【後日談】我が子を愛す
結婚してからの生活は、人間だった頃と比べて忙しい毎日が続くようになった。住居は妖の国にある竜宮の屋敷と、以前住んでいた人間界の田舎町にある古い一戸建てを行き来している。生まれてきた子が人間界に馴染めるようにだ。
「かあさん、兄ちゃんがぁ!」
次男、日向はまだ幼く、目を離せば何をやらかすか分からない。
「何で母さんにチクってんだよ!」
息子たちの方へ振り向くと、黒髪に刺さった花簪が音を立てた。
「日暮、弟を泣かせるような子に育てた覚えはないよ」
以前よりも気品さが増した美月は、自分によく似た長男を叱りつけた。
十六夜美月は、妖の頂点に立つ鬼神族の文月である。頭領である父、睦月と亡き母、先代の文月と最愛の兄、先代の水無月に守られて育った鬼姫の生まれ変わりだ。過去世からの因縁で夫婦となった夕霧と美月には、二人の息子がいる。
長男の日暮は、夕霧が人間であった頃に生まれた子なので、半妖怪だ。やんちゃですぐに弟を泣かせるくせに、いつの間にか仲直りしてまた兄弟で遊び始めるのだ。半分人間の血が混じっていても力は強く、そろそろを制御を覚えさせなければならないようだ。
次男の日向は、生粋の鬼だが兄と比べて大人しく、引っ込み思案だ。優しい子だが、もう少し頑丈で強くなってもらわなければ。でもきっと、勇敢な子に育つはずだ。
日暮も日向も母親似だが、性格は両親のどちらにも似ていない。聞いた話、日暮の性格は若い頃の睦月に、日向の性格は如月に似ているらしい。ということは見た目も性格も母方の遺伝だ。
「でも、夕霧の良い所は沢山受け継いだはず」
夫の夕霧は、五代目の水無月として竜宮の当主となった。頭の回転が早く、補佐である神無月と共に荒んだ竜宮を見事に立て直した。これほど喜ばしいことはないが、なかなか一緒に過ごす時間が取れない。
──まったく困ったものね。
働いている姿に文句など一切言ったことはない。でもせめて、今日くらい妻と子に会いに来れば良いものを。
別に寂しいなんて思わないが、あれだけ働いているといつか倒れてしまわないかと心配になる。
「姫様、お茶でもどうですか」
美月にそう声をかけたのは、今は静美の里の頭領であるお蝶だ。いつもの忍装束ではなく、蝶柄の綺麗な着物を身に纏っている。どうやら夫の疾風からの贈り物らしい。
「お蝶、舞は元気にしてる??」
「はい、どうやら日暮様と仲良くさせていただいるようですね」
「あの子ったら舞に迷惑かけてない?」
「滅相もありません。毎日、日暮様のことをお話していますよ」
お茶を飲みながら、二人は会話を弾ませた。お蝶は疾風との間に、舞という娘をもうけた。日暮とは歳が近いため、よく一緒に遊んでいるそうだ。
「今日は忙しくないの?」
「それが、部下たちに働きすぎだと言われまして、今日はお休みになってしまいました」
お蝶はそう言って苦笑いする。お蝶は良い部下を持ったようだ。それなら、夕霧も休みを取ればいい。休んでいるところを見たことがないが、知らない所で倒れたりなどしていないだろうか。
不安になり、美月はその事をお蝶に話した。するとお蝶も同じことを思っていたらしく、頷いてくれた。
「確かに、そうですね。日向様もお生まれになったことですし、ゆっくりお過ごしになれば良いのに」
「兄様の時もこんな感じだった?」
「先代の水無月様もお忙しそうでしたが、今は竜宮の復興のために都が動いていますからきついでしょうね」
夕霧のそばに神無月がいるからまだ良い方だ。
「竜宮を救いたいのね、きっと」
一度、夕霧と神無月は竜宮を見て回ったらしい。親を殺された子や、また逆に子を奪われた親が沢山いた。新たな水無月が見つかったことで水不足は改善されたが木や花がほぼなくなって景観が廃れてしまった。
夕霧は、荒んでしまった竜宮を、美月の最愛の兄が治めていた頃の竜宮に戻すために、必死なのだ。
「ありがとう、お蝶」
お蝶は湯のみを両手に、にっこりと笑った。
…………
