第35話 弓が魔法を使えない理由
それは金曜日の午後の授業だった。 魔法の授業である。
リトは杖は普通に使えるので今は「明」の練習をしていた。 真っ暗な中でやればぼんやりと掌が光るかも、という程度にまで上達していた。 弓はといえば、相変わらず杖ですら満足に魔法を使えなかった。
あんまり弓がしょんぼりしているので、リトはすれ違いざまに「ドンマイ」と声をかけた。 弓は嬉しそうに頷き席に着いた。 魔法の先生が弓は一度調べて貰った方がいいと言いだして、手続きをするために弓を連れて教室を後にした。 どうやら何かの機関に弓が魔法を使えない理由が、体質とか呪い等があるのかを調べてみるようだ。
当然ながら先生が居なくなった教室は生徒の雑談で騒々しくなる。
「笑っちゃうくらい、弓も魔法が使えないわね」
よく出る話題だった。
「だってほら、やっぱり原因はあれでしょ?」
ランが言うとリンスたちがくすくすと笑った。
「原因って?」
ラン達の話にみんなが釘付けになった。 みんな、原因なんて思いつかなかったからだ。
「最近、フローラルったら魔法が全然できなくなったわよね?」
その言葉でフローラルに視線が集中する。
フローラル。 兵士ボルトと交際していた女官である。
「魔法ってイマジネーションが大事でしょ? 簡単に言えば子供ほど素質があるわ。 夢と現実の区別がないから」
ランはニヤニヤしながら続ける。
「子供のころは魔法が上手でも大人になったらできなくなる、ってよくある話でしょ? これって巫女にも通じていると思うんだけど」
言っている意味がよく分からない。
「汚れ無き純粋な魂の者は巫女として神に仕えることができるけど、大人になって汚れを知ると巫女として神に仕えることができない、って言いたいの?」
ルティがそこまで言って、はた、と気づいた。
「ルティ? うふふ。 気づいた? その通りよ」
「何々? わかんない」
ノイノイが尋ねる。 助かった。 リトも全く分からなかったのだ。
「フローラル。 あなた、大人になったわね」
ランのあからさまな質問に教場がざわついた。
「し、失礼ねっ。 まだ最後までは行っていないわ」
フローラルが真っ赤になって返事をする。
「……でも確かにその日を境に魔法がほとんど使えなくなったわ」
と、小さな声で付け足す。
確かにフローラルはつい先週まで上級クラスだったのに、今週の水曜日の授業からは初級クラスに戻ったのだった。 イマジネーションの能力が衰えている、早くカンを取り戻すように、と注意を受けたのだ。
「ちょっと待って? それじゃ、弓って???」
ノイノイの叫びに教場のあちこちできゃあ、と声が上がる。
「年がら年中男に囲まれて生活している弓でしょ? とうの昔に男を知っていたっておかしくはないわ」
ランが言った。 リトは血の気が引くのを感じた。
「特にあの遊び人のアリドもいるし、まず間違いないわ。 そういう年頃の男の子といつも一緒なら、絶対そうなってるはずだわ。 きっとずっと昔から夜な夜なふしだらな事ばかりやっているに違いないわ。 だから魔法が全く出来ないのよ。 売女なんてそのいい例じゃない。売女の魔法使いなんて聞いこともないわ」
リトの頭の中で弓の笑顔や親しげに話していた男の子達の姿がぐるぐるまわる。
「で、でも」
