【第一章】幼馴染
当時、人身売買はよくあることだった。妖の子供など拾えばそれは高く値が付き、陰の人々の間では、大変人気があった。
捨て子だった卯月が、売り物屋に拾われたところを、師走が買い取った。既に幼いながらも鬼神であった皐月と出会い、共に師走の元で生活を始めたのだった。
だが卯月はその生活の中で、特にこれといった特技もなく、趣味もない。ただ紙風船で暇を持て余し、呆れば生き物や自然と戯れていた。
「なあ、卯月」
背中越しに話しかけられ、振り返るといつの間にか皐月が胡座をかいて縁側に座っていた。だが卯月は皐月を一瞥しただけで、すぐにまた花を摘んでは弄って、一人で遊び始める。
皐月の不満そうな声がまた聞こえてくる。
「なあ、俺、年の近い鬼神に会ったの初めてなんだよ。なのに、出会った日から全く話さねぇし………」
卯月はそんな皐月の話など聞いていないのか、今度は紙風船で遊び始める。
皐月は眉をピクリと動かし、一旦卯月から離れた。どうやら怒らせたようだ。卯月は肩をすくめ、皐月が消えた方向を一瞥するとまた紙風船に目を向け遊び始めた。
「おらよ」
横から突如現れたのは身をよじる長いミミズ。卯月は微動だにせず、ミミズへと手を伸ばすと素手で触りだす。だがうまく掴めずミミズは手から滑り落ちてしまう。
「ちぇ、なんだ虫触れるのか」
いじけた皐月は唇を尖らせ、地面をつま先で蹴る。そこでようやく卯月は皐月と目を合わせた。
「なんだよ…」
「………………」
皐月は見るからに苛々している。それが伝わり、卯月は首を傾げた。
「なぜ、怒ってる」
ようやく話したと思えば、第一声が訳の分からない言葉で皐月は眉を顰めた。
「お前が無視するからだろ」
「………私、言葉、少しだけしか、話せ、ない」
おかしなところで区切りながら話す卯月を見つめながら今度は皐月が首を傾げた。
「話せない? 言葉がわからないってことか」
「……………」
卯月の白い睫毛が瞬く。
物心つく前に捨てられ一人だったため、『話す』という行為は卯月にとって難しいものだった。
皐月は卯月を見つめ、バツが悪そうな顔で頭を掻いた。
「なら、師走に教われよ。俺も字とか言葉わからなかったから師走に教えてもらったからな」
「………………」
何の反応も示さず、卯月は不思議そうに皐月を見つめている。
「じゃあ、自分の名前わかるのか?」
「…………名前、ない」
「卯月だよ、うーづーき! 今まで名前がなかったかもしれないが、お前は美を司る鬼神の名前を頂いたんだ! ちなみに俺は皐月だ」
「………………」
卯月は瞬きを一回すると俯き、「卯月…卯月…」と呟くとまた顔を上げた。名前さえもつけられなかった卯月は初めて貰った自分の名前が大層気に入ったらしく、皐月に笑顔を向けた。
皐月は落ち着かない様子で視線を彷徨わせると頭を振って腕を組んだ。
「お、俺が師走に読み書きを教えてくれるよう頼んでやるから、感謝しろよ!」
「別に、頼んでない……」
「お前意外に腹立つ性格だな。読み書きは学んでおいた方が良いと師走が言っていたんだ。お前は上手く話せないから代わりに俺が頼んでやるんだよ!」
卯月は皐月の話に頷いてはいたが、所々わからない言葉があるようで難しい顔で首を傾げたりもした。
「それに」
とにかく一つ一つ説明するには時間がかかる。皐月は悪いとは思いつつも卯月を置いてけぼりに話を続けようと口を開いた。
「それに、お前が言葉をわかるようになれば、俺とお前とで話ができるだろ!」
「………………」
皐月の嬉しそうな顔を見つめ、卯月は少し考え込むと、頷いた。
誰かと会話ができるということだ。それを理解し、卯月はまた何度も頷き、目を細めて喜んだ。卯月の笑った顔から目をそらし、皐月は卯月に背を向けた。
「そ、それじゃあ俺は早速師走に頼んでみるから!」
「あ………」
慌てて駆け出してしまった皐月に手を伸ばしかけた卯月は残念そうに声をこぼしながらその手を引っ込めた。
