【第一章】ごめんなさい
黒髪が暖かな風に揺れ、日の光に照らされ煌めいた。妖術で頭に生えた二本の角を隠し、黒い瞳であの人を映した。
優しい微笑みを浮かべる愛しい人から、小さな紐が結びついた黄金色に輝く小さな鈴を手渡された。転がす度に高い音色を鳴らす鈴は、母の気に入っていたものとそっくりだ。
嬉しくて、嬉しくて、仕方なくて。大粒の涙が地面に留めることなく零れ落ちていく。
あの優しさにもう一度触れられるのなら、たとえ孤独でも、前を向いて行けるから。だから。
────もう一度、会いたい。
………………………
ゆっくりと瞼を開けた。さっきまで、あんなにも暖かかった夢の中とは打って変わって、肌寒い。しばらく夢と現実との区別がつかずにぼんやりと木造の天井を見つめた。
冷たい空気の中、両手に温もりを感じた。夢から醒め、寂しさに涙を流しそうになったところ、この手がもう一度暖めてくれた。
「姫様……」
すぐ側で声がした。その声に視線を向けるとそこには泣きそうな顔の小桜がいた。
「姫様」
反対の方向を向けば、無表情の小雪がいた。
この手は、二人が握っていてくれてたんだとその時悟った。
「良かった……。目を覚ましてくれた……」
小桜が眉を顰めて、ついに涙を流し始めた。小桜は存在を確かめるかのようにその手を優しく握った。
小雪の指先が、美月の頬に触れた。小雪の表情は相変わらず変わらないが、それでも、瞳が揺れている。
「なか、ないで…小桜、小雪……」
「姫様…」
美月は二人を安心させるために、微笑む。だが、それは逆効果だった。美月の声を聞いて安心した双子の小鬼は大粒の涙を流しながら美月の手をより一層握り締めた。
「わ、たし…。生きてる…」
「皐月様が治癒の力を使って、姫様の傷を癒やしました」
「皐月が…?」
そういえば、他の皆は無事だろうか。美月が鈴紅に攫われたあと、皐月も、弥生も、師走も。小桜も小雪も、何もなかっただろうか。
そういえば、あの時、鈴紅は死んでいなかった。しぶとく生きていた。そして………。
「夕霧………」
美月の呟きに小桜と小雪は目を見開いた。
「あの人は………」
「夕霧も大きな傷を負っていて、皐月様が治療をし、今は安静にしています」
彼は無事だ。美月は安堵の息を吐くと、上半身を起こした。だが、痺れるような痛みが腹から全身に広がり、苦痛に顔を歪めた。小桜と小雪が慌てて美月の行動を制した。
「まだ動いてはいけません…」
小桜は美月を再び布団に戻す。美月は眉を顰めて、首を振った。
「でも……。少しだけで良いの…。話をしたい」
「………………」
小桜は俯いたまま一向に了承してくれない。それどころか、小雪は無表情のまま起き上がろうとする美月の肩を押さえ、首を振った。
「絶対にそこから一歩も出ないでください。絶対に」
小雪は念を押した。安静にさせるため、というより、夕霧に会わせたくないのだ。美月が傷を負ってまで、守り抜きたがる彼の存在に嫉妬していた。
そこまで言われると美月は抵抗できず、大人しく布団に横たわった。
「傷が、治るまで、もう少しお休みくださいね」
小桜は優しく言って、微笑んだ。美月は布団に横になりながら、小桜に問う。
「私、どのくらい寝てたの?」
「まる一日です。今は夕方です。傷が塞がるまでは学校はお休みですね。師走様が代わりに電話をしてくださいました」
「皆、無事?」
「姫様が心配してどうするんですか!」
一番無事ではない美月がするような質問ではない。小桜は厳しい口調で美月を叱る。何故だが申し訳なくなり、美月は布団の中で肩をすくめた。だいぶ心配をさせたようだ。
それにしても、体が言うことを聞かない。傷のせいなのか、頭が上手く回らない。それになんだか気怠い。
