第11話 どこに座る?
どれくらい眠っていたのだろう。
ねっとりした闇に体を包まれたような、鉛のような空気が体内で発酵したような、そんなだるさだった。
遠くて近くのところで話しかける声がする。
「……きて……リトゥア……起きて」
軽く体を揺さぶられてリトはゆっくり目を開く。
洗濯されて間もないシーツの香りがするベット。 見慣れぬ部屋。
どこだろうここは。
「リトゥアさん? 起きたほうがいいよ? 具合でも悪いの?」
聞き慣れぬ声の主は誰だったか考える。
のろのろと寝返りをうち声の主を見る。
左の前髪を髪留めでとめた少女。
「ゆみ……さんだっけ」
弓は心配そうな顔で頷く。
リトは上半身だけ身を起こす。
服も着替えず、風呂にも入らず、布団にも入らずベットの上に突っ伏して寝てしまったらしい。
「大丈夫? 朝よ? 起きた方がいいよ」
「ん……」
重い頭を振って気をしっかりさせる。
そうか。
昨日、辛くなって、泣いたような気がする。
「今日は9時から基礎学問の授業があるから……もうすぐ8時半だから用意に取りかかった方がいいと思うんだけど……」
「えっ?」
いきなり正気になって壁掛け時計を見る。 本当だ。 もう時間がない。
朝ご飯も食べていないし、身支度もしていない。
「まだ時間はあるからシャワーでも浴びる? ……どうしたの? まさか、やっぱり朝ご飯もまだとか……?」
リトは頷く。
弓の態度は昨日よりはそっけなくは無かったが、やはり控えめというか小声だった。
ただ、昨日の女官達の話からして、弓は仲間はずれの対象らしいのと、泊まり組ではないので、昨日の悪態パーティに参加していない
ただそれだけだったが、自分をさげすむ者ではないと、それだけは安心できた。
「……」
リトは無言のまま部屋の中を見回した。
今からでは朝食もとれない、シャワーは誰かに覗かれそうで行きたくない、身支度もしたいけれど、授業の用意も、初めてで訳が分からない。 何からすれば良いのだろう?
「もし良かったら、食べる?」
そんなリトの気持ちを察したのか弓が弁当箱を目の前に出した。
「授業中にお腹が鳴ると嫌でしょう?」
リトが断ろうかと口を開く前に弓が付け加える。
確かに。これ以上目立って馬鹿にされたくはない。
「でも貴女のぶんは?」
「私は……2つ、お弁当箱持ってきてるから。 平気」
「ありがとう」
リトは礼を言って弁当箱を受け取る。 おにぎりと小竜の竜田揚げとサラダと川魚のフライ。 シンプルでかわいらしいお弁当だった。
「お茶はここね」
弓は水筒のお茶をコップに入れてリトの机の上に置く。
そして部屋を出て行く。
リトはおにぎりを頬張る。 とてもおいしい。
すぐ弓が部屋へ戻ってきた。 手にはお湯の満たされた洗面器がある。
「食べ終わったらこれで軽く体を拭くといいわ」
それを机の横に置き、タオルも添える。
そしてちらりと机の上を見ると個人配布されているノートと筆記用具、そして青い表紙の本を棚から取り出しノートに重ねる。
「9時5分前には先生いらっしゃるから、基礎学問の授業は早めに教場に入った方がいいの。 部屋は1階大教場の予定だったけれど、今朝、2階のティールーム横の中教場に場所が変更になったわ。 そして部屋の中は廊下側が基礎の基礎、幼児向けの内容を教わる人が座るの。 中央は基礎。 窓際は基本を終えて発展学問を学ぶ人が座るの。 リトゥアさんは青表紙の本だから窓側近くに座ればいいと思うわ」
弓は言うことだけ言うとリトの返事を聞くのが怖いかのようにさっさと部屋を出て行った。
弓の行動の真意も何も考えてる暇はない。 さっさと用意をするだけだ。
弁当を食べ終わり顔と体を拭いて着替え、髪を整え用意してあった本等を持ち部屋を出る。 弓のおかげで時間は十分間に合った。
階段を下りながらふと、教場の変更があったのは本当だろうかと不安になった。 弓はここでは嫌われ者である。 もしかしたらこのような悪戯をするので嫌われているとか。 8人も同室を嫌がるなんて普通じゃない。
ところが階段を先に下っていた少女たちが1階まで行かずに2階へと行くのでそれについていく。 彼女らはティールーム横の中教場へと入っていった。 そして1階から上ってくる少女たちもいた。 教場変更は本当らしい。
リトが中教場へと足を踏み入れると、確かにそこには多くの生徒がいた。 リトの姿に気がつくと誰かがひそひそと話すのが聞こえた。
――誰が教場変更を教えたの?――
リトは聞こえないふりをしながら気を落ち着け、教場内を見回す。
そこでまた問題が起こった。
弓は廊下側の席が幼児向け、中頃が基本、窓側が発展、だからリトは窓際だと言った。 確かに弓は窓際の最後尾の席に座ってぼうっと外を眺めていた。 ところが窓側にはほとんど人は座っておらず、空いている席にも赤い表紙の本しか置かれていない。 真ん中には緑色の本と多くの侍女達が座っていた。 そして廊下側には沢山の女官たちが青い表紙の本を机の上にのせ、にこやかに談笑している。
どこに座ればいいのだろう?
