【第二章】静のくノ一
白夜と文月姫が去った跡を睨みつけた。
────記憶を探しに行く、か。
呆れた。瑠璃は溜息をつくと物陰へと視線を移した。
「琥珀、居るんだろ」
名を呼ばれ、小さな鬼が姿を現した。
「瑠璃ー、何で追いかけないんだ?」
純粋な疑問を投げかけ、琥珀は首を傾げた。瑠璃は目を細め、裏切り者が逃げて行った先を見つめた。
「瑪瑙の人形などに用はない」
「文月姫はどうするんだ? 仕留めなくて良いのか?」
瑠璃は再び溜息をついた。
「きっとあいつらが逃げた先に、鬼蛇がいるよ。上手く仕留めてくれる。姫のお命を奪うのは、私の役割ではない」
よくわからないな、と琥珀は頭を掻きながら顔を顰めた。
………………
動かなくなった体を抱き締め続けた。
瘴気は止まったが、傷は治るはずもなく、彼女が目を覚ますこともない。
「ふふふふふ…………」
突然、前方から聞こえてきた不気味な笑い声。そこにいたのは、片目を布で覆った黒い鬼だ。
「おやおや、やっとですか」
「誰だ………」
鬼は気味の悪い笑顔を浮かべた。
「葉月様に仕える、鬼蛇と申します。たった一人で来たとは、勇気がございます。余程、その方を好いているのですね」
「お前が、やったのか………」
腕に眠る姫をより一層強く抱き締める。
「───ええ、何か問題でも?」
その言葉を聞いた瞬間、何かがキレた。
前世から使い続けてきた刀を、鞘から引き抜き、鬼蛇に向けた。
「何ですか、あなたは」
眠り姫に竜宮から来ていた着物を被せ、立ち上がった。
刀を構え、男は名を名乗った。
「俺は霧の部族頭領、夕霧」
夕霧。名を聞いた途端、鬼蛇の片目が見開かれた。
「ああ、知ってます……知ってますとも! 鬼神頭領の娘を、愛し、殺した……人間の男…!!」
夕霧は立ち上がった。凄まじい威力を持った形相で睨みつけ、刀を握り締める。
相手はいつも笑っていて、それが腹立たしい。
「一つ、教えてあげましょうか、夕霧。姫様は亡くなっていません。ただ瘴気に負けて昏睡していらっしゃるのです」
「何……」
夕霧は改めて目を固く瞑った美月を見下ろした。でもやはり、死んでいるようにしか見えなかった。
「死んで……ない……?」
それでも。それが事実ならば、彼女は生きている。
安堵した。まだ消えていない、失っていない。
「ですが、夢から覚めるには私を殺すしかありません」
それを聞き、夕霧は唇の端を吊り上げ、鬼蛇に狙いを定めた。
「貴重な情報、ありがとう」
目の前から夕霧が消えた。
後ろに視線を向ければ、すぐ背後に迫っていた。
それを避け、鬼蛇は大量の黒刀をで自らの身を守る。
「無駄に体力を使いたくはありません」
それだけ言い残し、鬼蛇は一瞬にしてどこかへ消えていった。
怪しげな妖術に舌打ちし、鬼蛇がいた場所を睨みつけた。
「ぅ……」
側で倒れている白い鬼が目を覚ました。妖術を無理矢理使ったのか随分と疲れている。
「お前……」
起き上がった白い鬼の顔は、あの美の鬼神によく似ている。
「あなたを……知ってる…見たことある…どこかで…」
「………」
それもそのはず。この鬼は、目の前で雪女に殺されたあのときの白い鬼神で間違いない。
弥生と皐月の元へ連れて行かなければ。
「おい、立てるか」
「あい………」
「ついてこい」
白い鬼はのろのろと立ち上がると夕霧を見上げた。
辺りに敵の気配はなさそうだ。それでも細心の注意を払ってこの林から抜け出さなければ。
血塗れでまるで死んでいるように眠っている美月を抱え、歩き出した。
美月は死んでいない。だが、息をしているのだろうか。血の気を失った一人の女を大事そうに抱え、夕霧は白い鬼と共に林を抜けて行った。
………………
「これは……一体…」
震える小鬼と向き合い、夕霧は目を伏せた。
「鬼蛇、という鬼だ。葉月に仕えているらしい。そいつが水無月を殺したと見れる」
