【第一章】『私も』
翌日の夕方。神社の鳥居をくぐり、卯月は紅色の空を眺めた。
淡い桃色の着物のスリットから覗く彼女の白い太ももは実に妖艶で、よくそんな美しい彼女を隠れて眺めていた皐月だが、今はここにいない。
芭蕉を探しに皐月は出かけ、弥生は昼寝。鬼神の中で最も人間界に馴染めている師走は村の会議のようなものに出かけていったらしい(角は妖術で隠した)。
卯月は皐月から貰った簪を見つめ、白い睫毛を震わせながら瞬きをする。
「皐月……」
売り物屋に拾われた捨て子同士と、決して良い出会いではなかった。だが、皐月に随分と支えられ続けてきた。
信頼できる、一人の男だ。
「先程から…何者。何の用だ…」
さっきから物の怪のような生臭さと、負の妖気を感じていた。
身構え、椿歌を忍ばせている懐に手を突っ込んだ。
「あー……美を司る…卯月か…」
「……!?」
卯月は目を見開き驚愕の表情で現れた女鬼を凝視した。
「な、なぜ……あなたが…」
「ねぇ、卯月…。あの子はどこにいるのかしら………」
まるで気が病んでいるかのようにのろのろとした口調で突然尋ねられ、困惑する。
「あの子……。まさか、文月姫のことか…」
「そう…。私が死んだから、あの子が文月の名を貰った後継者になったのでしょう??」
「なぜ、あなたがここに……」
「文月……。私の娘はどこ?」
聞く耳も持たない様子。ただ娘を探すその女。この女こそ、先代文月。鬼神頭領、睦月の妻であり、文月姫の実の母親なのである。
しかし、この女は若くして亡くなったはず。そして、その娘である、今の文月姫がその名を受け継ぎ、曼珠沙華の新たな主となった。
「なぜ、あなたが生きているのですか…。文月姫を探して、どうするおつもりなのですか……」
「そうですわねぇ…。殺してあげるのよ…」
「……!?」
卯月は先代文月を睨みつけた。
「あなたは……姫を、実の娘を殺すと…!?」
「ええ、そう殺すのです。愛しいから……愛しているから殺すのです………!!!! 我が手でぇ……愛おしい娘を殺めるの!! ああ、我が娘よ。母は今ここにっ…!!」
卯月は眉を顰めた。先代文月は爪で下唇を引きながら歯を見せ笑った。その様子は狂人そのもの。恐ろしいほど光の灯っていないその瞳に背筋がぞくりと震えた。
「先代文月様………。あなた…一体…」
「フフフ。駄目よ卯月。文月はもう我が娘の名前」
おかしそうに腹を抱えて首を傾ける先代文月。
「私はもう死んだのだから、鬼神ではないのですよ…」
白い着物の先代……いや、ただの女鬼はほくそ笑む。頭には鬼の証である二本の角が生えており、それはこの女が滅を司る鬼神であったことを示していた。
「早く、教えなさいな。美を司る鬼神、卯月よ。私の娘はどこ?今も殺したくて殺したくて殺したくて仕方ないの」
「………」
神社のこの奥には弥生がいる。今は夕暮れ時。文月姫の生まれ変わりである美月が、神社を訪ねてくるかもしれない。
卯月は下唇を噛み締め、目の前の狂った女鬼を睨みつけた。
「あなたにお教えすることなど、一つもございません」
「ひどいわぁ……ああすごく酷い。鬼神同士の仲であったのに……。酷い酷い。卯月、あなた………」
鈴紅はスッと目を細めた。
「───死になさい」
──間一髪、卯月は飛び上がってその場から離れた。
卯月が立っていた場所には、地に氷が張り付いており、上に向かって鋭く尖っていた。あのまま立っていれば下から氷が突き刺さっていただろう。
「その妖術は……!!」
一旦距離を取って問う。
「滅を司る鬼神、文月ではなくなった今の私は雪女、鈴紅として再びこの世に蘇った……!!!!」
次々と地から生えてくる氷を避け、卯月は簪を翳して叫んだ。
「椿歌…!」
眩い光が鈴紅を弾き飛ばした。鈴紅は呆気なく飛ばされ、やがて大木に打ち付けられると石畳に落ちる。
「あぁ……痛い。久しぶりにこんなに痛い思いをした…」
「貴様……」
