第31話 普通の男
もう残った者はほとんどいなかった。 ラムール、アリド、清流、兵士と普通の男。 スラムの蹴り専門の男が一人、そして黒髪の少年が一人である。
スラムの男は自分の仲間が倒されたのを見て、少しでももうけを取ろうと思ったのだろう。 どうして今まで残れていたのか不思議としか思えない普通の男を見つけるとそちらに向かって行った。 普通の男は恐れおののき、がたがたと震えている。 そんな格好をされては普通の者なら良心がとがめて奪えるものも奪えなくなってしまう。 ところがスラムの男は違った。 弱い獣をいたぶるように狙いをさだめて全速力で走ると「ひ、ひぃ……」と青ざめた顔で震えている普通の男の顔面めがけて跳び蹴りを放った。 普通の男は両手で顔を覆い縮こまる。
跳び蹴りの男の足に横から蹴りを放った者がいた。 跳び蹴りの男はバッ、と飛び退くと身構えた。
「怯えてる奴を相手にするなよ」
同じように身構えた黒髪の男が言った。
「しゃらくせぇ!」
跳び蹴りの男はかかっていった。
「ひ、ひいい……」
頭を抱えブルブルと震え、普通の男は地面にうずくまっていた。
そこにラムールが近づく。
「どうして、自ら枠外に出ないのです?」
そっと膝をつき話しかける。
「に、逃げては、いけない、と……」
男は小さな声で答える。
「わ、私は、弱いけど、でも、子供に、どんなに怖くても、子供の前では、子供のためにも、逃げてはいけないと……」
横目で見る男の視線の先には赤ん坊を抱いた女が不安そうにこちらを見ている。
「……産まれてまもない赤子ですね……」
ラムールがいとおしそうにそれを見つめて言う。
ラムールは立ち上がる。
「父親でしょう? かかっていらっしゃい」
その言葉を聞いて震える足で男は立ち上がった。 ラムールはやさしく告げる。
「大丈夫。 相手は私です。 負けても誰も責める者などいません。 だから思い切り、いらっしゃい」
男は構えはしたもののまだ体は動かなかった。
「さぁ!」
ラムールのその言葉でスイッチが入ったかのように男はラムールに飛びかかった。
ラムールの体を掴もうとするがかすりもせず手は宙をきるばかり。
「あんた! お願い! がんばって!」
赤子を抱いた女が叫ぶ。 女も男もさして裕福そうには見えない。 そして男もひ弱で運動も苦手そうで、争いや喧嘩というものをした事がないのは一目で分かった。 そんな彼らがこの大会に出る理由といえば考えなくても分かる。
男の手が宙を横切った。 そのとき偶然にラムールの首のコインが掌に入った。 男は慌てて力一杯、掌を引っ張った。 プツンとラムールの首のコインを下げていた糸が切れる。 それを見ていた観衆からおお、と声が上がる。 男も手にしたそのきらきら光るコインを目にして、顔が喜びにつつまれる。
その時、男の目の端に、ラムールが満足そうに微笑んだように映った。
次の瞬間、男が見たものは透き通った青い空だった。
あっという間にラムールが胸元に潜り込み男の襟を掴むと鮮やかな一本背負いを決めたのである。 男が地面に着く寸前、ラムールは彼の体を少し上に引き上げた。 男はそれで地面にたたきつけられる時もさほど痛くなかった。
「場外! 場外! リタイア!」
司会者の声がした。 男がゆっくりと身を起こすと男は場外に投げられていた。 ロープをはさんで場内にラムールが立っていた。
男は自分の胸元と、首の金貨と、そして手に持った金貨を見つめた。 ラムールは静かに微笑むと「よい父親におなりなさい」と告げて男に背を向け会場内へと進んでいった。 男の側へ赤子を抱いた女が駆けてくる。
「あんた! あんた、やったじゃない、あのラムール様からコインを取ったのよ! しかも金貨3つだわ、やったわね、これで、これでこの子の……」
女が感極まって泣く。
男は立ち上がると、背を向けたラムールに向かって深々と頭を下げた。