【第四章】いつでも見守っていた
曼珠沙華は暗闇を紅く照らした。その刀を持って宵闇を進むは、学生であることを示すセーラー服を纏う少女だ。
峠で待っていた大きな黒竜は、その少女の姿を目にした途端、不思議そうに瞬きを繰り返した。
『人間……いいや、お主は付喪神か』
人間や今までの妖たちとは少し違った雰囲気を纏う少女は、物に宿る付喪神であった。
「私は夏海」
『知っておる。我に知らぬものはないぞ、鈴の精よ。お主のような者が、よくこの峠に来たな』
意志の強さで峠の道のりは変わる。
心を病むことを条件に鬼神になる文月には、この峠は厳しい試練のようなものだ。
この付喪神の夏海は、美月のために全てを捧げているのだ。その心の芯の固さは誰にも負けない。自分の過去の試練など、蹴落としてやる。
「あなたが、鬼神の武器を、曼珠沙華を作ったお方……?」
『どこで知ったのやら……付喪神は何をしでかすかわからぬ』
「この武器のせいで、美月は命を落としたの! どうにか出来ない?」
鬼神という一族の中でも、文月は特に不幸な運命を辿ることが多い。この刀は持ち主を苦しめる。
黒竜は曼珠沙華を見つめて、静かに翠色の瞳を伏せた。
『付喪神よ、姫が心配なら、我が同胞の一部にでもなるか』
「一部?」
『お主が曼珠沙華に宿れば、いつまでも姫を見守ることが出来るだろう』
黒竜の提案は、夏海にとって都合が良かった。いつまでも美月を見守ることが出来る上に、美月と共に戦うことができる。
「でも、曼珠沙華には、私とは別に違う魂が宿っているのでしょう?」
鬼神の武器は、黒竜のかつての仲間達の魂が宿る、生きる武器だ。その中に、余所者の付喪神が宿ったところで、受け入れてくれるのだろうか。
『心配いらぬ。曼珠沙華に宿るは、我が生涯愛した女だ』
「え、嘘」
『真だ。睦月の刀に宿っている同胞と取り合ったものだ。あいつら兄妹でありながら仲良すぎてな』
『さて』と、黒竜は大きな体を震わせると体全体から光を放った。あまりの眩さに夏海は目を細める。光に包まれる黒竜の体はどんどん小さくなると、人の形を成して夏海の目の前に降り立った。
夏海の目の前に、白く長い髭を生やした老人がいた。だが、その頭にはツノから、鬼であると悟れた。
「仙人……?」
「一体、わしがいくつだと思っておる。この姿に戻ると体のあちこちが痛んでならぬ」
わし? 目をぱちくりとさせる夏海から、老人、黒竜は曼珠沙華を受け取る。
紅色の鞘に包まれた刀を見つめて、黒竜は真剣な眼差しで頷いた。
「少し、調整が必要だな。沙華の呪いを使い過ぎて黒く濁っておる。もう少し、持ち主を労わることが出来る刀にせねばな」
黒竜は皺だらけの手で曼珠沙華を撫でると、夏海についてきなさいと、声をかけて峠の向こうへと進んで行く。夏海は慌ててその小柄の背中を追いかけた。
老人へと姿形を変えた黒竜は、意外にもがっちりとした腕で曼珠沙華を掴み、傍にいた夏海に視線を向ける。
調整をすると言ってから丸一日経った。そろそろ、終わる頃だろう。
「まだ、終わっとらんぞ」
「……!」
黒竜は紅色の刀を夏海に翳して真剣な眼差しを向ける。
「お主、この滅の刀に宿る覚悟は出来ておるか」
夏海は黒竜の皺だらけの顔を見つめたまま、微動だにしない。それから、ふっと息を吐くとゆっくりと顎を引いた。
「当然。覚悟なければ、あの子のためにここまで動かない」
この命を投げ捨てても、美月を守りたい。今更、気持ちが揺らぐ夏海ではない。
夏海のその意志の強さに、黒竜は何度も頷いた。
「……まあ、別にそこまで心配するような事は起こらぬ、安心せい」
じゃあ、さっきの質問はなんだったんだよとツッコミたくなったが、そこをぐっと堪えて夏海は貼り付けたような笑みを浮かべた。
黒竜は顎に手を当てて「そうじゃなぁ……」と老人らしい言葉遣いで話し出す。
「まあ、先に曼珠沙華に宿っている同胞によろしく伝えておいてくれ。わしの初恋じゃ」
「わかった……」
夏海の返答に満足した黒竜はうんうんと頷くと刀を構えて、夏海と向き合った。
「では、行くがいい。鈴の精よ」
黒竜が曼珠沙華で夏海を斬ると、夏海の体は美しい光を放ち、刀に吸い込まれていった。
………………………………………………………………
慈屋敷の小さな部屋で、葉月は布に包まれた瑠璃の亡骸の前で座り込んで動かなかった。今頃、瑠璃の寿命を得た文月が目を覚ます頃だろう。
葉月は大切な何かを失う苦しみを、知らなかった。知らねばならなかった。そのために、最も信頼していた女をこの手で殺してしまった。この手で。
「葉月様」
唇の端を吊り上げる隻眼の鬼が、葉月の部屋を訪ねた。
「瑠璃のことは、残念でしたね。文月姫様は今頃、瑠璃の命を使って図々しくも生き返っていることでしょう」
鬼蛇は、葉月がまだ術にかかっているものと思っている。瑠璃のおかげで、もうとっくに術は解けているのだ。
正気を取り戻している葉月に、鬼蛇の言葉は何も響かない。
「それと、夕霧が死にました」
──死んだ? 夕霧が?
