第十六話 暗雲
いつもお待たせして申し訳ありません。(汗)
今回からは一気に話を飛ばしていきます。
今までが幼少期の話だなんて、長すぎましたね…。
万千代一行が美濃国から引き返している時、西土佐では特にこれといった問題は無かった。
万千代や土居宗珊がいなくても、現当主の一条房基が何の問題も起こさず西土佐を治めていたからだ。
万千代と兄弟となった弥三郎…一条基親が房基から直々の教えを受けるくらい平穏であった。
「うむ。お主は何事もそつなくこなすの。初めの頃は少し疑っておったが稀有であったわ。」
「いいえ父上。この程度の奉公は誰でもできます。それに私はまだまだ未熟者です。これでは将来父上のみならず、万千代の役にも立てません。」
「その謙虚な所もお主の良い所よの。中には己を過大評価している哀れな輩がおるが、お主はそうなるまい。それにしても暇よのぅ…そうじゃ儂と将棋で勝負せんか?」
「いいですよ。負けても知りませんよ?」
「クックックッ…中々言うではないか。その言葉、そっくりそのままお主に返してやろうぞ。」
そういうと房基は小姓に将棋の用意をさせる。テキパキと言われるがまま小姓は将棋台と将棋のコマを用意した後、スッと部屋から出て行った。
「どれ、お主の采配を見せてもらうとするかの。」
「ではお願いいたします父上。」
時間帯はちょうど正午を過ぎた頃である。どちらかが諦めるまでの勝負となった。
パチ…パチと小さな音がその部屋に響く。時間でいえば午後2時を回った頃だ。
戦の状況は余りよろしくない。基親は悩む。
先行は基親だったので、歩兵と銀将をガンガン進軍させていく。それに伴い房基も状況に応じて応戦していた。だがどこで間違ったのか。押していた筈の基親が徐々に房基に押され始めていく。
基親はこの状況を変えるために飛車を動かす。だが房基が飛車の行く手を尽く潰していく。
前半は間違いなく基親が押していたのだが、後半はそこに集中しすぎたため他の敵を見なかったのが災いして今に至る。そうして焦っている基親を見て房基は小さな笑みをこぼした。
「若いのう。まるで昔の儂を見ているかのようじゃ。」
基親はそれに反応せずジッと腕を組んで考える。
序盤に銀将を投入したせいで玉を守る将が少ないのだ。
なんとか王手を取らせないために右翼の桂馬や香車を使ったがあっさり敵のト金に討ち取られてしまった。
ならばと今度は前線に待機している歩兵に攻撃をさせようとするが、その姿は無残であった。
現時点で基親の歩兵は完全に分断されているのだ。ト金にしようと動かせば敵の歩兵がそれを待ち構えているし、かといってそのまま居てはいずれ敵の飛車と角に討ち取られてしまうだろう。
何とか手持ちのコマを使って戦況を打開できないか四苦八苦している時、また房基は呟いた。
「大将足る者、常に戦の大局を見て敵の二手三手読まなくてはいかぬ。此度はお主の負け。潔く諦めよ。」
「…悔しいです。」
俯いてそう言った基親を見ながら房基は話をし始めた。
「悔しい…か。なら尚の事お主はもっと学ばなくてはいかぬ。これは将棋ゆえ人は死なぬ。負けた者はお主の様に悔しいと思うだけで終わる。だがの、戦場は必ず人が死ぬ場所。そのような時に悔しいなどと言っておる時間などありはせぬ。もしこれが本当の戦であったなら、お主は必ず討ち取られていたであろうな。仮に生き延びたとしても歴史的大敗北よ。その後に本家は攻め落とされるであろう。」
基親は静かに聞いている。房基の話はまだまだ続いた。
「基親よ。なぜ序盤に兵と将を突撃させた?」
「敵の陣形が整わない内に戦を終わらせたかったからです。時間を掛けると間違いなく父上に負けると思ったからです…現に負けてしまいました。」
「ふむ。お主の考えは確かに間違ってはおらん。明に伝わる武経七書の一つ、孫子の中にも似たような事が書かれておる。」
「孫子…ですか?一体どのような事が書かれているのですか?」
「それについてはお主が直々に調べるのじゃ。孫子の写しなら確か儂が持っていた筈じゃ。後で貸してみせる故、それを見て学ぶのじゃ。何事も人に聞いてばかりでは、いくら体が大きくなろうとも精神は成長せんからの。」
