【第四章】君を忘れない
まだ息を吹き返したばかりで体に負担がかかるため、暫くは休むようにとお蝶と睦月に言われた。とはいっても、体は死ぬ前よりも大分楽で、あの時の病が嘘のように吹き飛んでいた。瑠璃のおかげで。
不思議だ。瑠璃が、すぐそばにいるような気がする。瑠璃を思い出すと、自分の中から、瑠璃が話しかけてくるようだ。
ふと、枕元に置いてある曼珠沙華を見つめた。気のせいだろうか、どこか変わった気がする。紅色の鞘を掴んで、部位を見てみる。特に見た目は変わっていないようだが、掴んだ瞬間、この手に流れ込んできた"気"がいつもと違う。
──夏海が宿っているから? でも、やっぱり、何かが……。
その時、頭の中に映像が流れ込んできた。
それは、夏海が黒竜に頼んで曼珠沙華の調整を行っている所だった。
「ああ、なるほど」
今の映像は、曼珠沙華から腕を伝って頭の中に流れてきた。曼珠沙華の中にいる夏海が、事情を説明してくれたようだ。
──夏海も、瑠璃も、そばにいてくれているのね。
今まですやすやと眠っていた我が子が小さな泣き声を上げた。あやしながら、その可愛さに頬が緩む。
日暮は美月と夕霧、どちらに似ているだろう。顔は父親と母親の特徴を見事に受け継いでいた。成長していくにつれて、親や親戚と似てくるだろう。
「日暮……」
この子は、この子は、必ず守ってみせる。夕霧と一緒に、日暮を見守り続ける。
──夕霧……?
最後に会ったのは、死んでしまったあの日だ。視力を失い、体も不自由になってきた頃、夕霧は日暮を抱いて迎えに来てくれた。それに安心して、息を引き取った。
彼は、どこにいるのだろう。日暮を抱えたまま立ち上がり、部屋を出ようと戸に開けた時だった。外にいた睦月と目が合った。
「父上……」
「何をしておる」
寝ていろという指示を無視した美月は、申し訳ありませんと軽く頭を下げた。
「まあ、良い。そこに腰を下ろせ、お前に話しておかねばならぬことがある」
美月が真剣な顔で頷くと、親子は向かい合って座った。
何の話だろう。妙に胸がざわついた。睦月は一度、娘の腕に抱かれている赤子を見つめて、再び娘の顔を見た。
娘も子を産んで、母となった。これから歩み始める娘たちに、重く辛い現実が突きつけられる。
「文月……」
「はい、父上」
美月もただ事ではないと察し、覚悟を決めた目で、父親の次に発せられる言葉を待つ。
「夕霧は、死んだ」
部屋の空気が一気に冷えた気がした。今までよりももっとずっと重い静寂が訪れた。
美月の表情が固まった。何を言われたのか分からない。今のは…………
「文月。あの人間の男は、死んだのだ」
頬を打たれたような表情で、美月は「嘘」と情けない声を発した。
「父上、何を言いますか。夕霧は今、どこに?」
「会いたいか」
「はい。このお屋敷にいるのですか?」
睦月は美月の問いかけに頷くと、「くのいち」と背後に呼びかけた。すると、お蝶が静かに現れて、睦月と美月に跪いた。
「娘は、あの男に会う。その間、お前が子を見ておれ」
「はい」
お蝶は険しい顔つきで日暮を預かると、美月を見つめて、こう言った。
──姫様、私がついております。
お蝶のこの言葉を受けて、不安になった。
まさか、父が言ったことは真の話なのか。今、この瞬間、全てを否定したくなった。
父の後ろについて、重い足取りでいつもよりも暗い雰囲気を放つ廊下を歩いて行く。
ある部屋の前に辿り着くと、父がちらりと後ろを振り返る。いつも表情の変わらない父だったが、この時だけは、闇を宿した瞳だと思った。
その部屋に居たのは、横たわる一人の男だ。それが誰なのかはすぐに分かった。信じたくないのに、 嘘だと言って欲しいのに、父は黙ったままだ。
だって、何もかも、これからだって思ってたのに。今度こそ、夕霧と日暮と一緒に生きられると思ってたのに。全部崩れて、元に戻せなくなった。
「…………」
美月はそばにいる父に、視線を向ける。驚愕し、涙さえも出ぬほどに混乱している目で、父親に訳も分からず助けを求めた。
「蘇生するには、寿命を譲る者が自ら余のもとに名乗り出なければならぬ。勝手に誰かからとることは出来ぬ」
悲しみに暮れた鬼姫は、膝から崩れ落ちた。
