【第二章】最愛と最悪
『ねえ、優……』
───なんだよ。
『………呼んでみただけ』
───なんで、そんなに悲しそうなんだ。
『じゃあね』
───待って。
『ずっと…言えなかった…こと…あるの……』
───約束しただろ……。
『─────』
………………
「えー、じゃあ師走様、暫くはお留守?」
「そういうことになるな。仕事っつってたけどなぁ」
皐月は頭を掻いて、仕方ないな、と溜息をつく。
だが、弥生は少しだけ不安げに俯いた。
「このまま…卯月様を助けられるのかな……」
弥生の呟きに、寝そべっていた皐月は飛び起きた。
「お前な、卯月は俺が必ず助ける。必ずな!」
「私も助けるの! 卯月様は大切な家族ですからね!」
なんだか喧嘩が起きそうな雰囲気なのだが、優は既に眠りについていた。
そんな彼を見て頬を膨らませ、弥生は文句を垂れる。
「ちょっと、夕霧。寝るの早い!」
「もう寝る時間なんだろ…?」
弥生とは対照的に、皐月は特に気にしていない様子だった。
だが、突然飛び起きた優に、肩をビクつかせた。
「な、何…。皐月といい、夕霧といい……。もう少し静かに起きれないの…?」
「夕霧?」
優は目を見開き、険しい表情で俯いていた。
「美月は……どこだ」
「え……姫様は、もう寝床についたんじゃないの……えっ、どこ行くの!?」
突然部屋の外へと駆け出す優の背中を凝視し、弥生は口を開けたまま硬直した。
その隣で皐月は眉を顰める。
「何か、変だったな」
「う、うん……」
美月がいるはずの部屋へと滑り込む勢いで戸を開けた。
だが、そこには誰もいなかった。
「美月……?」
嫌な予感がする。あれは予知夢なのだろうか。
さっき、美月の様子がおかしかった。もしもあのとき、早く気づいてあげられていたら。
「夕霧………何を…」
「美月はどこだ……」
そこで出会ったのは美月を誰よりも思っている双子だった。
「姫様……?」
小桜と小雪は無人の部屋を凝視して、硬直した。
………………
月明かりが照らす森の中。金属の衝突音が木霊した。
殺さない。ただ、父の所へ行かせないだけ。そんな器用なことができるのかわからないが。
「なかなかしつこいね、美月」
兄の言葉などお構いなしに、刀を振るった。
さっさと妹を退けるために、水無月は先程よりも強く刀を打ち付けた。
それを全力で受け止め、美月は刀を持ち替え兄の足元を狙う。
「力は衰えていないね。可哀想だけど」
水無月は飛び上がると頭上から急降下する。
それを軽やかに避け、美月は刃先を兄の首元に。
だがそれは藍色の刀で振り払われる。
「もういい加減に諦めないか」
二つの刀が交じり合い、一歩も譲らない。
「兄様……」
目の前にいる、大切な家族。
「大好き」
壊すことなど、私が許さない。
「だから……」
守ってみせる。
「もう、苦しまないで」
この思いが伝わったのなら、少しくらい救われてほしい。
もう、兄妹は、苦しむことに疲れてしまった。
「何を……言って……」
水無月は妹の真っ直ぐな眼差しに眉を顰めながら、刀を払う。
だが、妹は次々に技を繰り出してくる。
それを避けるのにも限界が来る。
今度こそ足元を狙われる。
曼珠沙華の刃先を避けるため、瞬時に動いはずだったが、いつの間にか紅の刃は喉元を狙われていた。
「……っ!」
なんとか避けるために次なる行動を考えているすきに、妹に抱きしめられていた。
「ごめんなさい、兄様」
切ない声が聞こえた。
「私が、兄様を救ってみせるから」
この妹は、またそんなことを言って、無茶をするのだ。
本当に、困った妹だ。
「美月………」
本当はやり直したかった。ただ、普通に暮らしたかった。
できることなら、もう一度、あの平穏な日々を、家族と共に過ごしていたかった。
「情けないね……。ねえ、僕は、こんな情けない男だったかな…」
「…………」
「失望したかい……? 僕は、何のために今を生きているのだろうか……」
「兄様……泣いているの……?」
兄の涙が、美月の頬に届いた。
「私は、兄様が情けないなんて、思ってないよ。誰かのために優しくなれる、兄様は何も変わっていない」
