第22話 猫鳥、モモンガ犬
髪結いになったのはいいけど。 これで寝坊でもした日には怖くてかなわない、と思っていたせいか夢の中で何度も何度も起きる夢を見た。
ほっぺに何か刺激を感じる。
小指の先くらいの大きさで、目の粗い紙ヤスリをお湯でふやかしたようなざらざらした感覚。
「……ん?」
「それ」は、リトの頬を何度もなでる。
うっすらと目を開けるとそこには一匹の黒猫の顔があった。
「え??」
アーモンド形のグリーンの瞳。 すらりとしたロシアンブルーのような細身の猫。
「ニャー」
猫はリトが目を覚ましたことを確認すると一声鳴いた。
リトはベットに起きあがる。
いったいどこから入ってきたのだろう。
見ると窓が開いている。 猫は窓枠に飛び移った。
にしても体の長い猫だとリトは思った。 顔は小さいのに体は普通の猫の2倍くらいあるのではないか。 足の位置は普通なのにそこから後のおしりにかけて長い長い。
「……じゃない」
リトは思わず呟いた。
黒猫は背中に翼を折りたたんでいた。 その翼が雄鶏鳥の羽のように体の後ろに流れていたのだ。
「猫鳥……」
翼族と同じように有翼の猫。 見るのは初めてだった。
猫鳥はリトの驚きにも全く構わずに悠々と翼を広げた。
翼族独特の大きな翼。 猫鳥の翼は翼族のそれよりも一回り小さく羽も細かった。 一本一本の羽がまるで茅の葉のようにすらりとしていた。
猫鳥は翼で風を捕らえると外へ飛んでいった。 手足は折り曲げているので遠目に見れば黒鷲が何かのようにも見えた。
あっけにとられてそのまま外を眺めていたがふと正気に戻る。
「い、いま何時???」
時計を見ると六時。 これ以上はないという位ベストな時間である。
リトは少しだけ急ぎながら洗面室に向かう。
そこでは昨日とは大違いだった。
「おはよう」
名前は覚えていなかったが女官の一人がリトの顔を見ると自分から挨拶をした。
「おはよう」
リトも気持ちよく返事をする。
洗面室にいけば皆がごく普通に挨拶を交わしてくれた。 それどころかラムール様の所にいかなきゃならないんでしょ?と女官の一人が席を譲ってくれた。 頑張ってね、とかいいなぁ、とかみんなが楽しそうに話す。 「ぬけがけは厳禁ですわよ」とマーヴェが女官達に釘をさしていた。 今日行われる授業の話をし、髪型が決まらないと悩む者あり、微かに階下の厨房から漂ってくる香りで今日の朝食はベーコンとホウレンソウのオムレツだと予想する者もいて。
リトはとても楽しかった。
リトが髪結いの仕事はまず何からすればよいか分からないと尋ねると、もしかしたら起こしてさしあげなければいけないかも、と誰かが言い、朝食も一緒かも、と誰かが言い、とりあえずラムール様を寝過ごさせるようなことがあっては大変だと言われ、リトは身支度が済んだらさっさとラムールの部屋に行くように、ということで話がついた。
その考えの通りリトは身支度をして3階の教育係事務室の前から階段を上がってラムールの部屋へと行った。
ここに入るのは2回目である。 ルティいわくプライベートには全く触れさせてくれない……というのにプライベート空間であるこの場に既に一度入れたことがリトはなんとなく不思議だった。
リトはトントン、と扉をノックする。 が、返事がない。
寝ているのだろうか。
そっとドアを開ける。 部屋の中はカーテンが閉められていて薄暗い。
入っても、怒られないよね?