「さ、つ、き………」
慣れない言葉を口にしながら、卯月は微笑んだ。
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卯月の死体の隣で、皐月は卯月の冷たくなったの手を握りながら虚ろな目で卯月の顔を見つめた。
もう動くことのない愛しい人。守ることもできなかった。先に逝かせてしまった。
その時、卯月の枕元に置いてあった金の簪、椿歌が白い光を発しながら宙に浮かぶ。鬼神の武器は、主が命を落とすと次の主を探しに姿を消す。皐月は消えかかっている椿歌に目を見開き、震える右手を伸ばしかける。
「待ってくれ…」
今逃せば、卯月の死を認めてしまったようで、胸の奥から辛くなっていく。皐月の手に触れることなく椿歌は姿を消し、あの金の簪の存在は完全にこの場から消え去ってしまった。
「卯月………」
死ぬのが卯月じゃなくて自分ならば。そんな考えが頭を過ぎってしまった。
皐月は頭を振ってその鬱な考えを払った。
「皐月!」
弥生の声が聞こえ、部屋の障子が開かれる。
「土の振動を感じたの。誰か外にいる!」
慌てて弥生は皐月に訴えると、皐月はすぐに立ち上がった。
もしかすると、それは卯月を無惨に殺したあの女かもしれない。そう思うといても経ってもいられず、部屋を飛び出していた。
…………………………………………………………
小桜と小雪は鈴紅を美月から遠ざけようと手裏剣を飛ばす。だがそれをいとも簡単に避ける鈴紅はまるで哀れむかのようにほくそ笑んでいる。
「あーらあら。大丈夫ーー??」
鈴紅の余裕のある悠長な言い方と微笑みに小雪は短く舌を鳴らすと鈴紅の頭と足に向かってつむじ風を起こす。
鈴紅は一瞬眉を顰め、それを交わし片足から着地すると双子をまっすぐ見据えた。
「あら……。どうして人と鬼の間の子である半妖怪がそのような妖術を……?」
双子は何も答えずに、ただ鈴紅を睨み返している。
「小桜、小雪……」
「姫様、時間を稼ぎますので今のうちに師走様を……」
腰を低めに構えて、鈴紅から決して目をそらさずに小桜が呟くと、鈴紅は静かに笑った。
「師走様? あのお方はまだ生きてらっしゃるのねぇ…。今や、鬼神たちは四代目になろうとしているのに、二代目である師走様は、未だ魂を司ってらっしゃると…」
大変ね、と鈴紅はこてんと首を傾け白い袖で口元を隠した。黒髪がよく映える。
瞳は妖かしの如く、金色だ。文月に良く似ている。そのまま徐々に一歩ずつ美月の元へ歩み寄って来る。小桜と小雪はすぐさま美月の前に立ち、美月を守るために鈴紅に楯突く。
だがその行為が気に食わなかったのか鈴紅は眉をピクリと動かし苛立たしげに目を細める。
「皆私から娘を奪うのね。憎らしい……」
ボソリと呟かれた声があまりにも低く、美月の肩がビクリと反応する。
「……文月。あなたが私の元にさえ来てくれれば、何もしないのよ? ただ、私はあなたを連れていきたいだけ。指示に従ってくれれば誰も傷つかないのよ? ね? ね?」
鈴紅の言葉を聞いた瞬間硬直した。鈴紅が卯月を殺したのは、美月を手に入れるためだったのだろうか。つまり、この惨状を招いたのは美月なのだろうか。
──自分のせいで、卯月は死んだのだろうか。
「文月…。早く来ないと、今度は夕霧を殺してしまいますよぉ」
鈴紅の脅しに固まってしまった美月が鈴紅から見えないように小桜と小雪は美月の盾となる。
美月が明らかに動揺しているのを、双子は背中越しに感じ取った。美月は拳を握り締めた。
「どうして……卯月を殺したの」
やっと絞り出せた声は情けない程に震えていた。鈴紅はこう答えた。
「あなたを探しに来たのだけれど、偶然にも卯月を見かけたの。仲が良かった人は殺したくなるから………。あら、それとも皐月と弥生を誘き寄せる餌にすれば良かったのかも! やだわぁ…私ったらついうっかり………」
