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自分の本当の望みについて考えあぐねた一ヵ月後、郵便ポストに一通の封筒が投函された。通販のカタログや仕事関係の手紙以外で交友関係の狭い私宛に手紙が届くのは珍しく、私は首を傾げた。
「あれ……誰だろう?」
手書きの文字で書かれた自分の名前。厚みのある封筒の中に、硬いカードが入っていた。
白地に花の模様が浮き上がるカードに書かれていたのはこの一ヶ月忘れることの出来なかったかつての恋人の名前だった。
「和樹の、結婚式の招待状だ……」
見慣れない封筒に書かれた名前が自分を捨てた恋人の名前だと解った途端に体の中から醜い感情が沸きあがってきた。あの公園で泣いていた時に感じた孤独が喉の奥から込み上げてくる。忘れようと努力していた悲しみが渦を巻いて流れ出しそうになる。叫び出したい気持ちを抑え、暴れ出そうとする感情を落ち着かせるために何度も深呼吸を繰り返した。
カードを封筒に入れ直して服のポケットに仕舞いこみ、自分の部屋の前へ行く。いつもと同じ場所に座り込んだファニはニコを抱えたまま居眠りしていた。その姿を見て和やかな気分に戻れた。
「ただいま。風邪引くよ」
クスクス笑いながら揺さぶり起こすと、ファニは目を擦って顔を上げた。
「おかえりなさい」
思わず笑みがこぼれそうになる無邪気な顔。抱きしめたくなるのを堪えて、鍵を開け、ファニを家に入れた。
ファニとの同棲生活は一ヶ月以上経っても相変わらず上手く続いていた。
それもそのはず、彼は私の行動に文句の一つも言わない。毎日、目覚ましよりも数分早く私を起こし、食事を作り、ウォーキングをさせて弁当を持たせ仕事に追い出す。休みの日は怠けた一日を過ごさないように、掃除をしろ、洗濯をしろ、買い物に出かけるなど、次から次へと課題を言いつける。
食べ物を人質に取られていることもあるが、反抗すればファニが出て行ってしまい、二度と会えなくなることを密かに恐れる私は逆らえず、小声で文句を言いながらもそれに従う。
「ファニったらお母さんみたい」
「結婚もしてないのに口うるさい姑が出来たみたいだわ」
「会社の先輩が家にもいる!」
などなど、私が呟く文句の数々をファニは怒りもせず、睨みもせず、面白そうに聞いている。このくらいは二人の間だけに通じる軽口として通用している。
休日に部屋の中を掃除していると不意打ちのように和樹が残していったものや、和樹からプレゼントされたものが見つかったりして二人が一緒にいた日々と幸せだった時間を思い出してしまう。それと同時に襲ってくる狂おしいほどの悲しみはファニと一緒にいることで癒され、家の中のそこかしこに残った思い出も塗り替えられていく。見つけたものはその場で捨てて過去を振り返る回数も減り、徐々に平穏を取り戻しつつあるが、この癒しを失っても変わらず平穏な日常を保っていられる自信はまだ、ない。
休日の昼間はファニと一緒に外へ出かけることが多くなった。ニコを片手に抱えて仕事をしているファニと一緒に街に出て、写真を撮って歩く後姿を眺めたり、落ち込んでいる人の話を聴く。ファニは仕事に出るといつも違う道順で人通りの多い場所を探して歩く。公園やレストランのオープンテラスを見つけると必ず立ち寄ってニコと相談しながらファインダーを覗く。右へ左へレンズを向けながら
「この方はいかがですか?」
「そう言うのでしたら、こちらの方にしましょうか」
ファニが街の騒音に紛れるくらい小声でニコに声をかけると、ニコは鈍く低い音を立ててファニの言葉に答える。その音を聞いたファニが頷いたり、更に返事をしながらボタンを押してシャッターを切る。私にはただの電子音に聞こえるけど、もしかしたらファニの耳にはその音が確かにニコの声として私とは違う音が聞こえているのかもしれない。そう思える程二人のやり取りは自然だった。
駅前や繁華街の交差点ではガードレールに寄りかかってしばらくボーっと人の流れを眺める。これだけ大勢の人がいるのに、知っている人は一人もいない。ファニがポケットから金属製のシガレットケースを取り出し、フィルターを一本口に銜える。ライターで火をつけ、甘いバニラの香りを漂わせながら通り過ぎる人を指差した。
