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人魚姫の恋  作者: 春菜
8/20

8

 軽い足取りで去っていくバドルの後姿に手を振っていたファニがすっと立ち上がった。

「さて、ここからは私の仕事ですよ」

 片目を閉じてウインクをしてみせる。手を差し伸べられ、私も立ち上がった。ファニが泣いている女の子に近付いていく。私はそれを後ろから眺めていた。

「こんにちは。大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

 女の子の服についた砂を払いながらファニが聞いた。女の子は首を振り、小さな声で何か答えた。

 動く口元にそっと耳を寄せたファニは優しく微笑んで安心させるようにゆっくり頷くと、すっかり踏み固められた砂場を見た。

「砂山を作っていたんですね。水は使わないんですか?」

 女の子はまた小さな声で何か答えた。ファニは今度は耳を近付けて聞こうとせずに首を振った。

「それでは聞こえませんよ。もっと大きな声で話していいんですよ」

 すると、女の子は周りを見て私とファニ以外に誰もいないことを確かめるとさっきより大きな声で言った。

「服を泥で汚すと、お母さんに怒られるの」

 やっと聞こえてきた弱々しい幼い声は涙で掠れていて、痛々しいほど必死だった。

 泣いたときもしゃくりあげるだけだったことを考えると、家の中では大きな声で話すことを禁じられているのかもしれない。

「じゃあ、服を貸してあげましょう。これを着てください」

 ファニはカバンから自分のシャツを取り出した。広げてあげると女の子は戸惑いながらそれに袖を通し、ファニの大きなシャツに覆われて最初から着ていた大きめの古いズボンと汚れたシャツは見えなくなった。

「それなら汚しても誰も怒りませんよ。思い切り遊びましょう」

 そう言ってファニが私を呼んだ。私は砂場にしゃがみこんで、女の子の顔を近くで見た。

 髪は不揃いでバラバラ。顔や腕はあちこち汚れていて、服から出る部分には目立たないが、服の破れから覗く腹や足は痣と傷だらけ。何日も体を洗っていない臭いもする。バドルの言っていた話は恐らく真実なのだろう。

 知らない大人に囲まれて怯える女の子にファニの真似をして微笑みかけ、聞いた。

「こんにちは。私はマリ。あなたのお名前は?」

「……アサミ」

 小さいけれど、はっきり聞こえる声でアサミは答えた。

「そう。よろしくね」

 私は更ににっこりと笑って見せた。怯えていた女の子は無表情な目で私を見つめた。

 それから三人で話し合い、砂山を作って遊ぶことにした。ファニが持っていたペットボトルを一つアサミに飲んで貰って空にし、公園の中にあった水道と砂場の間を何度も往復した。掘った砂の中に水溜りが出来るほど水を運んだ頃には二人とも靴や服が泥だらけになっていた。たっぷりと水を吸った砂を盛り上げて固め、水を通すトンネルも掘れた。周りを掘り、水路を作って更に水を運んできて流すと、感動したアサミは初めて嬉しそうに顔を綻ばせた。

 私も久しぶりの砂遊びに熱中し、童心に帰ってアサミと一緒に砂山の完成を喜んだ。

「アサミは今までにこういう遊び、したことあるの?」

「おばあちゃんの家のお庭で砂遊びしたよ。犬がいて、私が作った山を壊しちゃうの。それでね、その後、犬がごめんねってペロペロ私の顔を舐めるの。とても楽しかった」

 幸せそうに思い出を語るアサミを見ていると私は心の底から穏やかな気分になった。

 最近、和樹のことを思い出そうとしたり、ダイエットのために空腹と戦ったりと、落ち着く暇がなかった。どんな不幸が降りかかっても、時間は待ってくれない。現実はいつもと同じスピードで容赦なく前へ進む。仕事も生活も、恋がなくなった瞬間に同じく消えて無くなる訳ではない。変わらずそこに存在し、いつも通りを要求される。だから苦しくても立ち止まるわけには行かなかった。立ち止まったとき、自分は壊れてしまうような気がした。

 悲しみによって脆くなった心は思い出に向き合うことで押し潰されて、バドルに踏みつけられた砂山のように崩れ、壊れてしまう。壊れないために縋るものが欲しかった。出会ったときのアサミと同じだ。手を止めれば悲しく苦しい現実を思い出すことになる。空腹と戦い、ダイエットのために運動し、必死に目の前のことをこなしている間だけ、現実の悲しみから目を逸らし、都合のいい今だけを見ていられる。