口元を手で隠しながら鈴紅は軽い失敗をしたときのように笑った。今そんな状況ではない。場違いな口調は美月を苛立たせるのに十分なものだった。
「でもいいの……終わったことは今色々言っても仕方のないこと。夕霧さえ捕らえれば、あなたは来てくれる。文月、来ないなら夕霧も卯月みたいにしてあげる……」
爪を剥がされ、全身刃物のようなものが突き刺さり、白を基調とする卯月は血がよく目立っていただろう。
卯月が死んだことはとんでもないショックを受けた。今まで何かと世話になり、美月を支えてくれていたかけがえのない存在が無念の死を遂げた。二度と会えないのだ
鈴紅は、本当に自分の母親だったのだろうかと疑った。あの女は今度は前世からの大切な人を奪おうと言うのだ。
「そんな理由で…卯月を殺したの……?」
「そんな理由? 私はあなたのために、私は私のために、卯月を葬ったのですのよ……」
「あなたの都合なんかどうでもいい!」
鈴紅は不思議そうに目を細め、叫んだ美月は見据えた。
今にも皆殺しにしそうな雰囲気の鈴紅に怖じ気づくこともなく、美月は鋭い眼差しを母と慕った女に向けた。
「夕霧は、殺させない……。お前にっ! 夕霧は殺させない! たとえこの身が朽ちようと、夕霧に傷をつけたお前を地獄に送ってやるっ……!!」
いつもの口調とは全くかけ離れた言葉に小桜と小雪でさえも圧倒されていると、鈴紅は無表情になり、娘を見つめた。
「──はあ…。夕霧の目の前で殺してあげようと思ったのだけれど、もういいわ。ここで」
光の灯らない冷たい瞳で怒る美月を映しながら、鈴紅は右手を翳し、美月と美月の盾となっている小桜と小雪に向けた。
途端、横から物凄い勢いで大岩が飛んでくる。鈴紅は美月の方に目を向けながら、一瞬で分厚い氷の壁を作った。大岩は氷の壁にぶち当たり、ヒビを作るもそのまま地面に激しい音を立てて呆気なく落ちた。
鈴紅は大岩を投げたと思われる人物を横目で確認すると鼻で笑った。
「あらまぁ、力持ちが自慢でも、私の氷を砕くことはできなかったのですのね」
そこに皐月が立っていた。皐月の目は怒りで揺れていた。
「皐月!」
その後を、弥生が駆けてくる。
皐月は鈴紅を見つめながら、眉間に皺を寄せる。
「お前は、先代文月………」
死んだ筈の先代文月が今ここにいることは有り得ない。皐月がこの状況に困惑していると鈴紅の方から口を開いた。
「お久しぶり、皐月、弥生。あら大きくなったわねぇ……。卯月も立派に成長してたから、びっくりしたわぁ。私のこと覚えてる? ねぇ覚えてる?」
「ま、さか……。あなたが、卯月を……」
「ふふふ…。ええ、私が殺した」
仲間に会えたのが余程嬉しかったのか、鈴紅は機嫌良さそうに頷く。
信じられない、と皐月と弥生は立ちすくんだ。鈴紅、否、先代文月とは幼い頃に何度か会った記憶がある。家族思いで、仲間思いの優しい女だった。卯月を殺し、罪悪感さえも感じない目の前の狂人があの時の女と同一人物とは思えない。
「どうして……卯月を殺した…」
皐月は動揺しきった声で問うと鈴紅はすぐに明るめの声で答えた。
「楽しいからよ。あれは私の愛情表現。かつて共に過ごした仲間だから、私の精一杯の愛を差し上げましたの…。ふふ…ふふふふふ…」
不気味な笑みを浮かべる鈴紅の狂った思考に弥生は怖じ気づく。皐月は怒りに全身が震えさせた。
「卯月を返せ……。返せ!!」
「ああ、でも卯月ったら酷いのよ。折角会えたのに、冷たいこと…。爪を剥いでも、皮膚を剥ぎ取ろうとしても、体の中に氷を植え付けたとしても……何も反応しなかったの」
「………!」
鈴紅は舌で唇を湿らせながら口角を上げた。皐月は怒りに燃えた目で鈴紅を睨みつけ、袖から尖った両手の爪を露わにする。
「貴様………よくも…よくも卯月を……っ…」
皐月は地面を蹴って鈴紅を爪で斬りつけようと腕を振り上げた。だが腕が動かない。そして冷たい感触が腕から全身へと駆け抜ける。地面から生えた氷の柱が皐月の右腕を下から貫いていた。