「分かりました。後でお貸し頂きます。またいつの日か再戦をしてもらっても良いですか?」
「うむうむ!それは全然構わんぞ。お主の次なる戦い方、この房基が直々にみてくれようぞ。」
そう言うと房基は立ち上がり部屋から出て行った。
基親はその後姿を見送ると、庭先から拝める青い空に目を向けた。自分はまだまだ未熟者だ。
この戦乱の時代、血は繋がっていなくともその志は繋がっている者も存在している。
基親にとっては本当の父ではない房基ではあるが、その志は大恩ある土佐一条家の為にあった。こうして未熟な自分を鍛えてくれる。知らない事を教えてくれる。そしてこんな自分を息子にしてくれた。基親はどれだけ長く生きても返せない恩を土佐一条家、もとい房基から貰っていた。
なればこそ、この命は土佐一条家の為となるのであれば捨ててもいいと基親は考えていた。
自分の生まれた家では周りの家臣から白い目で見られ続けていた。父親すら信じられなかった。
弟達は何も言わなかったが、心の中では蔑んでいたのだろう。
でも今の家族は房基や千代姫、万千代や千姫と広姫だ。家を出た事に初めは後悔した。だが今となってはもはやどうでも良い事だと考える。もし長宗我部家と戦になったとしても自分は戦う。もし兄弟や父親の首を撥ねる事になったとしても、自分は躊躇せず討ち取る。それが今の家族に少しでも恩を返す為になるのであれば悔いない。
そんな事を遥か彼方にまで続く青い空を見ながら基親は考えていた。
時間が少し経ってしまったが、今から孫子を借りに行こうと基親もその部屋から早々に出て行った。
しかし、基親が願った再戦は叶う事は無かった。
何気ない平穏の日々に、怪しい影が着実に土佐一条家に近づいていた。
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「おっかしいのぅ。確かに此処に置いてあったはずなんじゃが…。どこぞへ持って行ってしまったのかのぅ。う~ん無いのぅ…どこへやったんじゃ儂の孫子は…。」
基親が一人将棋をした部屋で思い更けている頃、房基は自身の部屋に置いてある筈の孫子を探し回っていた。いつもは綺麗に整頓されている部屋が若干ゴチャゴチャしている。
「殿。何を探されておられるのですか?」
「孫子という書物の写しが書かれた巻物じゃ。お主、誰か儂の部屋に入っている所を見たか?」
「いえ。某の番の時には見ておりませぬ。そのような不届き者がいれば某が捕まえておりますので。ですが先程奥方様が何やら胸に巻物を抱えているをお見かけしました。…もしやしたら奥方様の持っているその巻物が…。」
「千代が巻物を?一体何に使うというのじゃ?ふ~む…腑に落ちんが、早急に返して貰わねば儂が困る。今何処に千代がおるかわかるか?」
「多分自室におられるかと。」
「そうか。お主は引き続き警備をせよ。基親が来たら部屋に入れておいてくれ。」
「承知いたしました。」
そう言うと房基は自室から早歩きで出て行った。何故妻が巻物を持っていたのか分からないが、すぐに返してもらおうと房基は心の中で呟いた。
妻である千代姫の部屋まで廊下を歩いていると、廊下の陰から千代姫が巻物を抱いて現れた。
これは運がいいと房基は思い千代姫に声をかけた。
「これ千代。お主の持つ巻物を直ぐに返してくれ。それが無いと困るのだ。必要ならばまた今度貸すゆえ早う渡すのじゃ。」
「……」
「これ千代。黙っておらずに早く返さんか。……なんじゃその右手は?」
静かに黙っている千代姫を見て房基はなにかおかしいと感じていた。千代姫が巻物を左手で抱いているのは分かるが、右手が着物の中に何かを隠していたのを房基は見逃さなかった。
気になって千代姫に近づいた房基は、着物に隠れているその右手に持った苦無に気が付いた。
それと同時に右手には篭手がついている。そこでやっと房基は巻物を持つ千代姫が偽物だと気付いた。
「貴様ッ!忍びの者かッ!」
「今になって気付くとは。土佐一条家の名君と聞いてはいたがその程度の物だったか。残念だ。」
「皆の者ッ!曲者ぞッ!であ____」
房基は最後まで言わなかった。言えなかったのだ。