「少し寝るね」
「はい」
小桜の相槌を見届けながら、美月は目を閉じた。
………………………………………
「よう、気がついたか」
目を覚ますとそこには男鬼と女鬼がいた。女の方は手際よく布団を整え、濡らした布を熱い額に乗せた。それを男が見守っている。
「ここは……」
「わからぬか。月火だ」
ここは月火神社の奥にある鬼たちの住まいだとわかると桐崎は溜め息をついた。どうやらあのまま気を失ったらしい。体の至る所にあった傷には、丁寧に包帯が巻かれている。女が処置をしたものだろう。包帯なんて、使い方もわからないのに、恐らく現代を生きている者に教わったものとみられる。
「あいつは………」
「俺が姫とお前の傷を癒やした。まあ、俺の槍がなかったから上手くできなかったけどな」
目つきの悪い鬼はバツの悪そうな顔で頭を掻いた。女は心配そうな顔で桐崎に問う。
「姫様は大きな傷を負ってたわ。一体……」
「………俺のせいだ」
呟かれた言葉に二人の鬼は目を丸くし、首を傾げた。
「あいつは、俺を庇って…」
鈴紅を完全に仕留めたものと思い、安心しきっていたがために、美月は大きな怪我を負った。倒れた血塗れの美月の姿を思い出し、桐崎は下唇を噛んだ。
「あなたは、姫様の大切な人?」
「おい弥生。こいつは夕霧だ」
「夕霧…」
弥生。その名前を持つのは鬼神だけだ。この鬼たちは鬼神なのだ。
「弥生……。それで、こっちは『槍』と言っていたな。皐月か」
「俺の槍を知ってるのか!?」
驚きに満ちた顔の皐月を見つめながら桐崎は頷いた。
「前世の俺の親戚がお前と戦った。鬼の中でも特に凶暴だったため、念のために武器を取り上げたと言っていたが」
言葉を詰まらせる皐月の方を何度も振り返っては弥生は腹を抱えて笑った。
「あはは!皐月は確かに凶暴凶暴!」
笑いを堪え切れない様子の弥生の後ろで皐月は無言で右拳を握り締め、弥生の後頭部に向かって振り下ろした。鈍い音が聞こえ、弥生は後頭部を両手で押さえながら倒れ込む。
二人のやり取りを呆れ顔で見つめていると、皐月が咳払いをして仕切り直した。
「あー、槍のことは後で話すとして……。姫はお前を庇ってあのような怪我を負ったと」
皐月の確認に頷き、俯いた。
「まあ、姫ももう時期目を覚ますだろう。しばらくはここにいた方が身の為だ。師走にも許しを貰えたぞ」
「そうか………」
「ところで、聞きたいんだが」
皐月は桐崎の目を鋭く見据えながら問う。
「お前はこれからどうするつもりだ」
「これから……?」
「お前はこのまま姫と向き合わず、守れずに生きていくのか」
「………………」
「この期に及んで、まだお前は姫から目をそらし続けるのか」
皐月の問いは鋭さを増していく。その一つ一つが、桐崎にとってはとてつもなく重い。何も答えられずに俯いていると、皐月は静かに言った。
「大切なものはいつ失われるかわからないんだ。後で後悔するのは、お前なんだ」
……………………………………………………
眠れない。美月はつい寝返りを打ってしまい、腹の傷が響いた。
側で小桜と小雪が見守っている。それを感じ、安心した。二人がいれば、何も心配せずにいられる。そうして、今度こそと目を閉じたその直後。
スパーンと障子が開き、皐月と弥生が入ってきた。
「邪魔するぞー」
「皐月、もう少し静かにしてよ」
弥生の睨みを特に気にすることなく無視し、皐月は美月を見据えた。
「姫、具合はどうだ」
「まだ傷が痛むけど、大丈夫。皐月が治してくれたんでしょう?」
「ああ…。武器がないから完全に治らなかったが、すまない」
「ううん、ありがとう」
美月は皐月に感謝の言葉を述べた。それに頷き、皐月は背後に目をやった。