竜宮の屋敷は広く、普段美月が息子二人と過ごしているのが西館で夕霧がいるのが本館だ。美月が立ち入ると、すれ違った者たちが慌ててお辞儀をする。それもそのはず、美月が当主の妻なだけでなく、鬼神族の次期頭領でもあるからだ。
頭領一家の者がいるため、竜宮は重要視されている。美月の存在が、復興の手助けになっているのだ。
「姫さん」
「わっ」
背後から話しかけられて肩が飛び上がる。振り向くと腹を抱えて笑っている神無月がいた。
「母になっても愛らしさは変わらないね、でもそこが良いんだよな」
「ちょうど良かった、聞きたいことがあるの」
「相変わらず口説いても駄目だね、どうしたの」
神無月の好きな物は美女。故に美月を口説くのも欠かせない神無月だが尽く跳ね除けられ、お蝶たちが夕霧に報告し、半殺しにされるのだ。
最近は忙しすぎてお互いに顔を合わせていない竜宮夫婦だが、夕霧は美月と日暮と日向の護衛を密かに西館に送り込んでいる。毎日忍びを通して家族の様子を見ているのだ。
今もどこかで見張っているだろうが、気づかない美月は不安げな表情で神無月に問う。
「夕霧は元気なの? 最近ずっと働きっぱなしだから、倒れてないかと思って」
「それは心配ないよ、元気にしてる」
「良かった、無理をしないようにと伝えて。あと、これを渡しておいて」
そう言って、美月は餅の詰まった箱を神無月に渡した。
「甘味だね」
「あの人、意外と甘いものが好きなの。神無月も一緒に食べてね」
「ありがと」
本当に意外な話だ。あんなに無愛想で冷えた雰囲気の男の好物が甘味とは、面白い情報を手に入れた。
神無月が餅を受け取った時、すぐ脇に竜宮の忍が現れて神無月に耳打ちした。
「当主より、早急に奥方から離れろとのこと」
思った通り見張られていた。しかも神無月はまた懲りもせず美月を口説いていたので、そのことも伝わっているだろう。今日こそぶっ殺される。
首を傾げる美月に、何でもないよと笑ってその場から逃げるように去った。後ろから美月が慌てて名を呼んでいたが、神無月はにっこり笑い返すだけだった。
…………
「お前、またひとの嫁さんを口説きやがったな」
神無月は悪びれた様子もなく、頭を掻きながら歯を見せて笑う。奥に見える牙がきらりと光る。
美月から貰った餅を頬張りながら、夕霧は無邪気に笑う神無月を睨む。本当に困った奴だ、この前なんか、お蝶をお茶に誘ったらしく、疾風が呆れていた。
「良いなぁ、俺も嫁さん欲しい。あ、君の妹貰ってもいい?」
「ダメだ、その前に小雪が許さないだろうな」
小桜も年頃だから、そろそろ誰かと所帯を持った方が良いだろう。けれども、小雪が小桜を嫁に出したがらないから当分は無理そうだ。夕霧が美月を嫁に貰った時も暫くは小雪に見張られていた。
小桜も、嫁に行きたくないわけではないらしい。強くて男らしい男が好みと言っていたが、神無月は少し違う。強くて賢いが男しての信念の強さが欠けている。それにすぐ美人に惚れるので呆れたものだ。未だに美月を狙っているのも事実だ。
「それで、なんて言ってたんだ」
「何が〜?」
「美月だ、何か言ってたか」
「はいはい、大好きな奥方の話が気になるんだね〜」
余計なことばかり言って夕霧の反応を見るのが、神無月にとっての楽しみだ。当然、夕霧は茶化されて顔を赤くするような可愛い性格ではない。どこかで刀の擦れる音が聞こえてきて、神無月の背筋が凍る。
「ごめんねえ、姫さんからの伝言預かってきたからお許しくださいませ」
神無月は命欲しさに精一杯愛想笑いを浮かべて、美月の話題を再び提示した。
「"無理をしないように"だってさ。ここのところずっと働きっぱなしだろ? 姫さんにも会ってないらしいじゃん」
「……」
「姫さんは二人の子を持つ母親なんだよ、心配かけちゃ駄目でしょ」
美月と竜宮内を散歩していた時の事だ。荒れ果てた景色を見つめながら、彼女は小さな声で、「兄様の都が…」と呟いたのだ。あの時の悲しげな目をよく覚えている。