目を見開く葉月に、更に鬼蛇は言葉を重ねる。
「味方がどんどん死んでいったのですから、文月姫様の力も衰えて来る頃。文月姫様を殺すのも容易くなることでしょう」
鬼蛇は術がかかっているものと思い込み、葉月に文月の暗殺を促しているのだ。
だが、葉月の手に残っているのは、瑠璃を殺したあの感触だ。葉月の武器が、瑠璃の体を裂いたあの感覚が染み付いている。それは、初めて葉月が感じた恐怖だった。
そうとは知らずに、鬼蛇は部屋を去っていった。
慈屋敷の廊下を歩きながら、鬼蛇は徐々に口角を下げていく。
「数ある命の中で、唯一殺したいと思えなかったのは、お前だけですよ、繭」
生き物の死への喜びしか分からない鬼蛇の中で、繭という存在だけが特別だった。
………………………………………………………………
本当に何も無い世界が、闇が広がっていた。右も左も、上も下も分からぬ世界でたった一人、取り残されていた。
声の出し方を忘れてしまっていた。四肢の動かし方を忘れてしまっていた。もはや、体なんて存在しないのかもしれない。
──美月。
誰かが名前を呼んだ。
──美月。
また、呼んだ。
その時、誰かに腕を掴まれた。驚いた、体は失われていなかった。更に驚くことに、掴まれた瞬間、目の前の闇が切り裂かれて視界というものが生まれた。
目の前にいる、セーラー服の少女。記憶が呼び覚まされて、唇がやっとの思いで動いた。
「なつ…み…」
夏海は柔らかく微笑むと美月の手を包んだ。
「大丈夫、美月。ここは曼珠沙華の中だよ」
「曼珠沙華の……」
闇しかなかったはずの世界は一変していた。夜明けのように、紫に染まる空があり、足下に紅色の花、曼珠沙華が咲き誇っている。
美しい世界の中心に立ち、心が震えた。本当にここが、滅を司る刀の中だというのか。
ずっと奥にある山々から、顔を出し始めるお天道様に吸い寄せられそうになる。その時、夏海に優しく手を引かれた。
「美月、私は曼珠沙華の中で、あなたを見守ることにするよ」
「夏海は、私の鈴の付喪神なのに?」
「今日から、私は曼珠沙華の付喪神だよ。鈴は、返すね」
夏海は笑みを浮かべて、心の中で囁いた。これからは、ずっとそばにいると。
美月は不思議そうに首を傾げる。
「学校は、どうしたの? もう、こうして話すこともないの?」
「学校は、美月の傍に居るために利用していただけ。まあ、楽しかったけどね。これからは、美月が無茶しないように一緒に戦うよ。大丈夫、これまでとさほど変わらないって」
いつもの笑顔を見せてくれる親友。これから、夕霧と美月と夏海の三人は、学生では居られない。
まず、夕霧と美月は鬼の子が生まれて、簡単に人間界の学校に行くことが出来ない。夏海はもちろん、人間として生きる意味が無くなった。
これからは、普通の人間として生きることが出来ない。
「それでも、私は美月の親友だよ。何も変わらない。あなたをこれまで通り、守り続けるだけだよ」
夏海の手はあたたかい。幼い頃から、否、前世の頃から見守ってくれていた夏海。感謝してもしきれない。
「ありがとう、夏海」
もっと、何か言えるはず。夏海に伝えたいことは山ほどある。
だけど、時間は待ってくれない。
美月は、再び、息を吹き返そうとしている。
「父上が、私を生き返らせているんだ……」
──一体、誰の寿命を使ったのだろうか。
「美月、元の世界に帰りなよ。私は大丈夫。ほら、ここ結構良い所でしょ? それに、もう一人、この刀には別の魂が宿ってるから寂しくないよ」
夏海の無邪気な笑顔がもう見れないかもしれない。ふざけ合って、笑いあってた日々はもう戻ってこないかもしれない。
それでも、彼女はそばにいる。
「元気でね、美月」
目の前が霞んだ。この素晴らしい世界ともお別れだ。意識がまたしても闇に包まれていくと、夏海の姿も完全に消えていった。