「こいつ、連れてきた」
皐月と弥生の後ろに立つ人物に、美月は目を見開いた。小桜も動揺し固まっており、その向かい側に座る小雪は眉を顰めた。
桐崎がそこにいた。どうして、と問う間もなく小雪が口を開いた。
「皐月様、これは一体……。何故そやつがここにいるのですか」
小雪は忌々しげに桐崎を見つめる。だが、桐崎もまっすぐ小雪を見つめ返した。
「そいつと話がしたい」
「話?話してどうする……」
小雪は桐崎の視界から美月を隠すように前に進み出る。似たような性格の二人が対立してしまった。凍った空気の中、皐月が小雪に言った。
「小雪、姫のためでもあるんだ。この部屋を出て、一度話をさせてやってくれ」
「皐月様…!」
小雪は俯き、そして振り返って美月の瞳を見つめる。美月は不安げな表情をしていたがすぐに頷いた。
「私は、話をする…。だから、小桜、小雪。お願い」
美月は上半身を無理矢理起こして、二人に頭を下げた。小桜と小雪はそんな美月の姿を見つめながら眉を顰め考え込む。だが、小雪はもう何も言わなくなった。小桜は立ち上がって弟の腕を引っ張る。
「ほら行くよ」
小桜の言葉に小雪は何も返さず、黙って部屋から出て行く。その様子に弥生と皐月も安堵の息を零した。
皐月は桐崎の背中を突き飛ばすように部屋に押しやると障子をピシャリと締めた。
部屋に静寂が訪れた。美月は桐崎を見つめていると桐崎は目をそらした。だが、美月の視線に合わせてゆっくりと腰を下ろし、恐る恐る目を合わせた。。
数秒ぐらい見つめ合っていると、桐崎はようやく口を開いた。
「………ごめんな」
「……!そんな…」
「俺は……!!」
自分のせいで傷を負わせたことを謝りたかった。でもそれ以前に、まず謝らなければならないことがあった。
「お前を裏切った。お前を救うと言っておきながら、お前をこの手で殺した!」
「…………」
「生まれ変わっても尚、お前を傷つけてきた!何度も!………ごめん…ごめんな…」
桐崎は頭を上げることができない。美月はどんな顔をしているのだろうか。許されないことをしてしまった。後悔してもしきれない。
俯く桐崎の頬を、美月はそっと触れ、優しい声で言った。
「泣かないで。ごめんなさい、こんな顔をさせて、ごめんなさい」
「なんで、謝るんだよ……」
「私のせいで、傷を負わせて、ごめんなさい……」
「お前が謝る必要なんて……」
美月は首を振った。
「あの時、あなたは私に忠告してくれた…。逃げろって、言ってくれた…。聞かなかった私のせい。私がもう少し来るのが早ければ、あなたは葉月たちに利用されなかった…」
美月は胸が苦しくなっていくのを感じた。涙を流しながら謝った。
「辛かったでしょう?でも、もう良い。あなたは、もう何も苦しまなくていい。あなたは何も悪くないんだから。助けられなくてごめんなさい………」
桐崎は美月の頬を伝う涙に触れた。美月はその手を両手で包み、桐崎に縋り付く。桐崎は戸惑いがちに両腕を美月の背中に回した。
何で謝るのだろうか。どうして。桐崎を美月を抱きしめながら呟いた。
「ありがとう……。ありがとう、文月」
『文月』。名前を呼ばれ、美月は桐崎の腕の中で頷いた。
「……夕…霧…。夕霧……、夕霧!」
名前を呼び続け、思い出した。二人は月火神社の見える丘の上で、出会った。そして、そこで夕霧から鈴をもらって、あの鈴はもうどこにもない。文月が死んだあの日になくなった。
あの日を思い、美月は安堵の息を零す。
「………?」
桐崎は急に静かになった美月に首を傾げ、顔を覗き込んだ。美月は目を閉じ、規則正しく呼吸している。
「もう、寝たのかよ…」