 だから、今、何も考えずに目の前にある現実を見つめて穏やかな気分でいるのが信じられなかった。

 ファニがアサミに聞いた。

「おばあちゃんに手紙を書いたり、電話をしたりしていますか?」

「ううん。住所を知らないし、電話するとお母さんが怒るの。お母さんはおばあちゃんのことが嫌いだから」

「会いたいですか?」

 その問いにアサミは少し迷った後、勇気を出して頷いた。

「……うん。おばあちゃん、優しいの。お菓子もくれるし、かわいい洋服も着せてくれる。私が困ったときはいつでも電話しなさいって言ってた。でも……」

 口を噤んだアサミにファニが言った。

「お母さんに嫌われるのは怖いですか?」

 アサミは再び頷いた。今の彼女にとって母親は絶対的な存在なのだろう。思春期を迎え、大人に近付くにつれて親が全てではないと気付くことが出来るが、まだ他に頼るものがない子供にとっては親だけが世界の全てで、失うことが何よりも恐ろしく、それが失われたとき、自分がどうなるかなど考えられない。

 私にとって、それは和樹だった。未来を手に入れたくて、今ある幸せを失いたくなくて必死だった。だけど必死になるあまり、自分のことが見えなくなって、和樹の存在も見失って、結局何もかも失ってしまった。私は自分自身の境遇を表す輪郭のようなものがアサミと重なることに気付いた。

 それがわかっていて、ファニは私をアサミと引き合わせたのだろうか。アサミにとって母親と共に暮らすことが全てではないように、私にとって和樹がいる世界が全てではないと気付かせるために。

 ファニはアサミの小さな肩を抱いて、優しく囁いた。

「あなたが強く望めば、あなたの思うがままに運命を変えることができますよ」

 そして少し怯えた表情になったアサミを立ち上がらせ、家へ連れて帰った。

 帰りたくないと言って抵抗する訳でもなく、しかし気が進まないのか足がなかなか前へ進まない。横並びになって手を繋ぎ、のろのろと家へ向かう私たちは、とても短い距離にも関わらず何十分もかけて小さなアパートの一室の前に着いた。

「ここがアサミの家?」

 認めれば何もかもが終わってしまうかのように、アサミは恐々と頷いた。

 扉を開ければ母親がいる。彼女を酷い言葉で罵り、暴力による恐怖でアサミを虐げる母親が。

 顔を見たら一言でもいいから何か言ってやりたい。そう思うと同時に、そんなことをすれば余計にアサミの立場が悪くなるだけだと理屈を理解している自分もいた。自分がいるときは何もされないかもしれない。でも私には私の生活があってずっと一緒にいて庇ってあげることはできない。中途半端な行動を起こせば余計に彼女を苦しめる結果を招く。私に出来るのは無力を噛み締めることだけだった。

 ファニはどう思っているのだろう?天使には魔法の力などないと言っていた。母親の心を言葉巧みに操ってどうにか出来る、とは思っていないだろうが、それでも不幸を招くバドルと違ってファニは幸せを呼ぶ天使だ。何か特別な方法を考えていて、アサミを助けようとしているに違いない。そう信じているし、信じたかった。

 ファニの手がアサミを扉の前へ誘う。冷たいドアノブに触れたアサミは怯えた顔をして救いを求め、ファニの顔を見上げた。ファニはゆっくりと首を振った。

「私たちの力ではあなたを助けることは出来ません。でも、大丈夫です。あなたが望むなら、その扉はあなたの願いを叶えるでしょう。さぁ、恐れないで、勇気を出して。あなたを助けるのはあなた自身しかいませんよ」

 優しい言葉は呪文のようだった。バドルの声が冷ややかに悪夢を呼び覚ます呪文なら、ファニの声は温かい力が湧いてくる呪文だ。

 怯えていた少女は魔法にかかったかのようにしっかりとした顔つきになり、堂々と扉に手をかけた。

 それでもやはり母親の顔が脳裏を過ぎったのか、一瞬だけ迷ってから扉を開いた。そしてアサミは目の前の光景に息を呑んだ。扉の向こうには母親がいるアパートの部屋ではない、太陽に照らされた長閑な田園風景が広がっていたのである。その畑の中に腰を曲げてひょこひょこと動き回る人の姿を見つけたアサミが今までにないほど大きな声で呟いた。

