【第一章】大切なものたちが側にいる
「これは……」
「英語だよ」
鞄の中に入れてあった教材を広げて弥生に見せると予想以上に真剣に眺めるものだから楽しくなってきた。
「異国の文字ですか?」
「日本以外の国で使われてるの」
「弥生にはちんぷんかんぷん」
その様子を茶をすすりながら見ていた皐月は小馬鹿にするように笑った。
「そもそも、弥生は勉学などに向いてはおらんな」
「お黙り、皐月!」
歯をむき出し皐月を睨みつける弥生。
喧嘩が始まり美月が慌てていると卯月がクスクスと上品に笑った。
「慌てなさんな姫。こ奴らは喧嘩をするからこその仲じゃ」
「でも………今にも暴れだしそうで…」
言ったとおり、弥生と皐月は立ち上がり互いに殺意を抱いている様子だったが、それでも落ち着いて茶をすする卯月。
───いつもこうなのかな…。
二人が戦闘態勢に入ったところでようやく卯月は湯呑みをコタツの台に置いた。
「これお前たち。姫が困っておるぞ」
卯月の一声で二人は殺意を収める。
「申し訳ありませぬ姫様、卯月様。皐月がわがままで…」
「貴様、全部俺に罪を擦り付けよって!」
また啀み合うがすぐに収まり、とりあえず畳に腰掛けた。
「姫様ー」
小桜と小雪が鍋を持って襖から顔を覗かせる。
「お昼持ってきましたよー」
「わざわざありがとう!」
しっかり者の二人は美月のためにご飯を作って神社まで持ってきてくれたらしい。
「鍋持ったままここまで…。重くなかったの?」
「いいえ…?」
きょとんとした顔で小桜が首を傾げる。
鬼にとって鍋くらいの重さのものは持ってこれるのだろうか。
コタツの上に新聞を広げ、その上に鍋を乗せた。
「おお、鍋だ!」
「皐月、鍋は姫様のもの!」
弥生は断りもなしに鍋に手を出す皐月を叱りつける。
「良いのに。皆一緒に食べよう?」
「皆で箸を突き合うのですか?」
不思議そうな顔で質問する弥生を見て、美月は目を見開いた。
「もしかして…、皆の時代って一つの鍋を皆で囲む習慣がなかった時代?」
そう言うと弥生は頷く。
──皆が生きてたのって戦国時代辺りかな…。
しかし、美月は大きな鍋を独占するつもりはなかったので皆で食べることを勧めてみた。
「ここの時代では鍋を囲んで食べるの。一緒に食べよう」
美月の提案にすぐに行動したのが卯月だった。
卯月は美月の隣に座り、微笑んだ。
「姫がこうおっしゃってる。断る訳にはいかんな」
卯月が動くと弥生も卯月の隣に座った。
「では失礼します」
そして、弥生は皐月に見下すような目を向けた。
それはまるで卯月の隣は譲らない、とでも言いたげな表情で、皐月は眉をピクリと動かした。
「小桜と小雪も一緒に食べようよ」
「いいえ、私と小雪はお腹空いておりませんので、姫様たちだけでどうか……」
突然、腹の虫が鳴った。
「もういいよ、そういう面倒くさい強がり」
隣で毒を吐く弟、小雪を睨みつけて小桜はお腹を押さえながら慌てて言い訳を考える。
「いいえ! これは…えっと…」
「もう、遠慮しなくても良いのに」
美月はおいで、と手を差し出すと小桜は遠慮がちにその手を握り、小雪と共に美月の隣に座った。
掃除を終えた師走が畳の敷き詰められた部屋へ向かうと何やら賑わっているようだった。
「お、師走! 食うか?」
皐月が鍋の野菜を頬張りながら手招きをする。
「これは、お昼ごはんですか…」
師走は鍋を囲む鬼たちを見つめて目を丸くした。
「師走様、いかがです?」
「いえ、私はまだ寺の中の掃除をしなければなりませんので」
「師走様、弥生も手伝います!」
申し訳なさそうに断る師走に、弥生が右手を上げて申し出る。
「後でも構いませんよ。今は楽しみなさい」
師走は微笑むと部屋を後にした。
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(美月、今日休みなんだ…)
普段欠席などしない親友が休みだと聞き夏海は心配になった。
「大丈夫かな…」
美月の机を爪でコンコンと叩きながら呟く。
「おい」
美月の席の隣にいる桐崎が、声をかけた。
「お前、十六夜の家知ってんの?」
「知ってるけど……何で?」
不思議そうに首を傾げる夏海。桐崎は目を細めて、美月の席を見つめた。
「近くに住んでるから、先生にプリント渡すの頼まれたんだよ。教えてくれ」
夏海は「なんだ、そういうこと」と微笑んだ。そして、意味有りげににやりと笑った。
そんな夏海の表情を見て桐崎は眉を顰めた。
「なんだよ…」
「楽しそうで何より。二人でごゆっくり〜」
桐崎は更に嫌そうに眉をひそめた。
「───別にそういう関係じゃないから」
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「ありがとうございました」
美月は頭を下げて師走にお礼を言う。
師走の隣で弥生がしょんぼりと落ち込んでいた。
「そんなー、姫様帰っちゃうんですか? 嫌ですよー……」
その仕草が愛らしく、そして残念がっている様子がとても嬉しかった。
「いつまでもお邪魔しちゃ悪いし、また明日来るから」
そう言って、尚も俯く弥生の頭を卯月が撫でた。
「駄々をこねるでない弥生。また明日来てくださるのだから、盛大に出迎えようぞ」
盛大に出迎えてくれなくても良いのに、と美月は苦笑した。
もう一度頭を下げると神社の鳥居を小桜と小雪と共にくぐってち家へと向かった。
