【第一章】文月の罪
窓の外の景色を眺めながら美月は眉を顰めた。
「雪積もってる……。どうりでいつもより寒いと思った……」
空は淡い灰色に染まり、辺りは暗くなっている。
「姫様、電話鳴ってますよ」
リビングから聞こえた小桜の声に返事して急いで向かい、受話器を取って耳に当てる。
担任からの連絡で、雪が積もっているため、学校が休みという連絡となるべく外出しないようにとのこと。
受話器を戻し、溜息をついた。今日も月火神社を訪ねようと思っていたのに、確かにこの雪では外出は避けた方が良いのかもしれない。
「姫様」
小桜が窓の外を指差し目を丸くする。見れば外には師走が従えている犬の霊、白狼がいた。
「慌ててる…」
美月はすぐに窓を開けて白狼を中に入れる。外から侵入した冷気に体を震わせ、白狼に目を向けた。
「師走様が呼んでるのね…」
外をもう一度確認すると銀色の景色が広がっている。
「どうやって行けば………」
そして、迷いながら双子に視線を定める。小桜と小雪は互いに顔を見合わせ首を傾げた。
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小桜が戦闘切って突き進んでいく。その後ろを美月を抱えた小雪が駆け抜けていく。
白狼も空中を猛スピードで駆け抜ける。
「ごめん、小雪……」
「別に嫌じゃないんで」
謝る美月に無表情で答える小雪。
むしろずっと抱えてたい、というのが小雪の本心である。そんなこと本人には言えないのだが。
月火神社に到着すると雪の中、師走が立っていた。
「姫様…!」
師走が血相変えて美月と双子の元へ駆け寄る。
「師走様、どうしたんですか?」
「こちらへ来てください!」
いつもの落ち着いた師走が見当たらない。余程のことがあったのだろう。胸騒ぎがする。美月は師走の跡に続いて雪を掻き分けながら奥へと駆けていく。
「ああああっ……!!」
奥の部屋から悲痛の声が鳴り響き、美月は足を止めた。
弥生の声だ。あんな取り乱した声、初めて聞いた。双子も、小雪でさえも表情が引きつっている。意を決して足を進めてみる。奥に進むに連れて、どんどん空気が重くなっていく。
弥生の声がした部屋で足を止めて、障子を開く。
「………………………」
そこには、布団の上で仰向けに横たわる卯月がいた。
弥生が卯月にしがみついて泣き叫んでいる。皐月はただ呆然と、目が固く閉ざされた卯月の寝顔を見つめている。
「卯月……様……?」
小桜が声を絞り出した。
ざわりと鳥肌が立った。美月は全身を両腕で抱きしめ、目の前の出来事を唖然とした顔で見つめた。
「姫様…」
足元がふらつき倒れそうになったところを小雪が支える。
人形のように首をぎこちなく動かし、師走を見る。案の定、師走は目を伏せ、押し寄せる感情の波に耐えていた。
「師走様………。なんで、どうして…卯月が……」
師走は気持ちを抑えるような、どこか悔しげな表情で美月に向き合う。
弥生が肩を上下に動かし、嗚咽を堪えきれない様子だ。
「卯月様…卯月様っ……!」
姉のような存在を亡くした、弥生の悲痛の叫びに心を痛めていると師走が美月の後ろにある障子を開き、手で示すと「向こうでお話が」と美月を部屋の外へ促した。
美月がまず部屋の外へ出て、次に師走が出た。最後に双子が出ていこうと弥生たちに背を向けた。
だが、小桜は一度振り返って、見るからに固くなっている卯月を見つめた。
「姉さん…」
小雪の声に頷き、ようやく小桜は部屋の外へと出た。
「弥生が、酷く慌てた様子で私や皐月を探していました」
師走は美月と双子に茶を出し、美月たちの向かい側に座る。
「卯月が、黒髪の女に攫われたと……」
「黒髪……」
美月は師走の言葉をもう一度呟いた。黒髪と言えば、文月。だが、もちろん美月が卯月を殺したわけではない。その前に美月は茶髪だ。
師走は眉を顰め、肩をすくめた。
「駆けつけた頃には、卯月はひどい有り様で、神社の中央に投げ捨てられていました。爪が全て剥がされ、腕には、鋭く尖ったもので突き刺した跡がいくつも……」
奥の方で、弥生の鳴き声がまだ聞こえる。
そんな地獄のような惨状を、弥生と皐月は見てしまったのだろうか。卯月はどんなに苦しかっただろうか。美月の感情、怒りに揺さぶられる。
「黒髪の女…誰か検討はついていますか…?」
「ついているのは、ついていますが……」
師走は言いにくそうに切り出すも口を閉ざしてしまう。もどかしさに眉をピクリと動かした。
