【第三章】恋はこれにて終わります
優と小桜が家を出てから数分経った。
「──おいで」
一言で黒いモヤが目の前に現れた。やがてそれは化け物の姿となって目の無い真っ黒の顔を美月に向けた。
「どうだった?」
『怪我してたよ。そこに瘴気があった』
「いつからそんな傷が……?」
『古くない』
「なら、昨日優を襲った奴らで間違いない」
黒い物の怪は美月の腕に絡んでくる。褒めて欲しいみたいだ。美月は物の怪の頭を撫でながら、俯いた。
昨日の優の話を聞く限り、敵は二体。蜘蛛の糸を自在に操る蜘蛛人間だ。
昨日の話では、この二体は即死させるような戦い方はしなかった。
恐らく相手を痛ぶるのを楽しんでいた。
完全に舐めたことをしていたから腕を切られるのだ。
「……鬼蛇、まだ生きているの。兄様だけではなく、あの人も奪おうというのね」
その声は、僅かながら怒りを含んでいる。
忘れられない、目の前で殺される兄の姿を。鬼蛇という存在が憎らしくて堪らない。
──捻り潰したい程に。
「ありがとう。お前達はお休み」
『姫様、大好き』
物の怪たちはそう、囁いて美月の影の中に消えていった。
美月が不安になったり、悩んだりすると影から物の怪たちが現れる。そして美月の為に尽くす。
何故この子達はここまでするのだろう。
物の怪は悪霊の集合体。未練を残した霊達が化け物と化した姿だ。
そうなるとこの子達の未練とは、文月姫のことではないだろうか。
「この子達の事は、また今度……」
美月は自分の胸に手を当て呟いた。
さあ、明日はどうする? 優を守れるのだろうか。今日と同じように小桜に頼めないかもしれない。
優は何か勘づいてしまう。
自分を囮にして敵をおびき寄せよう。ならば、一人にならなければならない。
「明日……」
そうだ、夏海──。
「姫様」
「あーもうびっくりした」
「申し訳ありません」
開けっ放しのドアの隙間から、小雪が顔を覗かせていた。
小雪は美月を訝しげに見つめている。
まさかバレたか。さっきの光景を見ていたのだろうか。
「……何をなさっていたのですか。姫様」
小雪の問いがぐさりと胸を突き刺す。
「あの物の怪、姫様のものなんですよね」
はい、見られてました。
どうやら誤魔化しようがないようだ。
「聞いてた? 全部」
「………」
美月の問いに小雪は何も答えない。相変わらずの無表情を向けて……いや、どこか悲しげだ。
小雪は美月の傍に歩み寄ると目の前に正座した。
「小雪……?」
美月はベッドの上、小雪に床に座り込んでいる。
それは、小雪との上下関係を示しているようだ。
「姫様」
小雪は心配そうに美月を見つめる。
ずっと前から、小雪は誰かに似ていると思っていた。
無愛想な反応。言いたいことはその場ではっきりと言う。心配性で優しさも兼ね備えている。
あの人に、似ている。何よりも、目元がよく似ている。
やはり。やはり………。
「あの男のために、それでも無理をなさるのですか」
その口ぶりから、話を聞かれていたのだろう。
「身をすり減らしてまで、そこまでして、あの男に寄り添いたいと……望んでいらっしゃるのですか」
小雪は口惜しげに囁いて、両手の拳を握りしめていた。
「僕はもう、あなたを失いたくなくて……。やっとこうして出会えたというのに……僕にはあなたに寄り添う資格もないのですか」
「小雪……」
「僕も姉さんも、地獄を見てきました。母は死に、腹を空かせた妖たちに追い回され、生きるために盗みをし、殺されかけて……」
小雪の、いつも感情の無かった声は運命に対しての怒りと悲しみで揺れ動いている。
「姫様は手を差し伸べてくれました。でも正直何も信じられなくなっていた僕は、姉を守ろうと必死になっていた僕は、最初あなたを拒絶しました。それでもあなたは優しくて……」
この先は言ってはいけない。言えば目の前にいる大切な人を困らせてしまうだけだ。
ちゃんと理解しているのに、溜まっていたものが吐き出されるかのように小雪の口は一つの言葉を発してしまった。
「僕はあなたの事が好きです」
「……!」
「何百年もずっと、ずっとお慕いしておりました、姫様」
気づいてた……。気づいてたのに……美月は、何と返せば良いのか分からなかった。
今、心に決めているのは別の人だ。
小雪はそれを分かっていて告白してきたのだ。
ただ、この申し込みを断れないのも自分勝手なのだろうか。
「ごめんね、小雪」
小雪の言う通りだ。この身をすり減らしてでも、夕霧の傍に居たいのだ。
何百年も前から、心の底から愛してしまった夕霧と離れることなど出来ないのだ。
「──私は、夕霧が好きだから」
酷い。自分で自分を蔑んだ。
小雪、思う存分私を拒むがいい。私はきっと、あなたを傷つけてしまった。いや、もっと前からあなたを傷つけていたのだろう。
「小雪、私はあなたが思っているよりも、残酷な鬼だった」
「………」
「この手は汚れている。滅の鬼神文月は、女も子も殺してきた。たとえ同胞であっても、依頼とあらば躊躇なく命を奪ってきた。そうした日々を重ねる毎に、私は寂しさや悲しさのあまり、心を失った」
美月は胸に手を当て、悲しげに目を伏せた。
「夕霧は、私を笑わせようとしてくれた。笑みというものを忘れてしまった私に寄り添ってくれた。だから、今度は苦しむあの人の元に私は寄り添わなければならない」
小雪は俯いている。
いつでも私を蔑んだって構わない。私は蔑まれて生きていくのだから。
「あの人が居なかったら、今の私は居ない」
ずっと恋い慕っていた姫様の口から、やっと答えを聞けた。それだけで……もう十分だ。
小雪は握りしめていた拳をゆっくりと広げ、暗い表情で言葉を返した。
「……申し訳、ありません。僕は卑怯者です。愚かにも、隙あらば姫様を我がものにしようと考えておりました」
どうして謝るのだろう。小雪は何も悪くないのに。
しかし、思いつめた顔から一変し、意を決した表情で小雪は美月を見つめた。
「それでも、まだ僕は姫様のことが好きです」
「………」
「ですから、この身をすり減らしてでもお守り致します。あなたの幸せを」
小雪の本音を初めて受け止めた。小雪の思いが胸の奥まで伝わってくる。
小雪も、初めて恋した相手に初めて想いを伝えられたこの瞬間、心の底から熱い何かが広がっていくのを感じた。
それは、決意だ。
恋い慕う相手がどのような道に進もうとも、幸せであってほしい。それを強く、守り続けたいと誓った。
「小雪、傷つけてしまってごめんね」
「はい」
「沢山、心配かけてごめんね」
「はい、少しは反省してください」
「ずっと、傍に居てくれてありがとう」
最後は微笑を向けて感謝を表した。
小雪は普段は見せない笑顔を、大切な人に向けた。
「はい、当然です」
齢五百余年。
恋は桜の如く散っていった。