【第三章】春日
三代目の霜月に決まったのは、まだ僕が若い頃。人間で言う、十代の頃でしょうか。
雪ノ都の頭首となることは未熟な僕にはまだ荷が重すぎた。それでも、他の鬼神に引けを取らぬようにと必死だった。
その日は丁度、我が鬼神頭領、睦月様の誕生日の宴から帰ってきた時。
門の前に、女性が倒れてたのですよ。傷だらけで、着物はぼろぼろで。しかも、よりによって気候の寒いこの土地に倒れていたので、体は冷え切っていました。
「あの、大丈夫ですか?」
女性は弱っていましたが、意識はありました。
「お……に……」
諦めてしまったのでしょうか。そのまま意識を手放してしまいましてね。
急いで抱き抱え、ようやく気づきました。
───人間の女性だったのだと。
「す、すぐにお屋敷に運ばねば……!」
相手が人間でも、このまま放っておく訳にはいきませんでした。
他の鬼には甘いと言われてしまうかも知れません。それでも僕は救いたいと思ったのです。
やがて屋敷で目を覚ました女性は、礼儀正しい方でしたが、なんと言うか、頑固と言いましょうかね。堅苦しい印象でしたよ。
その女性の名は『春日』と言います。
最初は困難でしたが、春日は徐々に僕に心を開いてくれました。
傷が開くから動いちゃ駄目だと言っても、
「鬼の屋敷でずっと世話になるわけにはいかない」
と言って聞かないんですよ。
まあ、傷に響いて動けませんでしたけどね。
春日はこの屋敷に来る前の記憶が欠如していました。覚えているのは、その日、あまりにも多くの妖怪を相手に戦い、深い傷を負ったということと自分の名前だけ。その他の記憶ははっきりとは思い出せなかったみたいで。
厳しい性格でしたが、可愛い面もありまして、小さな生き物や花が好きでした。
綺麗な着物をあげたときは嬉しそうにしていました。
「霜月……? お前、どこに行って……その傷は?」
「ああ、春日か。鬼神の頭領に戦いの手助けを頼まれたんだ」
「すぐに手当てをしないと……!」
余程心配してくれていたのでしょう。普段落ち着いている春日が取り乱したのを見たのは初めてでした。
「僕は鬼だよ? 休めばこれくらいの傷治るよ?」
「私だったらすぐに治せる」
春日は霊力を持っていて、僕の傷をあっという間に治してしまったんです。
優しいくて、強くて、僕にないものを持っている。僕は春日に惹かれてしまいましてね。願いが叶って、春日も僕を好いてくれました。
やがて僕らは夫婦となって、この冷えた都の静かな屋敷で、ずっと一緒にいました。
やがて春日が子を身ごもったとき。春日は欠如していた記憶を取り戻してしまったのです。
──春日には、他に子供がいたのです。
春日の子は人間の世の、春日が以前住んでいた屋敷に子の父親と共にいるらしく、我が子を忘れてしまっていた罪悪感に春日は思い詰めてしまった。
そして思い出した記憶の全てを話してくれました。自分の身分や立場を。
──霧の部族の頭領の妻であると。
霧の部族は妖怪退治の名家。その頭領の妻が、鬼との間に子を身篭ってしまった。
僕は春日を愛し、その子が生まれることに何の抵抗もありません。ですが春日は、残していった子を気にしていました。会いたがってました。
春日の腹には子がいる今、出歩くのは危険です。ですが春日は正気じゃなかった。
それに僕は、妖の都の頭首として、人間の世に行くことが許されなかった。
春日はどうしても我が子に会いたい様子。仕方なく雪ノ都の妖と一緒に春日を人間の世に帰しました。
それが間違いでした。
春日と、同行させた妖たちも、姿を消しました。
後に、妖たちは死んでいたことがわかりました。ですがどんなに探しても、春日は見つからなかった。
何故、あの時春日を帰してしまったのか。後悔してもしきれなかった。
春日は人間です。たとえ、あの時生きていたとしても、長い年月が経った今では彼女はとっくに亡くなっている。
お腹の中にいた子は無事なのかもわからない。
──愛する人。腹の中にいた子。僕の生きる理由の全てがそこで一気に消え失せた瞬間でした。
これが、僕の歩んで来た過去です。
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「つまらない話でしたね」
「いいえ」
霜月が入れてくれた茶を飲んで俯いた。
「霜月様と春日様の子供は、まだ見つかっていないのですか?」
「ああ、大事な話はここからです」
霜月は茶を啜り、真剣な眼差しを美月に向けた。
「まず、あなたは気づいているのではありませんか?」
どきりと心臓が跳ねる。美月は深緑の湯のみを握りしめた。
「──霜月様。春日様は霧の部族の頭領の妻で、間違いないですね?」
「ええ」
まさか。まさか、そんなことあるのだろうか。
「春日様が会いに行った息子とは………………夕霧………………?」
美月は頭の中で状況を整理した。
「春日様は、夕霧の母親……!?」
「はい……」
「それでは、霜月様と春日様の間に生まれた子は、夕霧の父親違いの弟か妹になりますよね!?」
「そういうことになります」