目の前で優しく微笑む妹を守るためなら、何だってするだろう。
誰かのために無茶をするのは自分の方だったようだ。
「美月……、愛して──」
突然、全身が震えた。後ろに感じる違和感と激痛。
目の前にいる妹の表情は強張っていた。
『兄様、お花をたくさん摘んだの。兄様にあげる』
『仲が良いね。水無月、よくお前は妹思いの優しい兄に成長した。母は嬉しい』
『今度父上が来たときに、またお花あげようね』
『父上の前では二人共行儀良くするんだよ』
『兄様、大好き』
『瑞樹、愛してる』
─────ありがとう。
視界いっぱいに広がる鮮血。一気に血の気を失った兄は苦痛を味わう間もなく地面に崩れ落ちた。
赤く染められた地面が月明かり照らされる。
「ぇ……にい…さ…ま…」
地面に膝をつき、うつ伏せに横たわる兄の横顔に触れる。
兄の背中には、銀に輝く短刀が深く、根まで突き刺さっていた。
「残念ですが、心の臟が完全に破裂しております。つまり、再び生を受けることは不可能。つまり、これは死に至ったということ………」
聞き覚えのない声が、闇から姿を現した。
片目を隠した長い髪の黒い着物を纏った不気味な男。
その片手には兄の背中に刺さった短刀と同じものが握られていた。
「はじめまして、文月姫………。私は葉月様に仕える新たな鬼神候補。鬼蛇と申します」
葉月。その名を聞いた瞬間、美月の肩が震えた。
「葉…月…? 葉月が……兄様を殺せって……言ったの…?」
「正確に申しますと、あなたのお兄様を殺すことになったのは独断です。ですが、葉月様は私に役割を預けてくださったので、これぐらいはよろしいかと」
長々と随分とご丁寧に説明をする男、鬼蛇をぼんやりと見つめ、再び兄のへと視線を落とす。
兄の顔には、兄の血が付着している。せっかくの綺麗な顔が、台無しだ。頭を膝に乗せ、血を素手で拭ってあげた。
兄の体は酷く冷たかった。
「なんで……殺し…た……の? 兄様……なんで…」
「おやおや、どうやら混乱されているようですね。まあ、問にお答えするのは私の口からでは難しいでしょうね。ただ、目的のために邪魔なものは消しておく方がよろしいでしょう?」
邪魔……? 兄様が邪魔…?
「ああ、でも。やはり愛する人が目の前で死ぬと皆同じ反応をするんですね? ………あの雪女も」
鬼蛇は放心状態となった美月へと歩み寄ると微笑んだ。
「あー、そろそろ死んでもらえますかね。お話するのも好きなんですけど、あなたを殺せと命じられておりますので」
鬼蛇はいくつもの短刀を指の間に挟み、見せつけてきた。
兄を殺した、短刀で。
「ぐっ………!」
一瞬だった。
腹に、腰に、背中に、肩に、何本か短刀が貫通していた。
鬼蛇はそこから一歩も動いていないはずなのに、どうやって、短刀が移動したのだろうか。
「本当……あなたのお母様も、お兄様も、愚かしいですね。なんでそこまで家族にこだわるのでしょう」
美月は冷たい地面へと崩れ落ちた。
目の前には、既に息を引き取った兄が居た。
「兄…様……」
いつもなら、呼ぶと優しく微笑んでくれるのに、目は固く閉ざされていた。
「兄様……」
もう、名前を呼んではくれない。
「いや………」
「さてと……。睦月の長男、長女さえ取れれば、あとは楽に──」
「いやぁあああっ!!!!!!」
得体の知れない何かが、鬼蛇の体を掴んだ。
巨大な手。獣の匂い。
「物の怪………」
はっ、と顔を上げれば、体中に短刀が刺さったままの女が、紅色に輝く曼珠沙華を片手にゆっくりと立ち上がっていた。
美月を中心に黒い渦が出来上がっていた。
美月の茶髪が、黒く染まっていく。頭には、二本の角。
開かれた瞳は、金色に光っている。
その姿を見た途端、鬼蛇は歓喜した。
「ああ………聞いていた通りだ……。黒髪の美しい鬼姫……!」
「黙れ」
美月は右手を鬼蛇目掛けて突き出すと、思い切り握り締める。
それを合図に、どこからともなく現れた黒い獣の手が鬼蛇を握り締める。
「くっ……なるほど……っ」
物の怪の手が鬼蛇の体を握り潰す───。
「なるほど……。今まで物の怪を使う妖怪たちは数多く見てきましたが、あなたのように物の怪を体内に取り込む妖怪には初めて会いました」