よろよろと左右に頭を揺らしながら立ち上がる鈴紅。
「愛しい我が娘の居場所を教えて欲しいだけなのですよ? どうして、攻撃なさるの…?」
やはり、精神的に狂っているようだ。娘を殺そうと目論む母親の手助けなどするものか。
「ああ、卯月。あなたは昔から弱いわね。たとえ相手が誰であろうと、本気で殺すことができないものね」
「できれば、殺したくない……。だが…!」
簪を使って瞬間移動並みの動きで鈴紅の飛ばす氷をかわしながら、卯月は芯の通った声で言った。
「あなたを、止めなければならない……!!」
「遊んでくださると……嬉しいわぁ」
「……!」
空中にいる卯月に向かって鈴紅が手を翳した途端、足元が瞬時に凍り、卯月の自由を奪った。
足元がとんでもなく冷たい。卯月は抜け出そうと藻掻いたがそれはまるで冷たい岩のように固く抜け出せない。
「こんなところじゃ駄目よ。会わせたい人の子がいるの……」
「人の子…」
「我が娘、文月が愛した人間の男…」
「まさか……夕霧を捕らえたというのか!?」
卯月の問を無視し、鈴紅は卯月の体を完全に凍らせた。頭だけを残して。
「ほぉら、来て」
鈴紅が着物の裾を振るった途端、卯月の目の前が暗闇に染まった。
「卯月様ぁ!!」
突如として解き放たれた矢は虚しくも鈴紅に届かなかった。
弥生だ。卯月と鈴紅の戦闘の際に生じた大地の振動を感じ取り、弥生が目を覚ましたのだ。
「さようならぁ」
得体のしれない女鬼は卯月を連れ去ったまま消えていった。
「卯月様……! そんなっ……!」
驚愕の表情で呆然としているとやがて狼狽えた。
「師走様…皐月…! 姫様…!!」
誰か、助けてほしい。必死に助けを求め、弥生は神社を飛び出した。
やけに涼しい。目を覚ませば、辺りは大木と大岩に囲まれた見覚えのない場所だ。なんだか、とても腕が痛い。
「─おはよう。卯月」
あの女の声だ。
「鈴紅………」
身構えようと両腕に力を込めたときにようやく気づいた。氷によって、両腕が岩に貼り付けられている。その冷たさに腕が麻痺している。
まっすぐ目を凝らせば、向かい側にはあの男がいる。
「──夕霧? なぜここに…!」
「文月を釣る餌なのよ。あの子が愛した人ならば、きっと役に立つもの……ねぇ?」
「貴様……それでも元、鬼神なのか!?」
「死んだら鬼神ではないのだから、関係ない……。ああ……滅を司る鬼神ならば、全てを滅ぼすことぐらい、許されるのでしょうか」
赤い唇を指でなぞりながら鈴紅はニタリと笑った。違う。こんな薄汚い鬼が、先代文月のはずがない。
他の鬼神たちが知っている彼女は、優しく、強い、理想の女だ。誰よりもまだ幼かった我が子を愛し、夫である睦月を慕っていた。
今の彼女はまるで、物の怪のように荒んでいる。
「なぜ…………。あなたは…私達が知っているあなたは、真っすぐで気高い、心の優しい御方だった。なのに……!!」
「誰のこと……? ああ、私のこと!!? あああ、変わったのね。私は変わったのね…??」
空を仰ぎながら叫ぶ鈴紅。右手に先端が鋭く尖った氷を作り出し、そして……。
「っ!!!」
突然の衝撃が卯月の右手に走り抜けた。地面に赤い雫が重々しく落ちていく。
鈴紅は笑いながら卯月の人差し指に、氷の先端を突き立てていた。
「な、ぁっ……」
それは指の腸の皮膚を破り、爪を砕いていた。貫通している。
「痛い……そう痛いのね。これがワタクシの、精一杯の贈り物」
その時、向かい側で同じく氷に貼り付けられ自由を奪われていた桐崎が目を覚ました。
「あら夕霧…! 目を覚ましたのね」
ニッコリと笑顔を浮かべる鈴紅。桐崎は目の前の化物を睨みつけた。
「貴様っ……!」
両腕に力を込めたが手首に張り付いた氷はびくともしない。
「取れないわよ、私の氷は特別。簡単に逃げられては困るもの」
「なんのつもりだ……なぜ俺を…!?」
「私の娘が最も愛した人だもの…。こんなに美味しいものを手放す訳にはいかないわ」