美月と美月の兄のために、自分が竜宮を救わねばならないと決心した。努力のかいあって、竜宮は徐々に元の美しさを取り戻しつつあるが、逆に美月を不安にさせてしまったようだ。
「会いに行くか…」
「そうしなよ。ところで、俺も餅を食っていいかな?」
夕霧は餅と神無月を交互に見つめて、眉をひそめる。
「何だよ、子供だな〜。意地悪されたって姫さんに言いつけよ」
神無月がそう言うと、夕霧は大人しく餅の入った箱を差し出した。どうやら、夕霧は美月に弱いようだ。神無月は嬉しそうに礼を言って餅を受け取り、食べながら考えた。
姫さんに言いつけると言えば夕霧は従ってくれる。神無月は、最初は妻に悪い所を見せたくないという気持ちの表れかと思っていた。
しかし最近、もしかしたら姫は鬼嫁なのではと気づき始めた。まあ、実際鬼のお嫁さんなのだが、そうではなくて一家の中で姫の権力が一番強いのではないだろうか。結婚する前は優しかったのに子供が生まれれば強くなる嫁なんてよくある話だ。夕霧と姫もきっとそうに違いない。
「苦労するね、"水無月殿"」
「突然何を言う。それと、その名前慣れないんだが」
「鬼神は普通、血族と夫婦同士しか本名で呼び合わないし」
「それは知ってるけどなんか無理」
「だよね、俺もそう思う。別に強制ではないから、夕霧で良いか。じゃあ俺も姫さんのこと美月ちゃんて呼んでいいかな?」
「ダメだ」
美月だけは譲れないと、夕霧は即首を振った。神無月は唇を尖らせて夕霧を羨ましそうに見つめる。嫁といい名前といい、夕霧は羨ましい。
「俺も嫁欲しい! こうなったら小桜に文出してやる!」
「おい、早まるな」
また変なことをほざき出したと、頭を抱える夕霧に構うことなく、神無月はウキウキとした様子で文の内容を考え始める。
小桜と小雪は夕霧の父親違いの妹と弟だが、初めて出会ったのが二人が敬愛する美月を殺した時で、兄弟らしい思い出も一切なく、未だに形だけの兄弟として接している。美月のこともあって、二人との溝が完全に埋まった訳では無い。しかし、美月が居てくれるから二人との仲も何とか上手くいっているが。
後日、神無月が本当に小桜に文を送り、顔を真っ赤にした小桜と相変わらず何を考えているのか分からない小雪が竜宮を訪ねてきたので、夕霧は一緒に茶でも飲んで近状報告でもし合ったという。
………………
神無月に促され、妻子の暮らす西館を訪ねてみたが、姿が見当たらない。偶然近くにいた女中に聞いてれば、いつもの部屋にいるとのこと。その"いつもの部屋"'を知らなかった夕霧は、家族を放ったらかしにしていた己を悔いる。
教えられた場所に来てみれば、あまりの静けさに違和感を覚えた。襖をそっと開けてみれば、美しい黒髪が見えて安堵する。しかし、当人は文机に突っ伏して眠っていた。
「美月?」
よほど疲れているのか、声をかけても起きる気配がない。嫌な予感がして恐る恐る指先を美月の口元に持って行ってみると、細い寝息がちゃんと当たった。生きている、良かったとほっとしていると美月の瞼が震え、ゆっくりと開かれる。
瞳が夕霧を捕らえ、その頬は緩められる。むくりと起き上がって目を擦る美月に優しく微笑み返すと、少しだけ乱れた黒髪を整えてやった。そうしたら自分で出来るからと言われてしまい、軽く落ち込んだ。
「お仕事は?」
「今日は休み。日暮と日向は?」
「お外で遊んでるよ。お勉強も放っぽり出して」
困った子達よねと笑う妻を穏やかな目で見つめる夕霧。ここ暫く我が子達に会えていないなと、袖の中に隠してある金平糖の包みに気を配る。
すると美月が首を傾げながら夕霧の袖を指さす。
「何持ってるの?」
さすが美月は鋭い。ぎこちなく視線を逸らすと美月が袖の中に手を突っ込み始めた。
「おい…」
「へー、これ日暮たちにあげるの?」
金平糖の包みを袖から取り出して、嬉しそうに笑う美月。確かに息子達にあげるものだが頭の固い夕霧は素直に首を縦に振れない。
「あー、恥ずかしいんだ」
「別に」
「あの子たち喜んでくれるよ」
