第38話 大体、何を私にしろと?
あれは、夢だったのだ。
リトはそう結論づけた。 そして館内の図書館に行き「夢占い」の本を手にした。 ところが調べても木が枯れる夢はあまり良くないということだけしか分からなかった。
大体、何を私にしろと?
何かしないとハルザに何かあるとでも?
【ハルザが、今週は来ていないのです。】
もし今週世話をしていないなら、ハルザは木曜日に世話をしていたはずだから、今日で9日間世話がされていない事になる。 でもそれはしていなかったらの話で、見たわけでも確かめた訳でもない。 世話をしていたかもしれない。 世話をしていなかったら……
2週間で枯れてしまう。
リトは立ち上がって図書室内の本を探した。 神の樹に関する書物を。 しかしそれらしいものはどこにも無かった。 おとぎ話や伝説でさえ。
どうしようもない。
何もできる事なんて無いじゃない。
リトは何も考えないようにして、頭を抱えて目を閉じた。
『これは神の樹ではないですか? あなたはこれを育てることがどんな事かお分かりですか?』
布を口に押し当てて話しているような聞こえ方だった。
聞き覚えがある感じの声だ。
『知っていますよ。 坊ちゃん』
今度は女の声が……これもくぐもって聞こえる。
でもこれは――ハルザの声!
リトは目を開けて周囲を見回した。 カウンターに書庫係が座っているが他に人はいない。 窓の外では雨がまだ激しく降っている。
声は聞こえない。 風の音と雨の音。 そして時計の音がコチコチと時を刻むのが耳についた。
急に周囲を見回すリトを見て書庫係が変な顔で見る。
リトはおそるおそる、もう一度机に伏して、目を閉じた。
『あなたは馬鹿げている!』
再び声がした。 少年のような、少女のような声。
でも――でもこれは……
『ラムール坊ちゃん。 いい加減に放っておいて』
―――ラムール、だ……
声の質から今のラムールではない、もっと幼く、もっと小さな頃の。
これは今日見た夢の一部ではないのか。
映像は見えない。
ただ、声のみ。
リトの心臓がどくんどくんと音をたてて体中に緊張した血がまわる。
若いハルザの声が頭に響く。
『私は止めない、そう決めたんだ』
『いつ、何の役に立つかも立たないかも分からないものの為にこれ以上労力を使うのはやめて下さい。 奥さん。 この樹は一人で若木から育てきれるものではありません。 はっきり言いましょう。 無駄なんです』
『どうして無駄なの?』
『この樹が人の想いを糧にしているのは先日話した通りです。 でもそれだけでは足りない。 この樹は人が亡くなったとき初めてその人の膨大な想いや歴史を吸収して成長するのです。 奥さんは一人だ。 奥さんが死んだらきっとこの樹は奥さんの想いを吸収して大きくなるでしょう。 でもその後、誰も世話ができない。 そうすれば2週間で樹は死にます。 何の役にも立たずただの樹としてすべてが終わるのですよ? 私にはこの樹を育てることはできません。 奥さんには想いを継いで後に続いてくれる者がいないのですから、無駄なのです。 だからこの樹は幻なのです。 この樹は神の樹として人を助けることはできない。 なのになぜ一生をかけて毎週毎週尽くす必要がありますか? 言い方は悪いですがあなたが死ぬのを待っている樹ですよ。 樹に吸収されてしまえば骨も残らない。 墓だって無い。 そんな樹のためにどうして労を尽くすのですか』
幼いラムールはとても怒っている。
反対にハルザは穏やかだった。
『頭は良いとは知っていたけど、ラムール教育係さん、まだまだ子供だね。 何の役に立つかなんて分からない。 役に立たないかも知れない。 でも、だからやっちゃいけないって法はないんじゃよ』
どうやら樹の世話でラムールとハルザは真っ向から対立しているようだ。
『ラムール教育係、あんたもしつこいね。 毎週毎週うるさいくらいに説得しに来る』
『オクナル夫人、私は諦めません』
少しの間、静寂があった。
どうやら一度に起こった話を聞いているのではなく、時間はどんどん進みながら声だけ聞こえているらしい。 少しずつハルザの声は年老い、ラムールの声は今の声に近づいて行った。
ふと。 これはあの神の樹の記憶なのかもしれないと思った。
『……どうしたの? 教育係様。 ここ数週間、何も言わないじゃないか。 黙って見てるだけかい?』
『……ラムールと呼んで下さい。 あなたとの口論のネタも尽きました』
『ほっほっほっほっ。 確かにもう何年討論したかねぇ』
『今は……』
『ん?』
『……今は、あなたの気持ちが少しだけ分かる気がします。 無駄だと分かっていても、それで私は救われた……』
ラムールの口調の何かが、明らかに違っていた。
『何かあったのかい? ……まぁ言いたくなければいいさ。 ……え? おい? 何をするんだい?』
『私にはこの位の事しか出来ません』
『傷が……』
『ずっと前から思っていたのですよ。 貴女の手が傷だらけになるのを見るたびにね。 治癒くらいさせて下さい』