美月が消えて、美しい世界の中心に取り残された夏海は、寂しげに笑った。
そこへ、一人の女性が近づいた。
「お友達とのお別れは済んだ?」
そう、彼女こそが、曼珠沙華に宿っている黒竜の同胞だ。
これからこの女性と共に、美月を守っていくのだ。
「今消えていった子に会わなくて良かったの? えっと、曼珠沙華さん??」
「ちょっと、変わった名前ね。こういうのは二人だけにさせておくものだと思ってね。私も長い時を生きてきたから頭は良いの」
夏海の質問に、女性は困ったように微笑んだ。
「確かに、私の持ち主だものね。勿体ないことしたかな。でも、毎日会ってるも同然でしょう?」
思っていたよりも可愛らしい女鬼だ。黒竜が惚れた理由が分かる。
この女性は、黒竜と睦月の武器に宿っている魂に取り合いされていたらしいが、詳細を聞きたい。
まあ、そう慌てることは無い。これからもずっと一緒にいるのだ。ゆっくりお話をしていこう。
………………………………………………………………
目を覚まして、まず一番最初に視界に入ったのが父であった。厳格な父の目が、その時だけは和らいでいた。その傍にいたお蝶と、その腕に抱かれている赤子の声を聞いて、心が安らいだ。
再び、生を受けてこの世に戻ってきた。
四代目文月は、二度、死を味わった。一度目は、愛する人の手で。二度目は、弱り果てて命を落とした。
今度こそ、今度こそはしっかりとこの足で生きていくのだ。
「瑠璃は……帰ってきたの?」
美月がそう、問いかけるとお蝶の顔に影が差した。その様子から察して、帰ってきていないのかと、美月は残念そうに瞳を伏せた。
「姫様……瑠璃は、自分の寿命を姫様に……」
「え……」
美月の目が見開かれた。
瑠璃が残していった文の内容は、そう意味だったのか。
「そんな……」
あの文を見てから絶望したが、いつか帰ってくるのではないかと、僅かな希望を抱いていた。その確信のない希望が消え失せてしまった。
──あなたを失うくらいなら、生き返りたくなかった……!!
心の中で精一杯叫んだ時、自分の鼓動の音が聞こえてきた。再び動き出した心臓の音が、動き始めた手が、美月に何かを伝えたがっていた。
──私は今、何て情けないことを考えていたのだろう。
紛れもなく、ここに瑠璃がいる。
「姫様、瑠璃はあなたのことを大切に思っていたのです。あなたに生きてほしかったのです」
「お蝶、分かってる。大丈夫よ」
お蝶も泣きそうな顔をしている。いつも美月が困り果てるほど、瑠璃とは意見が合わなかったり喧嘩したりしていた。でも、嫌いではなかった。寧ろ、これから少しずつ仲良く出来たらと思っていた。
美月をお蝶に任せて、睦月は部屋を出た。外で待っていた師走は、険しい顔で睦月に話しかけた。
姫様に、あのことをお話せねばなりません、と。
睦月と師走は、ある部屋へと向かった。美月が横になっている部屋から少し離れた場所にあるその部屋は、雰囲気が少しだけ暗かった。
戸を開けると、先に中にいた双子が、睦月に体を向けて跪いた。二人とも鬼神という地位に立つ者として、少しばかり威厳を放っていた。
「睦月様……」
小桜は下を向いたまま、唇を噛んだ。
双子の背後には、男が眠っている。いいや、死んでいる。顔かけにより、顔は見えないが、それが誰なのかは明らかだ。
睦月は悩んだ。娘はこれからも生きていこうと決意したというのに、最も会いたかった男が死んだのだ。この事を知れば、どれほど悲しむことか。
濡烏ならば、どうしていただろう。息子と娘と多くの時間を過ごしてきた妻なら、正しい行動が出来たかもしれない。
睦月は、自分の子供たちのことを分かっていない。
妻の方が子供たちをいつでも見守っていた。