そう言われると心が癒される。しかし尚も夕霧は素直になれず黙り込む。あなたも小雪も都合悪くなると無口になるんだからと困り顔で頬を抓られる。結構痛い。
美月はまだ眠気が残っているのか欠伸をしながら肩にもたれかかってくる。寝るなら布団で寝ろと言っても離れてくれないので片手で黒髪を撫でた。
美月も美月で大変だ。彼女は従兄の長月と共に次世代の鬼神の頂点となる存在だ。毎日夕霧の知らない所で仕事に追われてついでに育児までこなしてきたのだから大した女だ。
「近々、菊ノ清城に長月と一緒に行くから。頭領のお仕事を補佐しに行くの」
肩に頭を預けながら美月は呟いた。そうしたらお互い忙しくなるから暫く会えなくなる。次期頭領と竜宮の当主では一緒に過ごす時間もあまりない。
「じゃあそれまで、俺は西館で過ごすよ」
「本当? 嬉しい、子守りはよろしくね。すっごくやんちゃな子達だから」
「……」
美月のキラキラした笑顔に逆らえず、黙って頷いた。
その時、陽気な足音が廊下に鳴り響いた。それが誰のものなのか分かった途端、夕霧と美月は慌てて体を離す。障子が勢いよくすぱーんと開かれ泥だらけの長男坊次男坊が現れた。
「かあさん見て! 変なやつ捕まえてきた!」
必死に逃げようともがいている下級妖怪の足首を掴んで楽しそうに笑う日暮。その横で困り顔の日向が立っている。何をしているんだこの子達は。
しかし、二人は夕霧を見てハッとする。
「とうさん」
久しぶりに父親に会えたことが嬉しかったのか、日暮はパアッと目を輝かせて捕まえてきた生き物をその辺に放り投げて夕霧に飛びついた。兄の真似をして日向もついでに飛び込んでくる。夕霧は二人の息子を受け止めて頬を緩ませる。
慌てて四肢を動かし部屋から出ていく小妖怪を見送りながら美月は顔を顰める。
「日暮!」
「ごめんなさい!」
何を言われるのか瞬時に分かった日暮は、顔を青くしながら咄嗟に謝った。最初からしなければ良いものを。着物までこんなに汚して。
日暮はこの世でいちばん怖いものは母親だと思っている。怒らせればただでは済まないので慌てて父親に話しかける。
「とうさん、遊んで」
「一体何の遊びにハマってるんだお前たちは」
「変な妖怪を倒す!」
「無差別に傷つけてやるな、ほらこれ食べろ」
「よっしゃ!」
日暮は貰った金平糖を頬張りながら目を細める。夕霧の体に引っ付いている日暮を見つめながら溜息をつく美月。昔は美月の方に懐いていたのに今では夕霧にベッタリだ。しかし、日向だけは遠慮がちに美月の方に歩み寄って来てくれた。
今日もお兄ちゃんに振り回されてきたのねと頭を撫でてやると日向がおもむろに口を開く。
「かあさん、あのね」
なあにと、優しく聞いてみると日向は可愛らしい笑顔でこう言った。
「僕、妹欲しい」
美月は目を見開き、ぱちぱちと瞬きを繰り返して首を傾げる。
「どうして妹が欲しいの?」
「なんとなく?」
特に深い意味はないらしく、日向はどうしても妹が欲しいと駄々をこねる。
美月がチラリと夕霧を横目で確認すると、夕霧は柔らかい笑みを浮かべた。
「考えとくな、日向」
その答えに日向は満足そうに首を縦に振る。妹が出来たら絶対に大事にするんだ、僕が守るんだと言い張る様子が、美月の亡き兄に少し似ていた。
夕霧は腕の中にいるまだ幼い日暮の背中を軽く叩き始める。さっきまではしゃいでいたのに急に大人しくなり、次第に寝息が聞こえてくるようになった。気付けば日向も母の腕の中で眠りこけている。
「もー、こんなに汚して」
息子達の着物に付いた泥を見て眉をひそめる美月。起こしてお風呂に入れなければ。
夕霧は眠っている日暮の背中をぽんぽんと叩きながら子どもって良いなと言葉を零した。出会った頃の夕霧はあんなに冷たい態度を取っていたのに、今ではすっかり柔らかくなっている。
「二人共お風呂に入れないと…」
「もう少しこのままでもいいか?」
「……仕方ないなあ」
丁度起こすのは可哀想だなと思っていたところだ。美月も日向を抱えて小さく笑った。
「美月」
「なに?」
「愛してる」
「はいはい、私も」