獣の手に握り締められていたはずの鬼蛇は少し離れた所に移動していた。
美月は再び右手を突き出し、握り締める。
今度は四方八方から物の怪の手が出現し、鬼蛇を取り押さえる。
すぐさま、握り潰されるはずだったのだが、またしても鬼蛇は獣の手から逃れていた。
「一つ言っておきますけど。私は視界に入った場所ならば何処へでもすぐに移動できるのですよ」
いわゆる、瞬間移動。兄と自分を襲った短刀もその力によるものであろう。
「ですから、そういうの聞かないんですよね──」
喉元に冷たい刃が触れる。
「返して……?」
曼珠沙華を向ける美月の呟きに首を傾げながらも、瞬間移動で刃先を避ける。
「兄様を、返して」
移動先は美月の背後。だが、大きな獣の手が鬼蛇を叩き潰す。それも瞬間移動で回避される。
「返してと言われましても。死者を生き返らせる方法など知る訳ないじゃないですか」
「───死んで」
美月が一歩踏み出した。気付けば目の前に迫っていた。
次々に振るわれる曼珠沙華を短刀で回避しても、今度は物の怪の黒い手が次々に襲いかかってくる。
「なんで………どうして………」
美月は攻撃全てをかわす鬼蛇を睨みつけながら、悲しげに呟く。
「私を置いて行かないで……。父上、母上、兄様……」
美月は地面に膝をつき、悲しみ嘆いた。
その拍子に無数の物の怪が地面から這い出て鬼蛇目掛けて突進してくる。
「なかなか、面倒なことになってしまいました。ここは一旦引きましょう」
瞬間移動で消えて行く鬼蛇に向けて憎しみを込めて叫んだ。
「返してっ!!!!」
そのまま力を一気に使い込んでしまった体は苦痛を訴えてくる。
体中にまだ短刀が刺さったままだ。
鬼の角は消えたが、何故か髪は黒いままだ。
苦しさのあまり、血を吐き出した。
「うっ……ぅ……」
嘆き悲しんだ。最愛を、失った。
涙が流れてくる。拭って気づいた。──血だ。
目から、血が溢れている。
そのとき、頬を伝う血涙を誰かが拭った。
それは、美月のちからによって出現した物の怪の手だった。
「慰めてくれるの………? 優しいのね……」
「美月………!」
やっと、彼女を見つけて絶句した。
美月は前世の如く黒髪で、体中にいくつもの短刀が突き刺さっている。目と口から血を吹き出し、明らかに様子がおかしかった。
「美月……?」
彼女の元へと駆け寄った。肩に触れるが、まるで優に気づいていないように虚ろな目でどこか一点を見つめていた。
「何があった………」
返事が返って来ない。
優は辺りを見渡し、敵を確認したが、見つけたのは敵ではなく、美月と同じく短刀が刺さったまま倒れ込んだ水無月だった。
それを見た瞬間、優は全てを察した。
「美月、帰ろう」
せめて彼女を安全な場所に連れていかなければ。
フラフラで今にも倒れてしまいそうな体を支え、立ち上がらせる。
「優………」
遅れて反応があった。
美月の顔は力を使い過ぎて血の気を失っている。
「お願い………私を……殺して」
「何言って…」
「私を殺さないと何もかも、終わらない」
殺すべきなのは父ではない。自分だ。全ての悲劇は美月を中心に渦巻いている。
「私が全ての元凶……。なら、はやく……」
「約束しただろ……」
優は美月を殺すことなく、優しく抱えた。
「俺も、お前も、死ぬ訳にはいかない」
その言葉だけは感情が籠もっていた。いつも無表情なのに、今回だけは本気だ。
体中に突き刺さった短刀の数と血の量、壊れる寸前の精神。美月を救いたいと願う優の必死の足掻きを、運命は聞き入れてくれるだろうか。
「ちーと歯食いしばれよ」
皐月が治癒をかけながら美月の体中に刺さった短刀を抜いていった。
痛むはずなのに、美月は微動だにしない。それは皐月が治癒をかけているからだろうと思われるのだが、どうやらそれだけではないらしい。
「姫様……」
小桜も小雪も、皐月でさえも、唖然としていた。一人静かに座っているのは優だけであった。
漆黒の長い髪。前世と何ら変わりない外見に、その場にいる全員の体が強張っていた。
───一体、何があったと言うのだ。