混乱しながらもリトは言った。
「近所に男の子の友達がいるからって必ずも弓がそうだとは限らないじゃない?」
そうだ。 リトにだって村に帰れば同じ年の男の子の友達もいる。 仲が良いからといって貞操まで疑われてはたまらない。
ところがリトの言葉はみんなをひどく驚かせた。
「リト、知らなかったの?」
「あははぁ、どうりでリトは弓に優しくするわけだわ」
等と口々に言っている。
「ど、どういう事?」
リトが尋ねる。 そのとき教場のドアがそっと開いた。 それに気づいた者は慌てて席に着く。 気づかぬ者――リトはランを、ランはリトを見つめていた――は、そのまま話を進める。
「リト、弓はね、孤児なのよ。 スイルビ村の北の孤児院で育った、孤児。 親無しよ」
「孤児???」
「そしてその孤児院は今は大人の監督者はなく、同じ年頃の少年達と弓だけで暮らしているわ。 そんな状況ですもの、疎いあなたでも想像つくでしょ? コイン争奪戦にいた、スラムの男どもや黄色い声ではしたない格好をしていた女達も孤児よ? 場所は違っても孤児なんてみんな似たようなものだわ」
教場のドアを開けて立ちつくしている人物に気づいた者がランの袖を引っ張る。 しかしランは気にせず続けた。
「あなたもお人好しね、リト。 弓は名字を名乗らなかったでしょ? 大会でも名前だけで名字が呼ばれなかったでしょ? それは彼女が孤児だからよ。 親がいないからよ」
ランの言葉でリトは思い出す。
【聞いてないのか?】というアリド。
弓の紹介がある時に大声で邪魔したアリド。
「知らなかった……」
リトが言った。
親がいない。 孤児。
スラムの不良達。 親の愛情も知らず教育も受けず、ただ本能に忠実で汚らわしいけだもののような、人間。
「知ってたら、知ってたら私……」
その先に何を言おうとしたのか、リトにも分からなかった。
ただ、顔を上げたら扉の所に立ちつくす弓の姿があった。
弓は寂しそうだった。 そして
「リト、知らなかったんだ」
そう呟いた。
その表情は一瞬、今まで見たどの表情よりも、寂しそうだった。
だが弓はそれ以上何も言わず黙って席に着いた。 程なく魔法の先生も戻ってきて普通に授業は再開された。
リトは魔法に集中しようとしたが無理だった。 そうこうしているうちに授業は終わる。
弓はさっさと、すでに表情は何事も無かったかのように無表情で、教場を出て行った。 孤児だと知られた事など気にした風にも見えなかった。 当然かも知れない。 隠していたつもりは無かったのだろうから。 きっと承知していると思ったのだろう。
リトもきっと王子に洗面器をぶつける事件が無かったならば初日にすべて知っていたことだろう。
親がいない。
それ自体はさほど問題ではなかった。 離婚、死別。 親と別れてしまう理由は沢山ある。 リトの村でも片親だけの子供もいたし、リトの祖父だって既に亡くなっていたから、親がいないということだけを考えればたいした問題ではなかった。
では何が問題なのか。
リトは考えた。
リトの村でも両親が亡くなって一人になった子供はいる。 おそらくこの城下町にも沢山いるはずた。 その者たちはたいてい親戚に引き取られたり、修道院や教会に預けられたりしてきちんとした庇護の元成長していく。 とすると、そう、問題は環境?