『ありがとう。 ……でも、また来週には傷で一杯になるよ。 それでもこんなに綺麗に治癒する必要があるのかい? それこそ無駄じゃないのかい?』
『無駄かもしれませんが、やりたいのです』
ラムールとハルザは長い時間をかけて何かを分かり合えたようだった。
リトは声だけだったが自分も二人とその場にいるような錯覚をして、胸が温かくなった。
『ラムール教育係様。 お願いがあるのですけど』
『嫌ですね、ハルザ。 かしこまって。 そんな言い方じゃ聞きませんよ、普通にどうぞ』
今のラムールの声だった。
『そうかい? ラムール。 お願いがあるんじゃよ。 私も年を取った。 もういつ死んでもおかしくない年にまでなった』
『寂しいですね』
『私が死んだら、躯をここに連れてきてくれるかい?』
『……そうしてこの樹に吸収させてくれと?』
『そうじゃよ。 死んだら自分ではここには来られない。 きっと息子達に遺言でお願いしても運んではくれないじゃろうね。 じゃから……』
『……』
『だめかい?』
『この樹はさぞや大きく成長すると思いますよ。 でもその後は……』
『分かっているさ。 ラムールがこの樹の世話を焼けない事情があるから、この樹は誰も世話をしない。 2週間で枯れるだろうさ。 確かに何の役にも立たなかったね。 私は毎週ここに通っただけさ。 ……いや、あんたと仲良くなれたからそれだけでも良かったよ』
『それは私もです』
『ふふふ。 あたしもあと60若かったらねぇ。 ……50年……長かったよ。 おかげでこの樹もここまで大きくなった。 私は最後までやりたいのさ。 いいかい? ラムール』
『分かりましたよ。 ハルザ。 私があなたのいまわのきわには駆けつけてあなたをここへ連れて来ましょう。 約束です』
『ありがとう。 約束じゃね』
『ええ、約束』
何も聞こえなくなった。
そして書庫係が本のページをめくる音、窓の外で荒れ狂う嵐の音、チッチッと音を立てる時計の音――
目を開けるとやはりそこは図書室だった。
今のは何だったのだろう。
確かに聞こえた。
でも、夢かもしれない。
空想かもしれない。
リトは少しフラフラする頭を押さえながら図書室を出る。
そして自分の部屋に戻ろうとして部屋のノブに手をおいたとき。
隣のロッティの部屋の開いた扉の隙間からマーヴェの声が聞こえてリトは凍りついた。
「オクナル商人の家の大婦人が先週から病に伏せってもう長くないそうよ」
「マーヴェ、今の何? どういう事?」
思わずリトはロッティの部屋に飛び込んだ。
「あらリト。 あなたもオクナル大婦人とお知り合い?」
マーヴェが言う。 リトは頷いた。
「そうなの? それなら今日……は嵐だから無理にしても早いうちにお見舞いに行った方がいいわよ。 もう長くないみたいよ」
「どうして?」
リトの剣幕に、マーヴェはため息をつきながら答える。
「先週から風邪をこじらせたみたいね。 でもきっと寿命よ。 オクナル家ですもの。 お金は有り余っているから有名なお医者様や魔法使いに治してもらおうとしているんだけど、どうも危ないみたい。 来週中だろうって言われてるわ。 あら、どうしたの? 顔色が真っ青」
リトは返事もせずに自分の部屋へと戻った。 とてつもなく大きな荷物を背負ったようだ。 体中の血がみんなべとべとの油になって燃えながら体中をまわっているかのようにだるくて熱い。
だって、夢でしょ?
リトは思った。 だって、ラムール様に何の変わりはなかったじゃないの。 と。
夢でのラムールの言葉が気にかかる。
【私は今回は何もできないから】
できなくても、協力してくれる姿勢とか、何か、無いの?
リトはもう一度じっくりと夢を思い出す。
このまま行くと、きっとあの夢のとおりハルザが死んで樹も枯れる。
寿命だし、自然の成り行きだと考えることもできたが、問題はその後だ。 ハルザが死ぬ前、リトは何かを樹の根本に置いていた。 すると樹が大きくなって、何かの実を落とす。
するとハルザは生きていた……
神の樹。 どんな病でも治す力を持つ、樹。
ならばあの実がハルザの病を治したとみていいだろう。
私が何かを置かなければ、ハルザは死ぬという事か?
――期限は来週の水曜日 数は12枚――
そんな語句が心に浮かぶ。
リトはかぶりを振る。
今のは自分の心になんとなく浮かんだだけだ。
声が聞こえた訳でも、映像が浮かんだ訳でもない。
なのにふと机の上に置かれていたハンカチに目がいく。
少し大きめの皿くらいのハンカチ
――布のサイズはこれ。材料は……――
リトは考えまい考えまいと頭を振る。 なのに、思いつく。
――材料はイラクサ。 イラクサの布をハンカチサイズ、12枚――
止めて、違う、私は知らない、何を思い浮かべてるの?
リトは枕に顔を埋めた。
何も知らないというように。
いっそのこと、夢ででも見せてくれればいい。
そうしたら信じられる。
リトは瞼を閉じた。
ところがもう夢は見なかった。