目をそらしたいのに、そらせない。現実から目を背けたいのに、あなたという人から目を背けるなんて考えられない。
部屋に戻ってきた美月は魂が抜けたように、ぼんやりとしていた。
代わりに日暮を抱えるお蝶は、腰を下ろしたまま動かない姫のそばに寄って、その肩に触れた。
「姫様……」
美月は虚ろな目でお蝶を見る。命を絶とうにも、日暮を一人にすることなど出来ない。それに、美月が死ぬということは、美月に寿命を譲った瑠璃の生き様を否定するということだ。この命は、自分だけのものではないのだ。
「お蝶……夕霧は、何故死んだの」
お蝶は、鬼蛇と繭が菊ノ清城を襲撃したことを話した。
黙って話を聞いていた美月の瞳は揺れていて、泣くのを堪えているようだった。
美月の黒髪を、小さな手が引っ張った。
好奇心か、それとも美月を認識しているのか。日暮は黒髪を引っ張って、楽しそうに笑っている。
まだ生まれたばかりの子が、悪戯をして楽しんでいる。
──妖の子は、人の子と違って成長が早いのかもしれない。
「日暮」
名前を呼んでみると、髪を引っ張っていた日暮の手が止まった。丸く愛らしい目を向けられて、頬が緩んだ。
その様子を見ていたお蝶は安堵した。また姫の心が壊れてしまうのではないかと心配したが、姫のそばには、姫のたった一人の子が居るのだ。それだけでも、心は救われるのだ。
「私……この子を守るために、生きるよ」
「姫様……」
「私は、夕霧を、日暮を、心から愛している」
『愛している。』この言葉が伝わったのか否か、日暮の嬉しそうな声が弾んだ。そんな我が子に、美月は心の中で話しかけた。
あなたの父さんは、あなたを確かに抱きしめたことがあるのよ。
夕霧が生き返る可能性は決して高くはない。寿命を提供してくれる者なんてそう簡単には見つからない。だけど、もしも夕霧が消えても、夕霧が残していった我が子を永遠に愛そう。
やがて大きくなった日暮に、夕霧の話を聞かせてあげるのだ。
──だけど、せめて……あなたと夫婦として最後を迎えたかった。
確かに、二人の間には日暮という子が生まれたが、結局正式に夫婦になれなかった。
一生、後悔することとなるだろう。
…………………………………………………………
長月の初恋は、既に終わりを告げていた。それはただの、儚い夢。
結局、長月が行ったことは、何の意味もなかった。いや、最悪の結末を迎えただけだった。
長月は勘違いをしていたのだ。文月は、自分に心を開いているものと思い込んでいた。幼少期、出会った時から仲は睦まじく、恋などに興味もなかった長月が、初めて好きになった相手が文月だったのだ。
悲劇を巻き起こした元凶、長月はどんな罰でも受ける覚悟をしていた。
長月は伯父の睦月からの厳しい視線を真っ向から浴びながら逃げ出したい衝動をぐっと堪えていた。
ここは、草木帳の都にある、如月の屋敷から少しばかり離れた宵の屋敷である。
「ちょっと、妾の子を睨まないでくれるかしら?」
長月の母、野々姫はいつもの如く、長月を庇った。
「この子、妾の命を救った上に、あの人間の小僧と共に虫女と戦って見事に勝利したわ。これほどの功績を挙げたんだもの、少しは多めに見てあげて頂戴な、我らが頭領?」
野々姫の説明は、敵味方関係なく、幾多の登場人物を小馬鹿にしているようだった。彼女らしいといえば彼女らしいが。
睦月は難しい顔つきで考え込んでいる。何せ、娘を死なせた張本人。どれだけ功績を挙げようとも、その事実は変わらない。
「いい、母上」
長月は野々姫からの救いを拒み、睦月にと向き合う。
「俺は、どんな罰でも受ける」
睦月のすぐ近くで控えていた如月は眉をひそめる。息子は何を考えているのかと。でも、その覚悟と勇気ある姿勢には、久々に感心させられた。
「俺が、全ての罰を受ける」
突然の事で、その男の気配を感じ取ることが出来なかった。いつの間にか部屋に足を踏み入れていたその存在に、一番驚愕したのは長月だった。
「兄上!?」
長月は咄嗟に叫んだ。どうやって、この屋敷に侵入したのか。そこで、思い出した。葉月は時を止めることが可能だ。その隙に忍び込んで来たようだ。
葉月は母を見て、父を見て、弟を見て、それから、伯父を見据えた。
睦月も、厳しい表情で葉月を見据える。