「うっ………く…」
「皐月……!」
後ろから弥生が叫んだ。鈴紅は面白そうに軽く拍手をする。
「動きも速いし良いのだけれど……反応が遅れたわね」
皐月は氷の柱を拳で打ち割り、自由になると血だらけの右腕を左腕で庇う。
「はあ……。再会も良いことだけれど…」
鈴紅はそう呟いた途端その場から一瞬で消えた。小桜と小雪の後ろへとすぐに移動し、美月を捕らえる。
美月の首に刃物のように尖った氷を押し付け鈴紅は微笑んだ。小桜と小雪が急いで苦無を取り出したところを、鈴紅が睨んだ。
「邪魔しないでくださるかしら、双子の半妖怪。さあ、一緒に来て、文月。そしたら夕霧を無傷で返すことを約束しましょう」
後半、耳元で囁かれ、美月は目を見開く。逃げることは可能。しかし、今鈴紅を逃がせば、夕霧は必要なかったと殺されるかもしれない。
美月は考えた末、鈴紅を刺激しないように抵抗はやめた。
「母娘共に、参りましょう?」
「───やはり、あなたでしたか文月」
上から刀が振り下ろされ、それを鈴紅は美月を捕らえたまま瞬時に避けた。
カタバミという武器を手に、師走はそこに立っていた。
「師走様……? あらあら、面倒ね」
「姫様を離しなさい」
「お断りします。私の娘だもの」
師走は武器を構え、鈴紅を鋭く睨みつける。他の鬼たちも美月を取り戻すべく、それぞれ武器を手に構える。
驚異的な味方が増え、あとは美月さえ取り戻せば勝てるのだろうが、鈴紅は何も動じることはなく笑った。
「ふふ……」
美月は首元に鋭い痛みと、同時に生温いものが首筋を伝っていくのを感じた。
鈴紅が突きつける氷の鋭い先が美月の皮膚を破いたのだ。
「ふふふ……あははは! 面白い、面白い。でも駄目よ。折角捕まえたのに………渡すものかっ!!」
鈴紅から激しい吹雪が巻き起こる。そのとんでもない威力に飛ばされそうになるのを両足で踏ん張り、鬼たちは吹雪の中唸る。
吹雪が収まると同時に目を開けると目の前にいたはずの鈴紅と美月はいなくなっていた。
「姫様……姫様……!!」
狼狽える小桜と、呆然と立ち尽くす小雪。弥生と皐月も鈴紅が消えた場所を凝視した。
「これはまずい……」
師走は刀を収めると振り返って鬼たちに言った。
「私が姫様を探してきます。お前たちはここで待っていなさい」
「師走、俺も行かせてくれ!!」
右腕から大量に血を流す皐月を見つめて師走は首を振った。
「先代文月は精神を病んでいる。あれは別のものが乗り移ったと言っても過言ではない。今のあの女は、私達を殺すことになんの抵抗もない」
「なら、俺もあの女と戦わせてくれ! 卯月を殺し、姫まで殺そうというのなら、俺はどんな手を使ってでもあの女を……!」
「今はその傷が完全に回復してからにしなさい。……それはただの氷ではない」
氷の柱が突き刺さっていた傷の部分から血と共に煙が立っている。
そしてそこから焼け付くような痛みが広がっていく。
「恐らく、先代文月は本気で殺すつもりだったのでしょう」
師走の言葉に皐月は眉を顰めた。
「恵を司るあなたなら誰よりも治癒の力に恵まれているので、最悪なことにはならないと思いますが、戦うことはまず無理です。右腕が完全に回復するまで待ちなさい」
皐月は未だ難しい顔をしていると、師走は溜息をついて説得を続けた。
「先代文月はあの状態。誰かが目を離したすきに卯月の死体を持ち去っていくとも考えられます」
「………!」
「ならば側についてやりなさい、弥生、皐月」
弥生と皐月は目を見開くとようやく頷いた。皐月は悔しげに俯くも、師走の言葉に納得し卯月に側にいることを選んだ。
「小桜、小雪。あなたたちも注意しなさい。先代文月は関わった者全てに手を出しかねません」
「………はい」
二人共、大切な人を連れ去られたことに衝撃を受けたまま
立ち尽くしていたが、師走の忠告に頷く。
師走も頷くとカタバミを片手に神社を駆け抜けて行った。