「あの人は今、きっと大切な人と話をしているんでしょうね。恋人でしょうか、家族でしょうか?」
「どうしてわかるの?」
「相手に対する表情でそう思うんですよ。電話というのは声以外のことがわかりませんから、その分、表情や態度に気を使わなくなるんです。電話の向こうの相手と話していて思わず笑顔になるのは相手のことを大切にしているからだと思いませんか?」
私は小さく頷いた。行き交う人々に興味を持ってどんな人なのか想像しながら観察していると、それはただの通り過ぎる街の風景の一部から、自分と同じ一人の個性ある人間へと変わっていく。話したこともない、知らない人に親近感を感じたり、自分とは関係ない喜びが伝わってきて思わず笑みがこぼれそうになる。目の前の交差点の信号が赤から青に変わるのを見てファニはフィルターの火を消し、燃え滓をシガレットケースに戻して、くたくたのジャケットの襟を直し、立ち上がった。
「ここでお待ちいただけますか?」
「うん。いってらっしゃい」
私が手を振ると、ファニは荷物を背負い直し、ニコを顔の前に構えながらゆっくりと歩き出した。横断歩道に足を踏み入れる。大勢の人がそれぞれの目的の場所へ行こうと流れていく隙間を泳ぐように歩いていく。交差点の中は数え切れないほどの人が絶えず動いていて、お互いに視線を交わさないのに誰一人としてぶつかることなく横断歩道の端から端まで流れて行く様子には感動を覚えた。ファニはファインダーを覗きながらたっぷりと時間をかけて横断歩道を渡り切り、素早く電柱の影に身を寄せて今撮ったばかりの写真を確認する。成果は芳しくないようで、少し首を傾げ、肩を落として再び信号が変わった交差点の中を歩き出した。同じ道を何度も行き来するその姿を私は飽きずに目で追う。
ファニの周囲は空気の色が違うように見える。黒髪の男なんて珍しくないし、服や体は他の人に紛れて見えない。目立った特徴はないのにのに目を離してもすぐに何処にいるかわかる。周りの景色が切り取られたようにそこだけ浮き上がって見える。にも関わらず街中でカメラを構えながら交差点を往復する男のことを誰も気にしないのが不思議だった。そうでなくてもファニは美形で目立つのに、誰も注目しないのだ。撮影を終えたファニが私のいるところへ戻ってきた。
「おかえり。どうだった?」
「これではタバコ代にもなりませんね」
写真を確認しながらファニは苦笑した。私は身を乗り出してニコの画面を覗き込む。背景はビルやコンクリートなど周りに見えるものばかりなのに、その中に街では咲きそうにない花が小さく写っている。花はどれも蕾か、咲きかけといった花ばかりで、良くて五分咲きといったところ。それでも小さな花が寄せ集まって咲いている写真は美しかった。
「この写真を換金するの?」
「そうです。神査管理局の受付に持っていって査定して貰います。その結果得た報酬で必要な物を購入できるんですよ」
「神界にもお金があるの?」
「いいえ。ありませんよ」
「じゃあ、報酬は何を貰ってるの?」
「……何でしょう? 考えたこともありませんでした。神界にはお金と同じように使える物があるんです。マリさんもいつか神界に行ったらそれを使うことになりますよ」
人間がいつか神界に行く時。はっきり口にしなかったが、その『いつか』とはきっと死んだときのことなのだろう。
「さて、そろそろ行きましょう」
ファニと歩いているといつもは気にもしなかった景色の美しさをを教えて貰える。ファニは目が良く、公園やレストランに立ち寄ったときや、街角の植え込みに座り込んで悲しい顔をしている人を見かけるとそよ風のようにいつの間にかその傍に寄り添って優しく声をかける。最初は声をかけられても戸惑うばかりなのだが、ファニが自分の話を聞かせたり、ニコで写真を見せたりしているうちに、やがて相手の警戒心が剥がれ落ち、ポツリポツリと口から漏らすように自分のことを話し始める。私たちはその声に黙って耳を傾ける。まるで自分が悲劇の主人公にでもなったかのような語り口に私は時々、苛立ってしまうのだけれど、ファニは少しもそんな気配は見せない。
