困惑していた。
考えに考えて、美月はやっと答えを出した。
「ええ、殺したい。奴を止めたい」
「へぇ……」
「……奴を殺す為に、教えて欲しい」
「ふふ……」
雪女は面白そうに笑うと何度も頷いた。
「ええ。良い、良いじゃないか。奴の死に様を見てからお前と殺り合うのもね。ならば教えてやろうかねぇ」
雪女はそう言って美月の曼珠沙華に視線を移した。
美月は心の中で舌打ちすると曼珠沙華を鞘の中に戻した。
……………………………………………………………………
ある鬼が、死んでいった同胞の魂を使って世の全てを司る十二の武器を作った。生きた武器。それらは自らの意思で主を選んだ。
武器に選ばれし鬼達は集結し、鬼神という一族を築いた。
──その中に、夫はいた。
当時の鬼神は他種族同士の結婚を特に禁じていた。それでも、夫、初代の文月は雪女であるあたしを妻に選んだ。子も生まれた。どんなに鬼達に嫌われようとも、あたしも夫も幸せだった。
鬼蛇という存在は、初代の睦月が生み出したものだ。多くの命を持つ奇妙な男は初代の睦月に付き従った。
鬼神たちは雪女と結婚した夫を呪われていると称し、夫と子は鬼蛇に殺された。
あたしはその後で、初代睦月と、後は覚えていないが他の何人かの鬼神に囲まれて殺された。
憎かった。憎くて仕方なくて。夫と子供を殺した鬼蛇と、鬼神たちが憎くて。
気づけば物の怪よりもタチの悪い悪霊になってしまった。
鬼蛇の命は全部で四つ。糸、絹、そして繭って奴を殺してそこで初めて鬼蛇本体を殺す事が出来るんだ。
糸は鬼姫が殺してしまったから後は絹と繭を殺さなければならない。初っ端から鬼蛇を殺しても、奴は何度でも蘇る。何せ、初代睦月が生み出した化け物だ。そう簡単に命は奪わせない。
……………………………………………………………………
「さあ、鬼蛇についての全てを教えてやったんだよ。鬼蛇を殺す為に協力してくれるかえ?」
全て説明し終えた雪女はのろのろとした口調で美月に協力を促す。
にやにやとしたその顔に苛立ちを感じる。
その時、耳元で誰かの囁きが聞こえた。
──『嘘ついてる』
美月は雪女を鋭い目で見つめ、鞘に仕舞った曼珠沙華を握りしめる。
「確かに、あなたの話は本当らしいね」
「そうだねぇ。あたしはいつでも協力出来るよぉ?」
「──でも協力するっていうのは嘘でしょう?」
美月は曼珠沙華を鞘から引き抜いて居合斬りを試みた。だが、雪女は素早く避けて腹を抱えて笑った。
「きゃははは…っ…! 親切に教えてやったってのに無礼な女だねぇ!」
「…っ……!」
「美月!」
優は突然顔を歪めた美月の肩を抱き雪女を睨みつける。
優の顔を見つめ、雪女は愉快そうに語る。
「そういえば昔、あんたにそっくりの女に成敗されそうになったさぁ。結構強い巫女だった」
優は母である春日を思い出した。母はこの雪女と戦った事があるのか。
美月は優の手を借りながら立ち直り、曼珠沙華を握りしめて殺意を向けた。
しかし、雪女の笑顔が絶えることはない。
「折角だからお命頂こうかねぇ鬼姫…!」
雪女は右腕を天に向けた。春の穏やかな雰囲気が曇り空により掻き消されていく。どんどん風が冷たくなっていく。
美月と優は見覚えのあるこの光景に雪女に怒りを覚える。
「あなた……また誰かを殺すつもり……!? まだ鬼神の殺戮を止めないと言いたいの!?」
「やめるつもりないさっ!! あたしの家族を、あたしを殺した鬼共め…っ! 許すつもりなどないわっ!! 全員の首を並べて家族に捧げてやるぅっ!!」
風が吹き荒れる。桜が暴風に振り回され仕舞いには木の幹からばきばきと音を立てて折れていく。
雪女は伸びた鋭い爪を美月に向けて飛びかかる。優は美月を庇い、雪女を睨みつけて風に負けじと叫んだ。
「こいつに触るな…っ…!!」
「……!」
雪女の体がぴたりと動かなくなった。
「なっ、これは……!?」
動かなくなった体をよじってもがき始める雪女の体には、お経の文字が鎖の様に何重にも巻きついていた。
雪女は優をある女の姿と重ね、悔しげに叫ぶ。
「春日っ…!!」
その隙に美月は雪女に急接近し、曼珠沙華を構える。
「もういい加減に眠れ!!!」
美月が刀を振るった直後、雪女はその姿を消した。
美月と優は消えた雪女の姿を探してあちらこちらを見回す。だが、彼女の姿は見当たらず、冬に覆い尽くされていた春の景色は元に戻っていた。