なんてことだ。夕霧の母親が行方不明になっていた件について、一歩真実に近づいたのではないだろうか。
「優に話さないと……」
母親の生涯が今ここでやっとわかったのだ。このことを優に話せば、全てがわかる。
いや、一つだけわからないことがある。
「霜月様……お腹の子は、どこにいるのでしょう」
「時期にわかります」
霜月は至って落ち着いた様子で茶を啜った。
「僕と春日の子も、いつか真実を知ることとなります」
もしや、霜月は自分の子が誰なのかもわかっているのでは。
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「お茶、ありがとうございました」
一礼し、障子の戸を開くと雪景色などそこにはなく、ただの木造りの柱や壁が広がっていた。
その不思議な部屋を後にし、外で待っていたお蝶と共に優のいる部屋へと向かう。
「優に話さなければならないことが増えた。私たちが話している間、変わったことは?」
「特にございませんでした。しかし……」
「…………?」
「夕霧様がいらっしゃいました」
「……ん?」
つい、足を止めて背後を付いてくるお蝶がいる方向へ顔を向ける。
「優が、来てた?」
「はい」
「まさか、話を聞いて……」
「恐らく」
彼があの話をどう捉えるのかはわからない。だが、話をしなければならない。
「優の所へ向かう」
「かしこまりました」
あと、もう一つの疑問は霜月の子。春日があの日生きていたのなら、その子供は生まれ、今も生きている可能性がある。
鬼と人の間に生まれた子供。つまりは半妖ということ。
───半妖……。
そこで、美月は新たな真実へと辿り着いた。
霜月が雪ノ都に美月たちを呼んだ理由。
「そう……いる……そういえば」
「姫様、如何なさいました?」
「私たちの中に、父親が鬼で母親が人の子がいる」
「………………」
何故霜月の前で、こんな簡単なことに気づかなかったのだろうか。
鬼と人の間に生まれた子。それは…………。
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「優!」
「美月。どうしたそんなに慌てて……」
「わかってるよね。部屋の外で私と霜月様の会話、聞いてたんでしょ?」
「…………」
夕霧はばつの悪そうな顔で美月の背後に控えるくのいちに目を向ける。お蝶はとぼけた顔で夕霧から目をそらす。
「あなたのお母様のことがわかった。行方不明の間、春日様は霜月様に出会い、二人の間に子ができて……」
「俺に、会いに来た」
「その後のことは、やっぱり思い出せないのね……」
優は全てから遠ざかるように瞼を閉じた。
「美月、ごめん。俺の事情なのに、付き合わせてしまって」
「あなたに頼られたんだもの。苦ではない」
「ありがとう。でも、これ以上は思い出せない」
違う。本当はもう少し思い出せるはず。最後に見た母の姿を。
しかし、思い出そうとすればするほど心に闇が広がっていく感覚に陥ってしまう。
「そうね。無理するのも良くない。それで、なんだけど」
美月は優の顔をじっと覗き込んだ。
顔に何か付いているのだろうかと首を傾げていると彼女はとんでもないことを口にした。
「小桜と小雪、あなたの父親違いの妹と弟なんじゃないの?」
優は目を見開き、硬直した。
確かに、有り得ることだ。だがしかし、その真実だけには、優はこう言い返した。
「え、嫌がられそう」
「もう、こんな時にそんなこと言わないで」
美月は呆れ顔で溜息をつく。
「正確には前世の話だけど、記憶を引き継いだ状態で生まれ変わってきた私たちにとっては変わらない事」
「でも、確かにあの双子は半妖だ。あいつらの母親が、俺の母上だってことは十分に有り得る」
「でも、確証はないよね」
美月は肩を落とした。
「これって、あの二人に話すべき? 黙っておくべき?」
美月と優は二人して考え込んだ。
「……言わないでいいと思う」
自分たちの大切な姫を殺した男が兄だった。そんな真実知らない方が良い。
優は自分から双子を拒絶してしまった。今ぐらいの関係が丁度いい。
「わかった」
美月は神妙な面持ちで頷いた。
優は小桜と小雪と、いつまでこんな状態が続くのだろうか。
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姫の去った後、霜月は作り物の雪景色を見回した。
ここは春日と出会った場所に似ている。
「春日……僕はあと何百年、何千年と生きなければならない。お前に会えるのは、まだずっと先だ。ごめんね、待ちくたびれてしまうかもね」
もしかしたら、どこかで春日の声が聞こえるかもしれない。そんな馬鹿な期待を抱きながら雪の下に埋もれた花を見つめた。
「お前は、花が好きだったね。今もまだ好きかな……」
『好きよ』
「…………」
振り返っても、彼女の姿などどこにもなくて、無性に寂しくなる。
──ごめんね、春日。
自分を追い詰めるように、心の中で謝り続けた。もしかしたら、誰も知らない場所にいる春日に届くかもしれない。
届いたとして、彼女を守れなかった後悔を拭うことなど出来ない。