リトはそろそろと中に入りドアを閉める。 部屋の中で何かがごそりごそりと動く気配がした。 リトは二度目なのでその正体は分かっていた。
リトは近づいてきた「それ」に、しぃー、と小さく呟く。
そしてこの前の事を思い出しながらカーテンから差し込む明かりをたよりに広い部屋を奥に進んでいく。 部屋に入って右奥の方にベットがあったはず。 それらしい影も見える。 そろそろと歩いていく。 リト達の部屋一つ分はゆうにあるかというような大きなベットの中央に盛り上がりが見えた。 そっと近づき枕元のそばにある窓のカーテンに手をかける。 少しだけ光が隙間から流れ込んで、ベットの上がいくらか明るくなってよく見える。
ラムールはベットの中央で右向きに寝ていた。 規則正しい呼吸が体を微かに上下させる。
髪は一本に結んだままだったがだいぶん乱れて枕に広がりブランケットは腰までめくれている。 右手が何か考え事をしているかのような形で枕もとにある。 リトは好奇心からもっとしげしげと見つめてしまった。 長いまつげ、すらりとした鼻筋。 ……頬や顎の付近を見るとうっすらとだが髭が生えている。
うわぁ、こんなに女の人みたいにきれいでもヒゲって生えるんだ。
リトはとても驚いた。
寝位は大きめのランニングみたいなもので、勇ましすぎない程度に鍛えられた筋肉が美しかった。
……起こしていいのかな?
リトが悩んだその時。 廊下をばたばたと走ってくる勢いの良い音が近づいてきたかと思うと、
「せんせー! おっはよー!」
バッターン!と勢いよくドアが開き、白い三角帽とピエロのような寝衣に身を包んだデイが飛び込んできた。
「王子っ!」
「おはよー、リト」
デイはずかずかと近づいて来ると勢いをつけてジャンプをした。
「せんせ、おっはー」
ラムールの上に飛び乗るつもりらしい。
「よーっ!」
ボフッ。
くるりとラムールの体が寝返りをうち、デイの体当たり爆弾は不発に終わった。
ベットのスプリングがきいているのでデイの体は軽く宙に浮く。
「うおぉお」
ぼよんぼよん、とデイはベットの上でバランスを崩す。
「まったくもっとまともな起こし方はできないのですか……」
ラムールはやれやれと起きあがる。
目がまだとろんとしている。
「せっかくいい夢でしたのに」
そしてふわぁ、とあくびを一つする。
なんだか子供のように無防備だった。
「ああ、リト、おはよう」
ラムールはリトに気づくとそう言い、ベットから降りる。
「さて顔でも洗いますか」
そしてベットと反対側の奥にある洗面室へと行く。
ラムールはここが家のようなものなので風呂トイレ洗面室、小さなキッチンまで部屋にはついていた。
「あっ、あの、お手伝いした方がいいですか?」
リトは慌てて尋ねた。 髪結いとして髪を整えたりなら出来ないこともないがヒゲは剃ってあげたことはない。 手伝えと言われたら顔に傷をいれてしまうのではないか?
そんなリトの心を承知なのかラムールは振り向きもせずアハハ、と笑うと「カーテンを全部開けて部屋の空気の入れ換えをしてくれますか?」と頼んだ。
それ位ならお安いご用だ。
リトは勢いよくカーテンを開き窓を開ける。 部屋に朝のすがすがしい空気が一気に流れ込む。
「ムニャァ」
開いた窓からさっきの猫鳥が入り込んできた。
「ネコちゃん」
これが鳴き声がちゅんちゅんだったら鳥さんと呼んだのかもしれない。
猫鳥は勝手知ったる風に部屋に入ると天井付近に作られていた止まり木に飛び乗りゴロゴロと喉を鳴らしながら羽や体の毛繕いを始めた。
するとリトの足下で何かがごそごそと動いた。
それは薄緑色で毛足の長いカーペットみたいなものである。
その固まりはラムールのベットよりひとまわり小さい位の大きさだったが全体で4メートルはありそうだった。 実はこれがさっき部屋に入って来たときに動いたものである。
カーペットのように四角い体の四隅に巨大ヒトデみたいな焦げ茶色の手足がついて四角の一辺の中央からは抱き枕のような尻尾があって尻尾とちょうど正反対側の辺に人と同じくらいの大きさの頭がある。 その顔はパグ犬とブルドッグによく似ていて愛嬌があるがちょっとオブサちゃんである。
ムササビ系の珍獣らしい。 普段ぐだーっとしている時はカーペットにしか見えない。 ところが四隅の手足で立ち上がると高さ2メートルはある折りたたまれたヘンなカーペットに見えるのである。
……ただし鳴き声は犬だった。
前回来たときは、リトは動くカーペットに驚いて相当な間抜け顔で固まってしまった。
リトはそれの体をさわさわと撫でた。 波打つようにふわんふわんとそれは体を動かして喜ぶ。 水中をエイが泳いでいる、あの感じだ。
「ねー、せんせー、今日の朝ご飯何?」
洗面室を覗きながらデイが尋ねる。
「知りませんよ。 料理長に聞きなさい」
「違うって。 せんせーの朝ご飯」
「私?」
ラムールが洗顔を済ませて顔を拭きながら出てきた。
「リトが来てるんだもん、せんせー、何か作ってくれるんでしょ?」
私?