「頭領。弟の分も、俺が罰を受けよう」
「兄上、何を……!」
弟の言葉を遮るように、前へと進み出た葉月に、何を考えていると、睦月が問うた。
「これは、俺と弟への罰であり……」
──瑠璃への償いであり、
「文月への、償いだ」
……………………………………………………
外はすっかり暗くなり、皆が寝静まった頃の事。日暮は別の部屋で、お蝶と一緒に眠っている。お蝶になら、我が子を任せられる。
一方、美月はなかなか寝付けずにいた。夕霧に、会いたい。その意味の無い願い事を呟いて涙を流した。
その時、目の前に光る花弁が一枚、舞った。まるで、炎のようにぼんやりと光るその花弁は、障子の向こうへとすっと通り抜けてしまった。
「…………」
布団からそっと抜け出して、障子をゆっくりと開く。闇夜に浮かぶ光の花が、美月を誘っていた。
部屋から抜け出して、追いかけると、花弁は更に奥へ奥へと舞い踊りながら進んで行く。
花弁を見失わぬように、冷たい月の夜を駆ける。
やがてお天道様が顔を出し、辺りは紫色に染まっていく。
息が切れるまで追いかけて、やっと花弁は舞うのを止めた。
「──!」
まさか、その男に出会うとは思わなかった。
前方に居たのは、従兄だった。
「葉月……?」
葉月はこちらをじっと見つめたまま、何の反応もない。その姿を見つめて、はっとした。
葉月は、徐々に塵となって消え失せようとしていた。
そのまま前へ倒れかけた葉月を慌てて受け止めると、塵は更に激しく舞う。
弱々しい声が耳に届いた。
「満足か」
嬉しいか。宿敵がやっと、死ぬのだから。そう問われた。美月は震える唇を何とか開いて、言葉を返す。
「違う。そんなこと、思っていない」
血の繋がった家族に、消えてほしいなんて思うはずがない。
風に尽く流されていく塵を見つめながら、美月は賢い頭で状況を読む。
「葉月……まさか……」
葉月は消えかかっている体を無理やり引きずりながら、美月の肩を強く掴んだ。
「いいか、鬼蛇を、殺せ」
全てを美月に託すように、そう言った。 葉月の瞳は、色素が薄れていくかのように灰色へと変わっていく。
「あなた、夕霧に寿命を?」
「…………」
「どうして……?」
掴んでいた美月の肩から手を離して、葉月はあるものを美月に差し出した。彼の手には、生気を失った花が握られていた。
「慈屋敷に咲いている、紫苑だ……。瑠璃の最期を看取った、花々のうちの一つを、ここに……」
震えている葉月の手を握って、その紫苑を受け取った。
心が打ち震える。葉月が、たった一つの花を、命として見てくれた。葉月自身も、心の奥底に隠されていた感情に気づき、戸惑っていた。
──葉月、あなたは、瑠璃の後を追いたかったのね。
葉月は瑠璃のことが好きだったのかもしれない。
その思いが届く前に、瑠璃は死んでしまった。
だから、瑠璃に会いに行くのだ。
葉月の決断は、自らの手で殺めた瑠璃への愛だった。
「俺の命は……夕霧にくれてやる……」
朝の光が、美月と葉月を照らす。
「だから、お前たちは、生きろ……」
朝日を浴びた紫苑は、失っていた生気を徐々に取り戻し、色鮮やかになる。
葉月は、掠れた声でこう言った。
「俺と瑠璃は、お前たち二人の中で、生き続ける…………」
そう言い残して、葉月は美月の膝の上に崩れ落ちた。うつ伏せのまま、動かなくなってしまった。
その瞬間、紫苑が光を放ち、花弁が散った。一枚の花弁が葉月の頬に落ちる。その位置がちょうど、葉月が涙を流しているようだった。
葉月は、朝日に吸い込まれていった。紫苑の花弁と共に。
──俺と瑠璃は、お前たち二人の中で、生き続ける…………。
葉月の最期の言葉が、心に深く刻まれた。
今朝、庭を散歩していた如月は朝の眩い光に目を細めた。
その時、遠方から一枚の花弁が飛んできた。そっと手を差し出すと、花弁はひらりと舞いながら、掌に乗った。
「そうか……あやつは……」
葉月の最期を看取った美月は、悲しみを振り切るように立ち上がった。
いつか、紫苑の花言葉を聞いたことがあった。小さい頃は花集めや花言葉を調べたりと女の子らしい趣味を持っていたものだ。だけどそれが、今になって役に立つとは。
美月は、紫苑の花言葉を呟いた。
「『君を忘れない』……」