例えば、結婚して子供が生まれたばかりの男性が
「妻は生まれたばかりの子供に構ってばかりで、自分の居場所がなくなった」
と言えば、ファニは嬉しそうに微笑んで
「奥さんはあなたのことを愛しているから二人の間に生まれたお子さんを愛しているんですよ。そんな奥さんをあなたも愛していらっしゃるんですね」
と言うし、恋人が出来たばかりの女の子が相手の不満や愚痴をこぼすのを聞けば
「そんなに言えるほど相手のことをよく見ていらっしゃるのですね。あなたは今、間違いなく誰よりも彼のことを考えていて、一番よく知っているんでしょうね」
と言って女の子に照れ笑いをさせるし、サラリーマンが仕事で出世したことで生まれる人間関係の苦労を語るのを聞けば
「あなたはそれだけ多くの方から注目され、頼られているんですね。今まで頑張ってきた証なのでしょう」
と、仕事を始めたときの熱意を再び呼び覚まし、励ます。
ファニは幸せの達人としてどんな人に対しても優しく全てを受け入れ、絶望のどん底にいる人にも話の最後には笑顔を与えた。
その笑顔をニコで写し、別れ際にはいつも決まってこう言うのだ。
「神のご加護がありますように」
私は神様を信じて祈ったことなどなかったけれど、ファニが口にするその言葉が大好きになっていった。
毎日のウォーキングはある日を境に時間ではなく、周で数えることになった。それでも歩く速度を調整しているため時間はあまり変わらない。早歩きを続けても疲れをあまり感じなくなってきたし、眠る前に感じていた鈍く重い足の痛みがなくなった。ファニが仕事のために一緒に歩いてくれなくても寂しくない。ウォーキング仲間が出来たのだ。
朝は若いサラリーマンの男の人。相手はジョギングをしているのであまり話すことはないのだが、顔を合わせれば挨拶くらいはする。歩いている私に追いついた時はすれ違い様に二言、三言、声をかけてくれる。大抵は天気の話とか、一日の気温の話だ。どうやら家が近いらしく、ファニと一緒に行くスーパーマーケットでも時々見かける。
一度、同じタイミングでレジに並んで話をしたことがある。独身で、一人暮らしをしていて、料理が好きだと言っていた。元々大食いな上に食事の時間が不規則で、一人分を作るのは難しく、夜中でもお構い無しに食べ過ぎるので体重管理のために朝は走っているのだとか。恋人がいないと聞いた時は、口では素敵な人なのに勿体無い、と言いながら、その言葉を少し意識している自分がいて、心の中で頭をもたげた仄かな期待を笑って打ち消した。
同時に、和樹以外の男性に興味が湧くなんて思ってもみなかった自分の感情に驚いた。
夜は前に飲み物をくれたおばさんとよく話す。いつも同じ時間帯に歩いているので互いに自己紹介をして、お友達になってもらった。
ミツコさんという名前で、普段は事務のパートをしており、旦那さんと高校生の娘さんと大学生の息子さんがいるらしい。歩きながら私の仕事の愚痴や、ダイエットの成果をよく聞いてくれる。初めのうちはファニと一緒に行った場所のこと、ファニが作ってくれる料理のこと、本当にファニのことばかり話していた。まだ和樹のことを冷静になって話せなかったのだ。でも、ミツコさんが旦那さんと結婚する前の話をすると、それにつられて私も和樹のことを話題にしてしまう。何度も名前を口にするうちに、悲しみが紛れ、針を刺すような痛みも感じなくなってきていた。
私もミツコさんの話を聞く。旦那さんに対して愛情を感じる内容の愚痴、娘や息子が努力して入学した学校の自慢話、ご近所付き合いのこと、子供たちが小さい頃の話と自分の若い頃の話。聞きやすく語られる話を聞いて、私はファニの真似をして頷いたり、時々大袈裟にリアクションをしながら話の邪魔をせず最後まで聞く。ミツコさんの語り口はまるで子供に読み聞かせをするかのようだ。聞いていて心地よいリズムとトーンに相槌を打つのも忘れて聞き入ってしまったこともある。
他に公園を利用する人ともミツコさんほど話はしないものの、顔見知りくらいにはなった。ファニと一緒に歩いていて、つられて挨拶をしているうちにいつの間にか顔を覚え、相手にも覚えられてしまったようだ。
例えば、私が仕事で遅くなっていつもの時間に来なかった翌日、