「師走様…?」
なぜ黙っている。師走の返答を待っているとようやく彼は重々しく口を開いた。
「…………あなたの母上。先代文月です」
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突き付けられた真実に美月は言葉を失った。師走は美月の母親と、確かにそう言った。
「でも……母上は亡くなって…」
「あなたには、話さなければならないことがあります」
美月は両手の拳を握りしめた。何を話すというのか。美月は身構えた。
「滅を司る鬼神、文月の末路です」
「え……?」
硬直したまま口だけを動かし、掠れた声を発する。
美月の反応を見て、師走はこうなることはわかっていた、と目を伏せた。
「先代文月は、病に毎夜うなされてました……」
いつもより冷えた空気が、一層肌に感じられ、身震いしそうになるのを耐えて師走の続きの言葉に真剣に耳を傾けた。
「その苦しさに耐えられず、曼珠沙華で首を掻っ切って自害なさいました。それが、今回の原因です」
脈が速くなっていくのがわかった。
──首を、今手に持っている曼珠沙華で。
いつも熱を帯びたように赤い曼珠沙華は、今日だけは酷く冷たく感じられた。
「自害した……? 病に倒れたのではなく、自ら命を絶った?」
「睦月様の計らいで、姫様には母君が自害をしたことを明かしませんでした」
幼い頃に現世の両親を亡くした美月は前世の両親に興味があった。短い時間を過ごした現世の両親より、前世の父親と母親に思い入れがあった。
「母上が自害したことで、今回の件にどう影響を及ぼしたのですか」
「曼珠沙華で自害した滅を司る鬼神は、もう一度息を吹き返すのです。……精神が滅んだ状態で」
師走は自らの頭と胸を指差して語った。首を傾げる美月に、師走は今度は曼珠沙華を指して言った。
「曼珠沙華には、初代文月とその妻、雪女の念が残っています。曼珠沙華の主は自害すれば、その二人が精神にとり憑いた状態で息を吹き返す」
「じゃあ母上は今、精神崩壊した状態で卯月を………」
「その可能性が高いと。あなたの母君は仲間思いの方です。仲間を自らの手で殺めるなど考えられないことです」
師走は記憶の中にある家族思いで、皆に愛された先代文月を語り、少し悲しげに肩を落とした。
小桜と小雪は師走の様子を見て悟った。彼は鬼神の中で一番長く生きているため、多くの仲間が死に行く様を見てきたのだろう。
今度こそは、文月姫を守り抜けるように、と双子と師走は共通の誓いを立てていた。
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「ふふ……ふふふふ………。見た? 見た? 皆すごく泣いてて可哀想…」
地面に正座をして一人ほくそ笑む鈴紅を眺め、桐崎は溜息をついた。
「おい狂人。これ外せ、この体制といい、氷といい正直辛い」
「外してあげるわよぉ…。まず、娘をおびき寄せたいの……。そうねぇ…そうねぇ…。あの神社で待ち伏せしましょうか? ああ、それともぉ…」
両手の自由を奪っている冷たい氷。常人なら手の感覚をうしなっているだろう。今外してほしいのだが、と桐崎は眉を顰める。
頭が逝ってる。正気ではないのは見ればわかる。娘を殺そうと楽しげに計画を立てる狂人を横目で見つめていると、あることに気がついた。
彼女の首元に切り傷がある。傷は深く、無造作に切り刻まれたことがわかる。
「夕霧……。ねえ、あなたは、娘を愛してる?」
「………」
「知らない訳ないわよねぇ? あなたが前世で愛した文月よ。今も愛してる?………あ、もしかして」
何か思いついたかのように顔をぱっと上げ、鈴紅は立ち上がった。
「あの子を愛してるから、殺したのよねぇ!?」
桐崎の両腕に力が入り、手首に張り付いた氷が大きくひび割れる。桐崎の目は、怒りに燃えていた。
「あらあらぁ…怒っているの?」
鈴紅がひび割れた氷に触れると更に氷が生成され、頑丈になる。
「違うの? 私はあの子を愛してるからこそ、殺そうと思うのに………。それとも、もう愛は冷めたの?」
「………………」
「あなた、無口ね。無愛想で…。まあ、いいわ……」
溜息をつく鈴紅はすぐに機嫌を取り戻して上機嫌に笑った。
桐崎は視線をそらした。愛してるか、そんなことを問われても困る。
「じゃあ……あの子を呼んでこないとね……」
クスクスと悪戯をする前の子供のように笑うと鈴紅は大木の上に軽々と飛び乗る。
「楽しみねぇ……」