忍びの右手が持つ小刀が自身の胸部を貫いていたから。苦無といえど胸部は心臓がある所である。まさに致命の一撃を房基はくらってしまった。房基はその場で前のめりに倒れてしまった。
「ぐぅぅ…誰ぞ…誰ぞ……。」
「なんと。まだ喋れるとは。間違いなく心の臓を刺したはず。」
そう忍びは言うが、実際は少しずれていた。左手に持っていた巻物が右手を邪魔してうまく刺せなかったのだ。だが焦ることなく忍びは再び房基に止めを刺すべく苦無を構えた。
だが忍びは房基に止めを刺せなかった。
異変を聞きつけた警備兵が忍びと倒れている房基を見つけたからだ。
「曲者だぁッ!!であえ!であえー!!!」
「ちっ。仕留め損なったか…だがまぁいい。その傷ではもう助からん。何より苦無には毒を塗ってある。苦しみながら死ぬがいい。クックック……。」
そう言うと忍びは房基の返り血が付いた着物と巻物をその場に捨てると、聞きつけてやってきた警備兵達の攻撃を掻い潜って中村御所から逃げてしまった。
忍びを追いかけたい所だが、それよりも先に主君である房基の止血をしなくてはいけない。
刺された胸からは止めど無く血が溢れている。中村御所が騒然とした。
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基親は放心していた。今基親の目の前には、自室で横たわる房基がいる。
布団には、傷口からあふれ出た血が付いていた。
基親はあの後房基の部屋に行ったのだが、廊下を歩いている最中、警備兵達が叫んだ声に気付き、その叫び声が聞こえた場所へ駆けつけたのだ。だがそこで見たのは胸から大量の血を流して倒れている房基だった。
他にも騒ぎを聞きつけて家臣達がその場へ集まってくると、家臣達も顔面蒼白になりながら『殿ォ!お気を確かにッ!』と言って傷を抑え、房基の部屋に連れて行ったのだ。
それを追うように基親も付いて来て、今に至る。
さっきまで話していた父、房基はとても苦しんでいる。さっきまで将棋をしていたのに。どうしてこうなってしまったのか…。
話を聞きつけて房基の部屋に来た奥方の千代は心配そうに夫を見守っている。
周りに家臣達が正座をして主君の様態を気にしていると、房基がか細い声で言葉を発した。
「うぐ…ぬかったわ。儂とも…あろうものが……。」
「殿!?喋ってはいけませぬ!まだ___」
「黙れ。お主らの声で…遺言が残せぬではないか…。」
その瞬間、千代も含める家臣一同は固まってしまった。
遺言…土佐一条家現当主であり、四国に名君と名を馳せた一条房基が、そう言ったからだ。
今の土佐一条家は房基あっての家であった。彼に仕えられる事に誇りを持っていた。
彼無しでは今の土佐一条家は無かったと言ってもいい。
彼の父、一条房冬は、まだまだこれからと言うときに病死したため、房基は家督を継ぐには若すぎたのだが、彼は叔父の一条房通の手助けもあり、土佐一条家を拡大させた。初めこそその若すぎる当主に心服しない者もいたが、彼はその智勇をもってそんな者達を徐々に心服させていった。その後も彼は次々と土佐一条家を拡大し、遂には西土佐全土を治めるに至った。
西土佐統一の王手は彼の嫡男である一条万千代のお陰とも言われているが、その王手をかけるまでに至った成果は間違いなく彼の力によるものだった。
歳もまだまだ若く、四国を治めるには十分な時間があった。
だが、誰かが放った忍びのせいで、彼は今や死の瀬戸際にあった。
先代の房冬の時もこれからと言うときに病死してしまった。先代の時から仕えていた家臣からは『土佐一条家は呪われているのではないか』と言う声も上がった。
どうして。その思いが土佐一条家家臣達の心を占領していた。
「あ、貴方…ご冗談が過ぎますよ。」
「冗談ではないわ。儂は…もう万千代の姿を見る事は出来ん。それにお前に扮していたとはいえ、それに気付かなかった儂も儂じゃ。許せ…千代。」
「……本当に…本当にもう…駄目なのですか?」
その声は震えていた。すると後ろにずっと隠れていた千姫が千代に問いかけた。
「お母様…泣いてるの?」
その声に反応した房基は、痛みに耐えながら千姫を呼んだ。
「千…お前にも伝えておきたい事がある。よいな、心して聞くのじゃ。」