「昨日は具合でも悪かったの?」
と、心配して声をかけてくれる人がいる。名前も知らない相手に私は笑顔で首を振り、
「昨日は仕事が忙しくて、遅くなってしまったんですよ」
と答える。相手は安心したように
「そうなの。姿を見かけなかったから、気になってたのよ。頑張ってね」
そう言って笑って見せるので、私はお礼を言って頭を下げる。
時々、庭や自分の畑で出来た果物や野菜をくれる人もいて、ウォーキングが終わって、仕事のために別行動していたファニと合流すると、待ち合わせ場所で待っていたファニは困ったように大きなビニール袋を持った手を持ち上げて見せた。私はファニから事情を聞き、まだ渡してくれた人が公園内にいればその場ですぐに、既に帰ってしまっていたら次に会った時に、それをくれた人に躊躇いなく近付いていって何度も頭を下げ、お礼を言う。そうすると相手は困ったように手を振りながらも、嬉しそうに笑ってくれる。
ファニと知り合う前の私ならそんな挨拶や人付き合いを面倒に思って、わざわざお礼などしなかった。例え、お礼を言ったとしても相手の顔も見ずに形だけ頭を下げていたはずだが、今はその照れた嬉しそうな顔を自分がさせたのだと思うと、自分まで嬉しくなって心が温かくなる。
自分で自分が変わったと実感する。ファニのおかげで、今まで見なかった物を見るようになったし、見えない物を感じようとするようになった。
他にも変化はある。最近では朝のウォーキングに行く時にメイクをして出なくなった。
大した効果もないメイクのためにほんの数分、ファニを待たせるのが申し訳ないという気持ちもあったけれど、どうせ汗をかけば崩れてしまうし、終わった後は公園の水道で思う存分顔を洗って帰りたかった。
最初は恥ずかしいと思っていたけれど、色んな人と挨拶をしているうちに、恐らく私と同年代であろう女性たちがノーメイクで来ていることを発見した。その上、ジャージ姿の太った女の揺れる腹に目がいったとしても顔までは誰も気にしていないことに気付いたので、それ以来恥とも思わなくなった。
でも仕事に行くと一転して、人は自分が思っているより他人の顔をよく見ていることを思い知らされた。
「あれぇ? マリさん、ファンデ変えましたぁ?」
やたら語尾を上げる癖のある女子社員が声をかけてきた。私は彼女が苦手だ。嫌いという程ではないが、あまり得意ではない。
彼女のような人は会社でも学校でもよく見かけるのだが、話す相手によって言うことや態度を変えるタイプなのだ。裏表があると表現するには大袈裟だし、この程度の八方美人は会社なら大勢いる。今のところ実害はないし、これが彼女なりの世渡りの方法なのだと割り切って考えている。しかし、今は私の前で楽しそうに話をしていても、私がいないトイレか給湯室に場所を移すと他の人たちと無駄なメイクやダイエットだと言って陰口を叩いているに違いない。それを想像した私は顔が引き攣りそうになるのを我慢しながら首を振る。
ファンデーションどころか、近頃は化粧品を買いに行った覚えもないのでこれは本当だ。苦手な相手だからと言って嘘をつく理由もない。
「でも、肌キレイですよ。あ、もしかして彼氏と上手くいってるんですかぁ?」
私はその質問に苦笑しただけで答えなかった。ここで肯定して彼氏のことを根掘り葉掘り聞かれても困るし、彼氏とは別れたという真実を答えても、結局は私の預かり知らないところでお茶の時間の話題にされるだけなのだ。その話題は、本人が詳しい話をしない方が想像力を掻き立てられて大いに盛り上がるし、その方が話している人も楽しい。嫌味や陰口、噂話は会社で働く女子社員のストレス解消に最適なのはわかっているので無粋な真似はしないように注意して、お茶を濁したまま彼女との話を切り上げた。
だが、その子の言葉は気になった。私はトイレに駆け込んで洗面台に身を乗り出し、鏡を見る。
ファンデーションの厚塗りでやっと隠していた肌荒れでデコボコだった肌が嘘のようにキメの細かい、吹き出物もない、綺麗な肌に生まれ変わっている。毎日鏡を見ているせいで少しずつの変化に気付けなかった。私はいつの間に、こんな顔になっていたのだろうか。