「姫様、鞄お持ちしましょうか」
「これくらい大丈夫」
「姫様の大丈夫は信用できません!」
「酷いな…」
美月はごもっともな発言をする小桜に苦笑いする。
小雪は空になった鍋を持って無言で美月と姉を見つめた。そして、密かに笑みを溢していた。
小雪にとっての大切な二人。隣にいると、安心感と守らなければならないという責任感が沸いてくるのであった。
美月の家のインターホンを押しても、誰も出て来ない。
桐崎は夏海に教えられた地図を確認し、もう一度インターホンを押してみた。だがやはり誰か出てくる気配はない。
扉を見つめて、桐崎は眉を顰めた。
あの朝、何故美月はあんなにも傷ついていたのだろう。
あの悲しげな表情が、悔しげな涙が脳裏にこびりついて消えない。
そして、何故あの時、殺せなかったのだろう。
「………」
ふと、鞄の中からノートを取り出し、一枚破いた。そして、ペンを取り出し短い文章を書く。
それを学校のプリントと一緒に扉に挟み、溜息をついた。
「文月…」
以前の彼女の名前を呟くと不思議な感覚に陥った。
何か大切なことを忘れているような気がする。微妙な気分で扉に背を向けたそのとき、その人物と目があった。
「なんで……」
美月とその後ろに男女の双子がいた。その双子には見覚えがある。
「何でここにいるの…」
困惑した様子で美月は聞いた。だが桐崎は俯き、何も答えない。
小桜と小雪はその男と美月を見てようやくわかった。
───あの男が夕霧の生まれ変わりであると。
「何しに、来たの……」
美月は強張った体を落ち着かせようと深呼吸するが上手く息を吸えない。
「……学校からのプリント渡しに来た。じゃあな」
それだけ言い捨てて、桐崎は背を向けて行ってしまった。
「姫様…!」
彼の背中が小さくなると美月はしゃがみこんでしまった。
「あいつは…!」
小桜は桐崎が消えていった方角を警戒した。
「姫様、一度お家に戻りましょう? 立てますか?」
小桜が眉を顰めて美月の頬を包む。美月はとりあえず頷いて小桜の肩を借りながら立ちあがった。
二人は玄関に向かったが小雪だけは、ずっと桐崎が向かって行った道を睨みつけていた。
そこで、美月は扉に挟んであるプリントと四つ折りにされた紙を抜き取った。それは家の中で確認しようと鍵を開けて中に入った。
「あいつが、夕霧ですか…?」
小桜が心配そうに聞いた。ゆっくりと頷くと小桜は更に焦り出す。
「だ、大丈夫です。姫様のことは、私と小雪が守ります!ずっと守ります!」
「小桜…」
必死になって、美月を安心させようとする小桜のおかげで胸が熱くなった。
小桜の目には涙が溜りつつあった。
───私のために、泣いてくれている。
嬉しくて嬉しくて、涙が溢れた。
そう、そうだった。小桜と小雪は、前世でも姫のために精一杯尽くした。二人のことが、大好きだったことを思いだした。
「ありがとう、小桜。私、もう大丈夫だから!」
「本当ですか?」
「うん本当」
小桜の頭を撫でてあげると嬉しそうに小桜は目を細めた。
自分のためにここまで尽くしてくれる二人のために、せめて、心配かけないようにしよう。
寝室に戻り、プリントを机に起き、そしてあの紙を広げた。
切り取られた大学ノートの紙を見つめて目を見開いた。
『お前は一体なんなんだ』
それだけ、ボールペンで書かれてあった。
「何って………」
前世の記憶が少しずつ蘇ったからなのか、夕霧に対する気持ちが深まっていく。
──変な話だが、夕霧が愛おしく感じてしまうのだ。
「夕霧………私は、私は………」
涙で視界がぼやけ始めた。
「姫様」
ドアの向こうで小雪の声がした。
美月は慌てて涙を拭うと返事をした。
「どうしたの、小雪」
ドアが開くと小雪の無表情が見えた。
小雪はベッドに腰掛ける美月の元へと歩み寄ると頬に触れた。
「…泣きました?」
「ああ、さっきの…」
「いいえ、たった今泣いてました?」
小雪は小桜と違って無表情すぎて何を考えるのかわからない。
でも今、心配してくれてることだけはわかった。
「ご、ごめんね。なんでもないから」
慌てて目を反らした。
「強がらなくてもいいんですよ」
小雪の悲しそうな声が美月を慰めた。
「なぜでしょうか。あなたは昔から、強がってしまう。なんでも自分で背負って、あなたと夕霧との関係を知ったのも、ついさっきのことでした。あなたは周りに頼ったりしない」
小雪の言っていることは全て本当のことだ。
美月はどこか責任感を強く抱いてしまう癖があり、誰かに迷惑をかけないように、かけないようにと自分から遠ざかってしまう。
「あなたの周りには、あなたに助けられた者がいることを、忘れないで。あなたは、誰かに頼っても良いんです」
小雪は美月の涙を拭って目を合わせた。
人間──日本人の血が混ざっているからか、黒目が目立つ。
美月はいくら小雪でも、男の子とずっと目を合わせていることに緊張した。
「僕が、あなたを守ります。夕霧から、あなたを守ってみせる」
決意のこもったその言葉は、美月の胸の奥に溜まったものを一瞬で吹き飛ばした。
「ありがとう…小雪…」
泣きながら美月は小雪にしがみついた。
近くにたくさんの大切なものたちがいる。大好きなものたちがいる。
美月はしばらくして小雪に見守られ、落ち着いた。
小雪が自分のことをどう思っているか、未だわからないままである。
桐崎優の秘密。
美月の家を探し回って若干迷子になりかけた。