鈴紅は卯月の人差し指に突き刺している氷を引き抜くと桐崎に向き直る。
痛みに顔を歪める卯月。桐崎はその鬼に眉を顰めた。
「そいつは……十六夜と一緒にいた……」
「紹介するわね。私の元仲間。美を司る鬼神、卯月」
「なぜそいつまで……」
「だぁって、仲間だから、友達だから、大好きだから、いじめたいの…!!」
頭が本気で狂っているようだ。鈴紅は卯月の指を突き刺した氷の先端を見つめながらおかしそうに喉を震わせる。
先端から赤い液が筋を通しながら流れていく。
「ああ、殺したくて殺したくて……仕方なくて…。ああ、頭が狂ってしまいそう…おかしくなってしまいそう……。我が愛する娘……どこにいるの…」
ブツブツと呟きながらこの場にいるはずのない娘を探すかのように辺りを見回し始める。
精神的な病にかかっている。今美月と遭遇すれば本気でおかしくなるだろう。
「卯月…ねぇ、卯月…。娘はどこにいるの…?」
「………」
卯月は指から腕へと流れ行く血筋を我慢しながら、押し黙る。それに苛立った鈴紅は卯月の首を掴んで叫んだ。
「早く!! 言いなさいっ!!! 私の愛しい娘は!!?」
「………」
「ああ……ああ…」
「くっ……」
鈴紅が掴んでいるところから氷が広がり、卯月の首が凍っていく。喉が、首が、熱い。焼けるようだ。
「ああ、卯月…。あなた、絶世の美女ですものね。私も女、顔に傷をつけるなんて勿体無いわ」
鈴紅が背中を向けているすきに、桐崎は手首を動かしてみるなど試してみるが氷は全く微動だにしない。
「ああああっ……!!!」
卯月の悲鳴が上がった。地面に、爪が何枚か散らばっている。
「やめろっ…!!」
見ていられない。桐崎は鈴紅に向かって叫んだ。その声に反応し、鈴紅はピタリと手を止めた。卯月はあまりの激痛に歯を食いしばっている。
「まあ、どうして…?」
鈴紅は目を細めて、振り返った。
「私、顔に傷をつけないように気遣っているのに……酷いじゃない…」
「お前頭おかしいのか!!! それに……お前、文月の母親か!? 一体何のためにそんな……」
「ああ!! 私に怒鳴らないで!!! 耳障り!! 虫唾が走るっ!!!!」
鈴紅はキッと桐崎を睨み付ける。まるで獣のように野蛮な目つき。たとえどんな説得であろうとこの女は止められない。
卯月は自分の指を見た。親指から中指にかけて、爪が全部剥がされている。薬指は剥がしかけの爪が頼りなく指の先に貼り付いている。手首に貼り付いた氷のせいで若干麻痺しつつあるが、指先に感じる痛みは卯月を恐怖に貶めるのに十分だ。
それでも、美月の居場所は教えられない。
桐崎を睨みつける鈴紅は声を荒らげる。
「ああ、今とてもあなたを殺したいわ、夕霧!!! でもあなたは文月を呼ぶのにちょうどいいから殺せない!!! ──ならば、他の鬼神を殺しましょう、ええそうしましょう!!」
名案だわ!と嬉しそうに笑うとスタスタと早足で卯月の元へと再び歩み寄る。
「卯月! 他の鬼神はどこ?? ああ、そういえばさっきの場所に弥生も居たわね!! ねぇ!?」
「………!」
卯月は目を見開いた。
「弥生もいるなら皐月もいるわね! あなた達三人仲良しだったもの!!」
両頬を引っ掻くように両手で包む鈴紅。卯月は固まってしまった。
───弥生…皐月………。
喧嘩し合いながらも、結局は仲の良い二人。自分を慕い、まるで妹のように甘えてくる弥生。好きだと言ってくれる、皐月の存在。
「や…め…ろ……」
「………」
「あの二人に、指一本でも触れれば…私は、お前を許さない!!!!」
「………」
──ああ、そういえば…。皐月のことを認めたら、皐月から貰った簪を髪に刺すと、約束した。
あの簪は今も懐にある。
「皐──」
「……もういいわ」
鈴紅のその素っ気ない声が、────『最期』に聞こえたような気がした。
──────『卯月、好きだ』
弥生の秘密。
卯月が大好きで皐月に対して冷たいが、二人の仲は認めている。