リトはデイの顔を見た。
「今日はちゃんと料理長の作ってくださるものを食べますよ」
ラムールの返事がデイは意外だったようだ。
「えー? なんでー? ぜったいリトも一緒にここで朝食取るんだって思ったから俺早起きしたのに」
ぶうぶうと文句を垂れる。
「道理でいつもよりも早く起きれた訳ですね」
ラムールが呆れる。 そしてリトに告げる。
「リトも朝食は済ませてからで結構ですよ。 まだでしょう? カーテンを開けたらいったん食事に戻ってそれからまたいらっしゃい。 事務室で書類整理の手伝いをお願いします。 デイも早く王宮に戻って身支度なさい。 私もすぐそちらで食事をします」
「はい。 わかりました」
「ちぇー」
リトとデイは素直に部屋を後にした。
二人がいなくなるとラムールはなぜかいたずらっ子のように舌をぺろりと出した。
ワン?と珍獣が鳴いた。 ラムールはそれの頭を撫でながら言った。
「内緒ですよ」
と……
その日、朝の活動が終わるとリトはみんなの間でひっぱりだこだった。 部屋に戻ってまもなくみんなが押し寄せ髪結いの仕事はどうだったのか等々聞きたがった。
みんなが聞くには部屋は狭すぎたので早めだったがみんなで教場へと行った。 リトが座った周囲にみんな座る。 目をキラキラ(ギラギラ?)させてアイドルの質問会か何かのようだ。 まずリトは今日行った手伝いの内容を話せとせかされた。 リトもラムールから「私の部屋で起こったこと、内装、設備、仕事…特に制限はかけません。見たこと聞いたことすべて他の者に話してよろしいです。 ええ、私から聞いたことも含めて。 猫鳥やモモンガ犬についても同様です。 この言葉も話して良いです」と言われていたので気は楽だった。
ただし、部屋への来訪者の名前や来訪者との会話はどんな気軽な話でも誰にも話してはいけない、と付け加られた。 第三者の関わる話をリトがするとなんて口の軽い女だろうと見られて自分の評価を下げますよ、との配慮らしい。 ああ、あなたは素直だからこの部分だけは話すなと言われたとは第三者には言うなと釘はさされた。
もしかしておバカとでも思われているのだろうか?
……いや、慣れない生活なので助かったが。
さて話を教場に戻して。
「きゃあ☆ ラムール様の寝衣って、ランニング?」
「ヒゲも生える? ショックだわ〜。 でもワイルドかしら?」
「ああ私もペットになりたい」
きゃあきゃあとそれは大変な騒ぎである。 ルティすら「今度、好きな食べ物は何か聞いてきて!」と迫ったのだから。
少女たちの興奮で雑然とした教場に弓が入ってきた。 誰も気にしなかったがリトは弓と目が合った。 弓はにこ、と笑って小さく手を振る。 リトも手を振り返す。 そして弓は最後尾の空いている席に座った。
リトは他の少女からの質問やらで忙しくそれ以降弓の事を考える余裕は無かった。
弓はただ外の風景を眺めていた。