「……おばあちゃん?」

 思いがけない呼びかけに背筋を伸ばして顔を上げ、振り向いた老婆はアサミの姿を見つけると、驚いて小さく悲鳴をあげ、辺りを見回した。幽霊か何かだと思ったのだろう。しかしアサミがもう一度、今度は叫ぶように呼ぶと、いそいそと畑から出て大きく迎えるように両手を広げた。

 祖母の元へ駆け寄っていくアサミを追うように私たちも扉の向こうへ足を踏み入れた。

 古いアパートの玄関先のコンクリートで固められた地面から、柔らかい土と草の上へ足を下ろす。背後の扉は自然と閉まり、振り向いた私が再び開けたときには農具と埃の入ったただの倉庫になっていた。

 ファニは二人の姿をニコで写し、撮ったばかりの写真を見て満足げに頷いた。私は独り言のように呟いた。

「どうしてここに……ここは何処なの?」

「アサミさんのお祖母さんの住む町のようですね。アサミさんが家に帰りたくない、お祖母さんに会いたいと願ったからここへ繋がったのでしょう」

「もし、願わなかったらどうなっていたの?」

「いつもと同じ母親のいるアパートに帰ることになっていました」

 ファニは冷静に、とても残酷なことを言った。しかし、よく考えればそれが当たり前なのだ。ファニがいなければアサミに母親の所に帰る以外の運命は用意されていなかったのだから。

「魔法、使えるじゃん」

「いいえ。魔法を使ったのは私ではありません。私はアサミさんの願いが神の耳に届くようにほんの少しお手伝いしただけです」

「じゃあ、アサミはもうお母さんのところへ帰らなくていいの?」

「それはこれから彼女がどうするかによって決まると思います」

 ファニは小さな声でそう言い、畦道に座り込む二人を見つめた。アサミの祖母は小さな孫の手を強く握り、地面に膝をつけてしゃがんだまま、言葉にするのももどかしく焦って説明するアサミの言葉を辛抱強くじっと聞いては何度も頷き、私たちが彼女をここへ連れてきたことを知った。

 それから私たちはアサミの祖母の家に招かれることになり、少女が祖母に促されるままに今置かれている状況を自分の口から説明するのを聞いていた。アサミはまず母親との関係を話し、これまでの生活で何を言われ、何をされたか、堰を切ったように話し続けた。そして大好きな祖母に何故長い間連絡が出来なかったのかを説明し、涙を流しながら謝った。

 ファニとの関係を聞かれて、最初は言いにくそうにしていたが、黙ってファニの目をじっと見つめた後、今日バドルと出会った時、自分が何をしでかしたのかも包み隠さず全て話した。どう言葉にしていいかわからず躓くように話が途切れるとファニが足りない言葉を手助けして、補った。アサミは母親の話をする間、どんなに辛いことを思い出すときでも声を上ずらせるだけで泣き喚くことなく、冷静に話を続けた。自分が悪かったことも包み隠さず話し、母親がそれに対してどんな仕打ちをしていたか思い出せる限り詳しく聞かせてくれた。

 アサミの祖母はその話を聞き、時に怒りを見せたり、アサミと共に涙を流したりしながらも、口を挟んで話の腰を折らないように静かに耳を傾け続けた。やがて心の内に秘めていた全てを話し終わったアサミが全てを知って優しく微笑む温かい祖母の胸に抱かれ、涙を流しながらポツリと言った。

「お母さん、怖い。おばあちゃんと一緒がいい……」

 そう呟いた後、安心感と疲れに誘われ眠ってしまうと、私たちはアサミの祖母から何度も礼を言われた。

「私は何もしていませんよ」

 ファニが言った。私はひたすら頷いた。ファニの言葉なら謙遜かもしれないが、私は本当に何もしていないので、頭を下げられると申し訳なくて泣きそうだった。

 頬に涙の痕を残し、静かに寝息を立てるアサミの寝顔を見つめながらアサミの祖母は

「アサミは私が引き取ってここで育てるから、もう何も心配いらんよ」

 そう言って穏やかに笑い、もう一度お礼を言った。ファニはその笑顔をもう一枚だけニコで写すと、

「神のご加護がありますように」

 そう言って席を立った。家の前まで見送ってくれたアサミの祖母に手を振り、私たちは家路に着いた。気が付くと、空は紅に染まり、日が暮れかけていた。

「せっかくですから、今日は公園のウォーキング代わりにこの辺りを少し歩いてから帰りましょう」

 ファニは言った。反対する理由なんてなかった。歩いていくうちに段々と日が暮れて暗くなり、街灯のない道は真っ暗になっていった。それでも、空を見上げると月が明るく、数え切れないほど星が輝いて私とファニの長く伸びた影を夜道に落としていた。夜が明るいと感じたのは初めてだった。