そこではたと気づく。
北のスイルビ村には有名な物があった。
北の孤児院である。
いつからかその名物は名物ではなくなり、話も全くでなくなっていたが、リトが小さい時はそう、物心つくかつかないかの頃はよく大人が子供を脅す文句に使っていた。 祖父母達は危険だからその話はするなと言い忌み嫌う不吉な言葉だった。 なぜかある日を境にぱたりと大人達から北の孤児院の話は出なくなりリトも忘れていった。 ただ子守歌を子が覚えているように北の孤児院の話はリトたち子供の心奥深くに刻み込まれた。
スイルビ村の北の孤児院
そこには鬼よりも怖い翼族がいる
悪いことするいけない子供は
北の孤児院に連れて行こう
そしたらあっというまに
むしゃむしゃむしゃむしゃ食べられる
スイルビ村の北の孤児院
そこには親無し子が集めてこられる
悪いことするいけない子供は
北の孤児院に連れて行こう
翼族に食べられても
とうさんもかあさんも知らないよ
「スイルビ村の……」
うろ覚えの歌だった。 それでも覚えていた。 おそらくリトも何度かこの言葉を親に言われて泣いて謝った記憶がある。 この国では孤児に名字はない。 名字はその者の責任を負うものであり、名字がないということは縁を持つ者がいない、天涯孤独という訳であった。
弓に初めてあったとき、リトは確かに違和感を感じた。 スイルビ村という語句で何かひっかかった。 それは、これだったのだ。 弓の同室者が次々と変わったのも分かった気がした。 リトだって弓が「人間を喰べる翼族と一緒に孤児院で住んでいる弓です」とでも言ってたら、巳白に会っていなかったならば、きっと対応は違っただろう。 人を食い鬼よりも怖いといわれる翼族、物語の中だけの話だろうと思っていたものが実際にいて、しかもそれと一緒に生活をしているとなれば恐怖して当然ではないか。 更に監督者は死去していないという。 監督者がいなければ翼族を誰が押さえるのか、いや、監督者ももしかしたら翼族に殺されたのかもしれない。 そして翼族の支配下で無秩序な毎日を過ごす人間の孤児たち……もしかしたら翼族の為に子供をさらって生け贄として捧げているかもしれない。 怪しげな儀式が毎夜毎夜行われているのかも。 村全体が翼族の支配下にあるのかもしれない。
「そっか、だから……」
今度の村祭りが秘密の会場で行われるのでは?
もしかして、リトは生け贄なのではないか?
アリドはそんな孤児院が嫌で逃げ出したのではないか?
そして弓を孤児院から連れ出そうとしているのではないか?
魔法の使えない弓。
彼女は翼族の巫女ではないのか?
翼族の使う魔法と人間の使う魔法は全く質が異なると聞いたことがある。 だから人間の魔法が使えないのではないか?
弓と、翼族と、同じ年頃の男の子達と、監督者がいない、という事実。
考えれば考えるほど自分が今まで真っ暗闇の中で綱渡りをしているのに気づいたような気がしてリトは青くなった。
「リト?」
いきなり名前を呼ばれて、それが弓の声だったからリトは「ひゃっ」と小さい悲鳴をあげた。
気づくとリトは部屋の前にいて、荷物を持った弓がリトに声をかけたのだった。
「あ、ゴメン。 驚かせて」
弓が言う。
リトは胸がドキドキした。 これが急に呼ばれて驚いたせいなのか、それとも別のせいなのか、リトにも分からなかった。
「な、何?」
リトはできるだけ平静を装って答えたつもりだったが、もしかしたら少し声が裏返っていたかもしれない。
「えと」
弓もなんだか態度が慎重である。
「来週の村祭りの件なんだけど……どうする?」
どうする
ドウスル
リトは行くとも、行かないとも言いにくかった。
「まだ締め切りまで時間はあるけど、どうするかな、って思って」
弓が言った。
答えはそこしかなかった。
「も、もうちょっと後で返事していい?」
リトの返事に弓は頷いた。
「来週の水曜日までには教えてね」
「うん、分かった。 決めたら教える」
リトは正直助かったと思った。
村祭りは秘密の場所で行われるから、名簿に登録されないと参加できない。
ここは自然消滅を狙うのが一番良いのではないか。
「あ、無理はしないでいいからね。 何ヶ月かに一度は恒例であってるから」
弓のその言葉が、リトに無理してまで予定を空けなくて良いという意味にも、今回来なくても次回もあるから逃げられないわよの意味にも、どちらで取って良いのかリトには判断がつかなかった。
「えと、じゃあ、先に行くわね?」
弓はそう言って先にクララの店へと行った。
少し前なら、待って、自分も行く、一緒に行こう、とリトは言っただろうに。
なんだか距離が一気に遠くなった気がした。