迷っていると廊下側の前方に座っていた集団から声がかかった。
「新人さーん。 ここに座ったら?」
見ると席が一つ空いている。 その周囲を取り囲むように少女たちが席に着いている。 年頃も同じ少女たちだ。
女官達は手招きをしてリトを呼ぶ。 その顔は笑顔だが、どこか含み笑いがある気がしてたまらない。
どこに座る?
弓はこちらを見ることもなく、全く反応しない。
女官達は愛想良くリトを呼ぶ。
リトは考えたあげく、女官達が呼ぶ輪の中に入っていった。
もしかしたら、意外とみんなは気にしてないのではとか、自分の考えすぎでは、と思ったからである。
リトが席に着くと周りの女官達は親しげに目配せをして、あたりさわりのない話をする。
口調はやわらかで、リトは昨日の事は気にしすぎだったのだと思った。
視界の端に弓が見えた。 相変わらず無表情で外を眺めている。
何を考えているのだろう。
悪戯が失敗して目を合わせきれないのだろうか。
そのとき部屋に少女が一人入ってきて、「先生がお見えになるわよ!」と告げた。
するとリトの周囲の、廊下側に座っていた少女たちが皆立ち上がり、急いで窓側の席に移動した。 机の上の赤い本をしまい、青い本を出して何もなかったかのような顔で姿勢を正して先生が来るのを待った。
リトは皆が急に動いたのと、彼女達から何も言われなかったので、ただ呆然と廊下側の席にそのまま座っていた。
すると今しがた入ってきた年下の少女が中央の席に座りながら不思議そうにリトに問いかけた。
「あの……そこは幼児席ですけど、いいんですか?」
やられた。
発展席ではクスクスと笑いがおこる。
立ち上がって発展席が空いていないか見るが、どこも埋まって空いていない。
クスクスと笑いがおこる。
あ。
リトは見回しながら一番最後尾の席が空いているのに気がついた。
慌ててその場所へ移動して座る。
――えー?何?空いてたの?
――嘘。どうしてー?
前方に座っている人たちの中から小声でささやく声が聞こえた。
「はいはい、みなさん、おはようございます。 お静かに」
そのとき教場に、鼻ヒゲをはやして眼鏡をかけた、痩せて神経質そうな男の先生が入ってきた。
「おやおや、やっとやっと、発展席のみなさん、座り方を覚えたようですね。 これはこれは」
先生は満足そうに頷く。
「間違えた席についた生徒はそのレベルであると書いて張り出すというわたくしのナイスアイディアが生きたのですね」
リトはその言葉を聞いてひやりとした。
あのままではリトは「幼児レベル」として掲示板か何かに書かれて貼りだされるところだったのだ。
なんて人たちなの?
リトは前方の席の少女たちを腹ただしく思い、同時にこの席が空いていて良かったと胸をなでおろした。
そしてそこでやっと気がついた。
弓が教室からいなくなっていた。