小桜と小雪が駆けつけた頃には、彼女は見るに耐えない姿をしていた。肉体的にも身体的にも、壊れる寸前の姿があった。
美月の治療中、部屋の戸が開き、男鬼が入室した。
「失礼致しますよ、姫さん」
「神無月、どうしたんだ……」
「そのまま、治療を続けてくれ皐月。ちょいと嫌な瘴気を感じたんだよね」
神無月は布団の上で呆然とする美月の傍へと座った。
ゆっくりと右手の指を美月の額につけ、神無月は眉を顰めた。
「うん、結構まずいね」
「神無月様、姫様に何かあるのですか」
普段無口な小雪が、珍しく焦っていた。
神無月は美月の濁った瞳を見つめ、神妙な顔つきで語った。
「恐らく、姫さんは文月にしか使えない『沙華の呪い』でも使ったんだろうね。滅を司る曼珠沙華で悪霊を自在に操る最強の特殊攻撃。代償は大きいけどね」
代償、と言う言葉に小桜と小雪は目を見開き、双子は泣きそうになるのをぐっと堪え、神無月を見上げる。
「代償とは…。姫様は助かるのですか?」
「うーん、今の所難しいよね。だって、相当お心が病んでるみたいだしね」
そして、次なる残酷な言葉に、双子と、優の背筋が凍った。
「代償は、寿命。だから目から口から血が吹き出たんだよ。おまけに熱もね。更に、得体の知れない敵にズタボロにされた」
最悪だね、と呟いた神無月に、縋り付く勢いで小桜は頼み込んだ。
「私の命でも構いません! 姫様を救えるのなら、何だって差し上げます! ですから……!」
「ちょっと待って、姉さん! 僕が…!」
小桜と小雪の必死の訴えに、神無月は困り顔で頬を掻く。
「あー、うん。ごめんけど、俺が知ってるのはそこまで。今の状態から脱するのは難しい。対策としては、これ以上、沙華の呪いを使わないってことぐらい」
助けたいのは山々だが、神無月ができることは結界を張るか、戦力に加わるくらいだ。
命を助ける特殊な技などない。
「神無月……。水無月様は……」
「………」
皐月の問に、神無月は少しだけ瞳に闇を宿すも、笑顔を取り繕った。
「あいつを殺した奴を突き止めなきゃねー。じゃないと、水無月に怒られそう」
神無月は、笑うのが上手そうで下手くそだ。親友を亡くした。その事実は、変えることなどできない。
小桜は抜け殻のようになっている美月の手を握るも、反応がなく、落ち込んだ。
「何が、あったんですか……」
何も答えない。ただ、濁った瞳でどこかをぼんやりと見つめている。そんな人形のような美月を見つめながら、優は心の中で固く決心がついていた。
………………………
「何、水無月を討っただと……」
驚愕の表情を浮かべる葉月に跪く鬼蛇。
鬼蛇は上機嫌に頷いた。
「ええ。まず頭領に親しい人物から殺すべきだと思いまして、竜宮の頭首である水無月を殺す方が都合が良いと。……何か不都合でもお有りですか」
笑顔で首を傾げる鬼蛇を、訝しげに目を細め、見つめる長月。
葉月は感情を表に出さず、ただ無言で鬼蛇を見つめていたが、溜息をつた。
「いや………。あの方を殺せる者がいたのだな、と」
頭領になるはずだった鬼。それを討ち取った鬼。
葉月は鬼蛇という存在がわからなくなっていた。長月はずっと前から鬼蛇を不審に思っていたが。
「惜しくも、姫君は殺せませんでした。なんとも面白い妖術を使っていらしたので」
「文月が、何を使ったというのだ」
「物の怪を体内に取り込み、自身が物の怪として戦う。実に素晴らしい」
物の怪を体内に?
葉月は従妹がそんな特殊な妖術を取得していたのかと眉を顰める。
困惑する葉月を他所に鬼蛇が更に次なる手を思いつく。
「葉月様……。姫君は弱ってらっしゃいます。今のうちに瑪瑙を竜宮に送れば、確実かと……」
鬼蛇の言う通り、今弱っている文月を人形趣味な瑪瑙に任せれば、彼女を簡単に討つことができる。
「おい、貴様。何を勝手なことを……」
「長月、良い」
いよいよ反論しだした弟を止め、葉月は頷いた。
「……瑠璃」
女鬼を呼び出せば、すぐに傍に現れた。
「はい、葉月様」
「瑪瑙に、俺の所に来るように伝えろ」
「かしこまりました」
………………
「………」
───白い鬼が、目覚めたり。
「さ…つき……」