春日と自分の子はさぞかし可愛いだろう。そんな期待を寄せながら、春日の手を握って赤子が生まれる瞬間を噛み締める。そんな未来など訪れなかった。
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「……」
本当に我が姫君は夕霧と仲が良い。
前世? そんなの知ったことか。この男に関しては姫を裏切り、お命を奪った憎き人間としか記憶にない。
そんなことがあったにも関わらず、何故こんなに親しげなのだろうか。
面倒臭がりの夕霧を姫様が叱り、夕霧の服を姫様が着せ…………夫婦か? いや、認めない。
「小雪、いつにも増して生き物を殺してしまいそうな目をしていますよ。殺すのは程々になさい」
姉、小桜はいつもにこにこ笑ってる割には言うことがいちいち恐ろしい。夕霧と姫様が仲睦まじく肩を並べているこの光景を、恐ろしい程にこやかな笑みで見守っている。
姫様は初恋の相手である。今でもこの恋心は冷めず、過ぎていく年月と共に徐々に大きくなっていった。
生まれ変わった姫様と再会し、また想いを伝えられる機会を得られたかと思えばこんな男に取られるとは。
「失礼します」
障子の向こうから女の声がかかる。
「夕げの準備が整いました」
「ありがとう」
その声は粉雪のものだった。
姫様は立ち上がり、夕霧を引っ張る。
「こんな所に来てまでぐーたらしないの」
「はいはい」
夕霧は姫様の手を取り立ち上がると肩を並べて二人で部屋を後にする。
「……羨ましい」
「小雪、本音が出てますよ」
姉は姉として、やんわりと弟を注意する。顔には我慢なさい、と書いてある。
確かに、小桜も小雪も、単なる姫の護衛である。ここまで自由が許されているのは周りの環境が優しいからだ。
本当はもう少し引き締めなければならないのだ。
「気をつけるよ」
「そうしてください」
小桜はいうもの笑みを浮かべる。
「姉さんは、それでいいの? 姫様があの男に取られて」
ずっと気になっていた質問を聞いてみると、いつも笑顔だった姉の表情に影が差した。
「私は、姫様が幸せになってくれればそれで良いのです。幸せにしてくれるのが夕霧だというのなら、私はもう何も言えません。ですが、夕霧のことは信用していません。姫様が幸せになるそのときまで、あの男のことを見張っておきます」
姉の意見は立派なものだ。ただ夕霧を敵視する自分とは違った。
姉は冷静に判断し、ほんの少しだが、夕霧に歩み寄ろうとしていた。何故、そんなに強く居られるのだろうか。
「あら、姫様が行ってしまわれた。早く追いかけましょう」
「うん……」
つい最近まで対等な関係だと思っていた姉は、自分より更に上を行っていたことに気づいた小雪。
確かに小桜は小雪よりもよく意見を述べ、姉らしく、小雪を引っ張っていく。気立ても良く、見た目にそぐわず大人な考え方ができる。
でも、弱点がある。姉は優しすぎる。
姉を守れるのは、生まれてから今日までずっと傍に居続けた自分だけなのだ。
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(……これすっごく美味しいんだけど)
雪ノ都での食事。美月は黙々と食べていたが、姫としての礼儀を忘れずに品良く食事を続けた。
それにしても美味しい。鯛の活け造り、天ぷら、汁物、ほかほかの白いご飯。
前世からの影響か、美月はこういった和の食事が大の好物だ。
「姫様、味はどうですか」
「すごく美味しいです」
「良かった。うちの飯は粉雪が作っているのです」
部屋の隅に控える雪女は表情を崩すことなくその場に正座している。
「お料理、上手なのね」
「とんでもございません」
粉雪は白い両手を畳につき頭を下げる。その動作も静かなものだ。
「粉雪の料理は本当に美味で、屋敷でも評判があるのです。粉雪、甘味も頼むよ」
「はい、霜月様」
粉雪は頭を上げるとスッと立ち上がり、障子を開き部屋を後にした。
霜月は粉雪の出ていった方を見つめ、苦笑いした。
「あの子は幼い頃からずっとこのお屋敷にいましてね。同じ年頃の子と話したこともありませんので、感情表現が苦手で……」
「粉雪はすごく優しいと思います。ここまで来る時、私のこと気にかけてくれてました」
「それは良かった。あの子の話をよく聞いてあげてください」
霜月はまるで我が子について語っているかのように優しい微笑みを浮かべる。霜月はとても仲間思いで心が広いのだろう。こんなに優しい話し方をする鬼がいたのか。
「はい。そのつもりですよ」
美月も霜月のおかげで心安らいだ気持ちで微笑みを見せた。
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「……………」
粉雪は食後の甘味を手に、廊下を歩く。外は雪が降り、他所から来た者達は非常に寒く感じるだろう。
雪女の粉雪にとっては、丁度良い気候なのだが。
その雪景色の中、緩められた赤い唇はよく映えた。
「褒められた、褒められた…………」
粉雪は上機嫌に肩を震わせた。