緊張の糸が切れ、ぽっくり寝てしまった美月に苦笑し、桐崎は美月の頬を伝う涙を拭った。彼女をもう少しだけ抱きしめていたいという思いを堪え、美月を布団に寝かせた。
桐崎よりも深い傷を負った美月は相当疲れていたのだろう。
桐崎も体の傷を庇いながら立ち上がると部屋の障子を開けた。振り返ってもう一度美月を確認すると、部屋を後にした。
………………………………………………
「ふふ、ふふふふふ!文月を殺したわ!殺した!!」
鈴紅は森の中で、声を上げて笑った。その表情も、以前ような面影はなく、正真正銘の狂人であった。
右手を翳すとそこから氷の短刀が現れる。その刃先を自分の首筋にあて、鈴紅は唇の端を吊り上げた。
「待っていて、母もそちらへ向かいます」
鋭い短刀を滑らせ鈴紅の首に、細い傷ができる。そこから血が溢れ出る。だが、不思議なことに、全く痛みを感じない。
「え?…え?どうして?」
何度も首を斬りつけ、斬りつけ、鈴紅の白い首は赤い線に塗れ赤く染まっていく。
「ぅぁあっ!」
最後に勢いをつけて首を斬りつけるも、血が大量に流れ出るだけで死ねない。鈴紅はすっかり赤く染まってしまった氷の短刀を投げ捨て、肩を抱きながら地面に膝をついた。
「どういうこと……」
鈴紅は困惑し、斬りつけた首の傷を指でなぞる。更に不思議なことに、傷はどんどん塞がっていく。鈴紅はその消え行く傷に爪を立てた。
「二度は死ねないと?それとも………それとも、私の中にいる雪女を追い出さなければ、死ぬことはできないの……?」
鈴紅は唇を切れるほど噛み締め、両手で頭を抱えた。
「そんなの……だめよ……。文月の所に……娘を…!」
「安心しろ、まだ奴は生きている」
どこからともなく聞こえた男の声に鈴紅はピタリと動きを止めた。ゆらりと首を巡らせ声の主を探すとある人物に眉を顰めた。
「葉月……長月………」
「久しいな伯母上」
葉月と、長月は首元や腕、足を負傷している。それを見つめながら鈴紅はゆっくりと首を傾げた。
「何のよう?私はあなたたちのように、遊んでいる訳ではないの………」
「ほう?ならば、聞こう。何故病で死んだ筈のお前が今ここにいる」
葉月の問いに鈴紅はクスクスと笑って黒髪を揺らしながら立ち上がった。
「あなたたちは、滅を司る鬼神の末路を知らないのよ……」
「何……?死ねば再び息を吹き返すのか」
「そんなの、優しいものよ。滅を司る鬼神は自身の手で命を経つと、その体に雪女が乗り移った状態で息を吹き返すの…」
鈴紅は自分の肩を抱きながら着物を通して、皮膚に食い込む勢いで爪を立てた。そしてニタリと不気味な笑みを浮かべた。
「この体には雪女が住み着いている。だから、死ねないのね………憎らしい!」
鈴紅の噛み締められた歯が軋んだ音を立てる。やがて、収まると鈴紅は顔を上げてこてん、と首を傾げた。その瞳は光が宿っていない、無表情だ。
「それで、何しに来たの?」
気分の上下が激しい。昔はもう少し朗らかな印象だった。心が病んでいるとしか考えられない。
葉月は鈴紅を見据えながら唇の端を吊り上げる。
「伯母上、文月を殺したいのなら、協力しよう」
「あの子を愛してもいないお前たちに、協力?」
小馬鹿にするように鼻で笑うと鈴紅は白い振り袖を口元に当て、小首を傾げた。
「どうせ、お前たちの望みは頭領の座。私の理由はもっと深いの」
「だが、結局、目的は同じ。文月を殺すのはあなたの役目。それ以外はこの俺が手伝うのだ」
鈴紅は目を細め、訝しげに葉月の顔を見つめ、俯いた。
「どちらにしろ、殺すのは早い方が良いだろう?」
葉月の言葉に鈴紅は一瞬の迷いを見せ、やがて瞼を閉じ、決意を固めた。
「良いでしょう…。あの子を殺せるのなら………」
鈴紅の答えに満足したのか葉月は笑みを浮かべ、頷いた。