小桜は震える手と手を重ね、心の中の何かが暴走しそうになるのを堪えた。その隣に座る小雪の瞳は怒りに燃えていた。
すぐ側で眠っている美月は血塗れで、最初見たときは死んでいると思った。
「竜宮で起こったこれまでの全てが、葉月様を中心とした輩だったのですね」
夕霧を見つめ、小桜は唇を噛み締めた。
「鬼蛇……。そやつを殺せば良いのだろう?」
小雪が放った言葉に夕霧は眉を顰めた。
「殺せば、姫様は目を覚ますんだろう?」
「小雪、お前何を考えているのです? 相手は鬼蛇ではなく、葉月様。睦月様の血縁者なのですよ」
「僕は姫様のためなら誰であろうと容赦しない」
小桜と小雪の間に冷たい対立が起こり始めている。
小桜としては、姉として、忍として、冷静に考えなければならなかった。
だが、小雪にとって、美月は主であり、想い人であった。たとえ、別の男しか見ていなくても。
夕霧はそんな二人の僅かなすれ違いに気づいた。
「鬼蛇を殺すのは……難しい」
「何だ、夕霧。お前は姫様を見捨てるか」
夕霧の珍しくも自信無さ気な言葉を聞いた瞬間、小雪は顔を顰めた。
姫様に愛されているくせに。そんな考えが小雪の中にあった。
「俺は、必ず美月を救う。だから、考える。あいつを確実に倒す方法を」
今度は自信に満ち溢れた目を向けてくる夕霧。小雪は眉間に皺を寄せ、夕霧を真っ直ぐに見つめた。
「おやめなさい、小雪。夕霧の言う通り、考えるしかなさそうです」
姉に制され、仕方なく小雪は目を伏せた。
「それで………」
小桜が視線を移した先は、白い鬼だった。
鬼は酷く疲れた様子で夕霧の背後に控えている。
「卯月様………?」
白い鬼は双子に向き合った。
「私……白夜……。瑪瑙様のお人形。でも……本当は違う…」
ゆったりとした口調を聞き、小桜と小雪も困惑した様子で目を合わせあった。
「瑪瑙……確か生還術を得意とした死神。その方は、卯月様の生まれ変わり……」
「美月が、連れ出したらしい」
双子は目を見開いた。
心を病み、連れ去られ、自らに余裕はなかったはず。それでも、卯月を見つけ連れ出した。
やはり、我が主は優しい方だ。
「姫様が………」
途端、二人分の足音が廊下から響き渡った。障子が開かれ、部屋にいた四人は肩を震わせた。
部屋に入って来たのは弥生と皐月だった。
二人は見覚えのある白い鬼を見つめた。
「話は聞いた」
皐月はそう言うと弥生と共に入室し、白夜と向き合うように座った。
「よく、帰ってきてくれた」
「誰…、ううん、知ってる。だけど……何で…わからない」
「ああ、良いんだ……今は……」
混乱した様子の白夜に微笑みかける皐月は、少しだけ悲しげだった。
やっと、会えたのに。
続いて部屋に入って来たのは疾風とお蝶を連れた神無月だった。
「卯月の生まれ変わりってのはその子?」
神無月に視線を向けられ、白夜は小首を傾げた。その代わり、皐月が頷くと神無月は口角を上げた。
「それじゃあ、敵の居場所は?」
「竜宮門の近くにある林」
夕霧の答えに神無月は眉間に皺を寄せた。
「そんな近くにいたの? 竜宮門の影響を受けないのも、結界の緩みのせいか……」
神無月は新たな課題に顔を顰めた。眠る美月に視線を移し、暫し考えた。
「姫さんの体内にはまだ瘴気が残ってる。その瘴気を取り除いてくれる者を探してみるよ。あとは皆、飯でも食っといて」
神無月は陽気に笑いながら飯へと促した。
この男はへらへらしておきながら非常に助かる言葉を放ってくるのでその場にいる者たちは安堵した。
神無月の後ろに控えているお蝶は眠る美月に視線を向け、目を伏せた。そんな妻を、疾風は訝しげに横目で見ていた。
………………
水無月の残していった仕事を全て終わらせ山積みになった書物を払う。
溜息を溢した神無月の背後、天井からくノ一が静かに降りてきた。