「…はい。」
「よいか。これからお主の人生には沢山の苦労が待ち構えている事であろう。そしてそれは並大抵の物ではない。それを心得ておくが良い。そしてこれは儂の我儘じゃ。守らなくても良いが言わせてくれ。」
「………」
「この戦国乱世において、幸せと言う実を取れる者は少ない。じゃが儂はお前に幸せになって欲しい。先程はあのように言ったが、『苦あれば楽あり』と言うように、苦難の先には間違いなく良い事がある。故に、挫けてはならぬ。その事を心の片隅に置いていてほしい。それだけじゃ。」
そう房基が言うと、先程までは涙を流さなかった千姫は、途端に大きな瞳から大粒の涙を流した。
声を抑えていても、小さな嗚咽が聞こえた。同じように涙目の千代が背中をさすりながら慰める。
すると房基は、今度は基親に声をかけた。だがその声はか細くなっていた。
「父上…。」
「フフ…もうお主とは将棋が出来なくなってしもうたな。すまぬな…成長するお主を見届けられなんだ…。いつかは万千代も呼んで将棋対決をさせたかったのじゃがな…。」
「何を言われますか父上!その様な弱気では勝てる戦にも勝てませぬ!」
「しかし此度の戦は…既に決しておる。敗北が分かり切っておるのに無駄な抵抗は意味がないぞ?」
「ち、父上…!」
「フッ…無念じゃのぅ。先程までは何ともなかったのに、今はこの通りじゃ。誠に人と言う物は儚く脆い存在よのぅ。そうは思わんか基親?」
房基がそう話している最中、基親の眼からはポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
房基はその姿を見ると優しく微笑んだ。
「基親、いや弥三郎。儂の願いを聞いてくれるか?」
「勿論で……ございます。何でも仰ってください。」
「では遠慮なく言わせてもらうとしようかの。」
そう言うと房基は胸の痛みに耐えながら両手で基親の右手を握った。
その行為に驚いた家臣達は、房基を急いで背中から支える。房基の行動を収める者は誰もいなかった。
「千は弱い子じゃ…じゃから千を守ってやってくれ。千を幸せ者にしてやってくれ。そしてお前の兄、万千代を支えてやってほしい。あやつが次の当主となる。じゃがあやつにはまだ早すぎる。故に、六年耐えよとあやつに伝えよ。聡明ではあるが、年端のいかぬ子供じゃ。まだまだ未熟なのじゃ。歳ではお主の方が高い。兄と呼ぶのもおかしな話ではあるが、これは『兄弟』であるお主にしか頼めぬ事じゃ。」
「承り…ました。うぅ……。」
「…泣くではない。武士が涙を簡単に見せてはいかんと、教えたじゃろう。死ぬ前位、儂を安心させてくれんかの?」
そう言われると、基親は左手で目をこすり涙を拭くと、毅然とした態度で房基の両手を握り返した。
そして、鼻声ではあるが、房基に意思を伝えた。
「この一条基親、命を賭して千姫と万千代様を支えさせていく…いや、この土佐一条家を支えさせていく所存で御座います!父上!」
「……その言葉が聞きたかった。これで儂は安心して黄泉の国へ旅立つ事が出来る。監物…お主にも済まぬことをした。もう幾ばくか、暴れたかったわ。」
そう房基が言葉をかけると、羽生監物は静かに頷いた後、言葉を発した。
「某も、基親殿と力を合わせてこの土佐一条家を支えていきまする。勿論此処におられる皆、その思いを持っておりまする。ですので殿…どうぞあの世で若を見守ってやってくだされ。我ら家臣一同、命尽き果てるまで若をお支え致しまする。」
「監物…後は頼んだ……ぞ。」
そう言い終わると、房基は力なく項垂れた。基親の右手を握っていた両手もその場から落ちた。
その場にいた者全員が滂沱の涙を流した。
1548年10月18日、土佐一条氏四代目当主・一条房基は息を引き取った。
西土佐に住む者達は、その早すぎる死に嘆き悲しんだ。
そして同時に不安が西土佐を襲った。房基亡き後の西土佐はどうなっていくのだろうと。
万千代達一行が西土佐に帰り房基の死を知ったのは、それから一週間後の事であった。
史実とは違い、房基は年を越すことなく逝ってしまいました…。
次々回から時間が大きく進むかと思われます。