桐崎を横目で見下ろしながら鈴紅はそう言うと口角を上げて、木から木へと飛び移りながら消えて行った。
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「卯月様……弥生は助けられなかった……」
涙を流し、卯月にしがみつく弥生は、肩を震わせた。
あの時、もう少し、あと少しだけ早ければ、卯月を救えたかもしれない。
卯月の既に冷たく固くなった手を握る弥生を後ろから、皐月は呆然と眺めていた。
──まだ、聞いていない。返事を……。
卯月に渡した銀色の簪。卯月が髪に刺せば、皐月と卯月は結ばれる筈だった。返事を聞く前に、卯月の命は奪われてしまった。皐月は悔しげに、涙を流さずに卯月の固く閉ざされた瞼を見つめた。
「卯月………」
皐月は手を伸ばし、卯月の頬に触れた。もう、会えない。
「卯月様………弥生は……弥生が……」
「弥生、自分を責めるな」
「何よこんな時だけ優しくしないでくれる…」
「………卯月ならそう言うと思った」
皐月は俯きがちに言うと弥生は泣きすぎて腫れた目を見開く。
そして、卯月の顔を見つめながら呟いた。
「卯月様は、皐月のことが好きだったの……」
「………」
「弥生は、わかってた。卯月様と皐月に拾われたとき、教えてくれたもの…」
しばらく俯いていた皐月は突如立ち上がり、部屋の障子を開ける。
「待ってよ!どこに行くの!?」
「………別に。ちょっと外に出てくる」
「どうせあの女を探しに行くんじゃないの? 変な真似しないでよ!」
弥生の叫びに皐月は悔しげに答えた。
「卯月とはガキの頃からずっと一緒にいた…。ずっとだ……。許せねぇ…。卯月をあんな目に合わせた者を、生かせてられるか!」
勢いのまま部屋の外へと一歩踏み出した皐月を誰かが手で制した。
「待ちなさい」
皐月は俯いていた顔を上げ、相手を睨みつけた。
「どいてくれよ、師走」
皐月は殺意にまみれた目で師走を見つめた。だが師走はその場から一歩も引かず、目を細めて落ち着いた声色で問う。
「どこへ行くのですか。何をしようというのです、皐月」
「放っておいてくれ」
視線をそらし、皐月は師走の横を通り過ぎようと歩き出す。
師走は溜息をつくと、皐月の腕を掴んで捻り上げた。
「いってぇ、痛えよっ!?」
振り払おうと皐月は右腕を動かすも師走は皐月の腕を捻り上げたまま呆れた表情だった。
あの怪力の皐月を取り押さえるとは思えなかった。後ろで美月は師走の手を見ていると、あることに気づいた。師走は皐月の関節を押さえている。師走は相当頭がいいと見た。
「お前は、子供の頃から世話の焼ける…。卯月のことはよく分かります。ですが卯月の一番嫌いなことは弥生と皐月が傷つくこと。それを理解しないでどうする…」
皐月は短く舌打ちをすると腕の力を抜く。それを見計らって、師走は手を離した。
その場にいる全員がはらはらと成り行きを見守っていたが、すぐ安堵の息をこぼす。
「………しばらく一人にしてくれ」
卯月の死体を一瞥し、皐月はその場からゆっくりと立ち去った。その寂しげな背中を見つめ、一同は俯いてしまった。
もし、卯月がまだ生きていたなら、皐月と結ばれていただろう。なのに、その全てが奪われた。二人の幸せを奪ったのは…………文月の母親。
美月は下唇を噛んで、拳を握り締めた。
──『滅ぼせ』
また、耳元で聞こえた。
(ああ、やっぱりそうなんだ……)
頭の中では薄々気づいていた。でも、なぜこんなにも苦しいのだろうか。
もうどうしようもない人生に引き込まれていく運命だ。文月は、美月は、どうしたって滅ぶ運命にある。
(私が止めないといけない、そうでしょう)
曼珠沙華を握り締め、瞼を閉じた。
───『お前が、その刀を振るうのだ。お前は滅びを受け入れなければ』
逃げ出したい。怖い。美月は冷たい自らの手を伝って、曼珠沙華が熱くなっていくのを感じた。
(───もしそれで誰かを守れるのなら、私は……)
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「皐月、まだ部屋から出てきませんね…」
月火神社で夕食を食べているとふと気になり、師走は皐月のいる部屋の方向に視線を移した。
「皐月は………」
弥生は箸を止め、俯いた。弥生の器の中には野菜が少し入っているだけでそれ以上、何も入れていない。食が進んでいないようだ。