「君って本当、動きが静かすぎだね、お蝶」
「褒めてくださってありがとうございます」
神無月は振り返り、お蝶と向き合うと微笑んだ。
「水無月は亡くなった。君は水無月に仕えるために竜宮に来た忍だ。この先、どうする? 俺の忍になれば、疾風と過ごす時間も長くなる。それとも………」
「あたしは、文月姫様に仕えます」
お蝶の芯の通った言葉に神無月の動きが止まる。
「我が主、水無月様はあたしに最後の命を下しました。あの方の最も大切な者に仕えよと。あたしはこれより、文月姫様の忍です」
お蝶はもう随分と前に決心がついているようだった。
だが、彼女の言っていることはつまり…
「それは、疾風と別々の道を辿ることになる。それは承知の上か」
いつも笑っている神無月は、珍しく真剣な目を向けて来た。
その目と言葉に攻められるような感覚を覚えたが、お蝶は怯むことなく話した。
「あたしは、夫を愛しております」
お蝶は悲しげに囁いた。
「ですが、睦月様の血族をお守りするのが、静美の定にございます」
これが、お蝶の運命である。睦月の血を、絶やさぬように。それが静美に生まれた忍たちの運命。
「そう決めたんなら、仕方ない……。それでさ、早速だけど疾風と離れ離れになるよ……」
………………
翌朝。眠っている美月の側で、夕霧は溜息をついた。
確かに、彼女の近くにいると瘴気を感じる。
もっと、早く助けに行っていれば……。
「霧」
振り返れば、白夜が茶の瞳をこちらに向けていた。
「霧がかかってて……」
「どういう意味」
「人間なのに、何故……雪の都の瞳なの……?」
白夜は、眉間に皺を寄せ、夕霧をじっと見つめている。
だが、よくわからない。何を言っているのか、全くわからなかった。
「雪の都………」
呟いてみた。一体、それがどこにあるのかわからない。そもそも存在するのだろうか。
雪の都。それが何かあるのか。
考えている間に、入室してきたのは双子だった。
「雪の都……?」
小桜は夕霧、そして白い鬼に目を向けた。
「知ってるのか?」
「あ、いいえ………でも、どこかで……」
夕霧に問われ、小桜は視線を彷徨わせた。小雪も俯いた。
双子は、雪の都という場所に何らかの関わりがあるのだろうか。
………………
「──美月を、他の場所に……?」
神無月は全員を集め、思いもよらない言葉を発したのだ。
夕霧は眉間に皺を寄せ、戸惑った。
「姫を救うことのできる者はこの世にただ二人。そのうちの一人が姫を預かるとおっしゃっている」
「姫様を別の場所に連れて行くなんて、そんな……」
小桜は泣きそうになるのを堪え、俯く。
「ごめんけど、断れない相手。それに姫さんを治してくれるんだ。仕方ない」
神無月はそう言うと、後ろに控える忍夫婦の片方に目を向け、囁いた。
「お蝶、姫を頼むよ」
頼まれ、頷く妻を見て、疾風は目を見開く。
ついに疾風が声を発した。
「蝶……? 何故……神無月様、一体どういう……」
「お蝶は静美の者だ。睦月様の血縁にある姫をお守りすることとなっている。だから、お蝶の同行が許されている」
それを聞き、疾風は顔を強張らせ、妻と向き合う。
「蝶、お前一人でそんなこと考えてたのか! 何で言わなかった? 神無月様、俺はこいつの夫だ。ならば静美の養子である俺も……!」
「ごめん、疾風、お蝶しか許されない。これは、主を守りきれなかったお蝶の償いだ」
慌てふためく疾風の肩に、お蝶は手を乗せ「大丈夫」、と微笑んだ。
まだ、お蝶と祝言を挙げていない。まだ、お蝶と一緒にいたい。
突然、後悔が山程溢れてきた。
「神無月、姫とお蝶をどこに連れて行くんだ………」
「静美の忍……。弥生、よくわかんないけど、許された者しか立ち寄ることのできない場所なの?」
皐月と弥生の疑問。神無月は覚悟して話した。
「草木張の都。如月様のお屋敷だ」