「愛する人を亡くすのはとても、とても悲しいこと…だから…。弥生は、好きな人なんてできたことないからわからないけど、すごく、皐月は傷ついている……」
弥生の光のない、寂しげな言い方に美月は箸をピタリと止めた。
美月の焦った様子に気づき、小桜と小雪は視線を上げて美月を見つめた。
愛する人。前世の記憶が、頭の中に流れ込んでくる。
睦月、先代文月。鬼神たち。小桜、小雪。そして、夕霧。
(もしあなたが死んだら私は、私は…)
──『私の可愛い娘』
突如耳元に聞こえてきた声は、落ち着いていて、どこか猫なで声だ。
────『こっちよ。いらっしゃい』
どうやら美月を人気のない場所へ誘っているようだ。この声、聞き覚えがある。
「あの、もうお腹いっぱいです。ごちそうさま」
美月はすぐに箸を置き、両手を合わせた。
「もうよろしいのですか」
「はい。あまり食欲がないので……すみません」
肩をすくめる美月に気を遣いながら、師走は頷いた。すると弥生も箸を置いた。
「弥生も……。明日は残さず食べます…。ごめんなさい師走様」
「無理をなさらないでくださいね」
弥生は師走に微笑むと、部屋から出て行った。その後、美月は立ち上がる。
「姫様……」
「小桜、小雪、少しだけ……。少しだけ、一人にしてくれる?」
双子に微笑み、なるべく心配させないように、慎重に言葉を選んだ。双子はもちろんいつもの如く、複雑な表情で考え込むとやっと頷いた。
ありがとう。それだけ呟くと部屋から出た。美月の背中を見つめながら、双子は目で合図を送り合いながら立ち上がった。
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───『こっち…』
声に誘われるようにして、曼珠沙華を片手に神社の中を歩き回り、靴を履いて外へ出る。
すっかり暗くなった空。ひんやりと冷たい空気が漂い、白くなった息が口から吐かれる。歩く度に氷の粒を踏み潰す音が靴の下から鳴る。こんなにも寒いのに、歩くことをやめられない。
───『こっち…』
美月はそこで歩みを止めた。振り返っても誰もいない。眉を顰め、辺りを警戒し始める。
「こっち」
すぐ耳元で女の声が聞こえ、急いで振り返ると目の前にはきれいな顔立ちの黒髪の女がいた。
微笑む女を見つめながら、美月は震える声をなんとか発した。
「は……母…上…」
女は光の灯らない黒い目で、愛する娘を映し、口角を上げる。
「そうよ、私が死んだ後、あなたが文月になったんだものねぇ……。だから私は、鬼神になる前の実名を名乗ることにします………」
そんなことより、と鈴紅は美月を抱きしめ、長い髪を手の平に丁寧に撫でた。
その手も何もかも、まるで死体のように酷く冷たかった。
「私の娘、文月。愛しています。たとえ死のうと……ずっとずっと…」
美月は涙を流しそうになるのを堪え、下唇を噛んだ。今、目の前に母親がいる。自分の母親がいる。
「文月、文月…。あなたを迎えに来たの……」
鈴紅は美月の耳元で優しく囁いた。
「向こうでは、あなたの愛する者が待っています……。人間の男が…」
その言葉を聞いた瞬間、全身鳥肌が立った。
「何をしたの。夕霧のことでしょう、あの人に何をしたの…」
「何もしてないのよ? ただ、その人を捕らえておけば、あなたは来てくれると思って……」
何も言えずに、固まってしまった……。喉が凍りついたかのように、声が出ない。
鈴紅を突き飛ばすこともできない。もし、一緒に来ることを断れば、桐崎は間違いなく殺される。
「文月、何も躊躇うことはない。ただ母についてくるだけ。何も問題はないのよ……」
甘く囁かれ美月の心が揺れ動く。母親の優しく、氷のように冷たい声。
鈴紅はほくそ笑むと美月の手を引いた。
「────………………!!!」
あともう少しで美月を連れて行けると思ったその時、鈴紅を吹雪が突き飛ばした。美月の手を離れ、吹き飛ばされた鈴紅は美月から十分離れた場所で着地した。ギロリと鈴紅は辺りを見回すと、そこには双子の小鬼がいた。
「何よ、人間の血が中途半端に混じった小鬼じゃない………」
悔しげに毒をはく鈴紅を睨みつけながら美月に駆け寄る双子の小鬼は既に戦闘体制に入っている。
「姫様に近づくな………」
小桜の低い声に腹を立てたのか鈴紅は頭をかくんと傾けたまま双子を睨みつける。鈴紅はふらふらと歩み寄って来る。
「ああ……私から娘を奪おうって言うのですね…」
長い黒髪が鈴紅の動きに合わせて左右にゆらゆらと揺れている。
「実に不快だわ……。死んでくれる……?」