 ファニと私は空を眺め、フィルターを吸ったときのような清々しい空気を堪能しながら遠くまで歩いた。そして、小さな駅に着いた。無人駅の古ぼけた街灯に照らされた時刻表を見てみると予想通り、電車はとっくに終わっていた。ファニの手が何の躊躇いもなく駅の待合室の扉を開くと、その扉の先にあったのは私の部屋だった。

「これ、どういう仕組みなの?」

「仕組みなどありませんよ。願えば扉はそれを叶えます。どんな扉でも新しい世界を願って開けば、昨日とは違う世界に繋がって行くのです」

 まるで謎をかけられたようだった。適当なことを言ってはぐらかされたような気がした。

 だけど、それで構わないとも思えた。だって私はさっき、自分の運命を確かに自分の手で変えることになった少女を見てきたのだから、それ以上の説明など必要なかった。

「さて、買い物に行きましょう。今、行かないと明日の食事はありませんよ」

 ファニが言った。私は迷わず頷いた。正直に言えば疲れていてしばらく動きたくなかったけれど、そんなことを言えば何よりも恐ろしい空腹という罰が待っている。今日はいろいろなことを学んだ。だから、少なくとも今日だけは全面的にファニの言うことに従うことにした。スーパーへ向かう道すがら、私は考えていたことを口にした。

「ねぇ、ファニが言っていたことがわかったよ」

「私が何か言いましたか?」

「うん。何かを手に入れるために犠牲にした物は、それ以上の犠牲を払わないと取り戻せないんだね」

 アサミはたった一つのパンを手に入れるために盗みを働き、それを更に盗みで贖った。警察に通報されて保護されるか、母親に知れて見放されれば幸運だが、もし一本でも道を違えたら心と体に一生残る傷と逃れられない罪を背負って生きていくことになったかもしれない。ファニに出会わなければ一人の人間の未来が失われていた可能性があったのだ。そう考えるとゾッとした。

 私の考えを聞いて、ファニは言った。

「私たち天使は与えられた運命に直接手出しすることはできないのです。バドルは不幸を呼ぶ天使ですが、言葉の力を使って人を誘うだけです。相手が誘いに乗らなければ無理に陥れるようなことはしません」

「ファニもそうなの?」

「ええ。私は幸福になれるようお手伝いしますが、相手が何もしないで幸福だけを手に入れようとするのであれば手を引く他ありません」

「じゃあ、私がダイエットを真面目にやってしなかったらファニは私から離れて行ってたの?」

「そうなりますね。人は労さずして幸福を手に入れると、それを簡単に捨てて、より大きな幸福を手に入れたいと願うものですから」

 言葉は違えど、バドルも似たようなことを言っていたのだと思う。人間は強欲だ。

 もし、私がウォーキングを嫌がり、ファニの言う通りの食事制限に従わず、それでも痩せたいと口先ばかりで実行しなかったらファニは今頃、傍にいなかったかもしれない。和樹を失ったことばかり嘆いて立ち直る努力もせず、毎日泣いて暮らしたとしても同じだろう。

 当たり前のようにファニを受け入れ、悲しみに押し潰されまいとして与えられた課題を何の抵抗もなくこなしてきた。それに関して今までは何も疑問を抱いていなかったけれど、他にも存在していた可能性を想像してみると、こうやってファニと一緒にいられることは奇跡だったかもしれないと思える程、私が選ばなかった選択肢は以前の自分が選びそうなものばかりだった。

 そして他の運命を選んだ私は、今の私が知っている奇跡を知らないまま生きていく。知らないことも知らないまま。そう考えると背筋が震えた。

 突然ファニが遠慮がちに言った。

「バドルのこと、怒らないで下さいね。私が幸福を集める仕事をしているように、彼は不幸を集めるのが仕事なんです」

「ファニは嫌じゃないの? 自分が幸福にした人たちが同じ天使の手で不幸にさせられるなんて」

 私が言うと、ファニは少し考えるように黙り込んだ。そして再び口を開いた。

「バドルは誘うだけで、強引に誰かを不幸に陥れることはしません。誘われた人間がバドルの用意した不幸の連鎖に気付き、自ら勇気を出して断ち切ることが出来ればその人は幸福を手に入れることが出来ます。逆に私も幸福を押し売りするような真似はしません。しかし、私が与える幸福の甘さを味わったばかりに強欲という底なし沼に囚われ、身を滅ぼしてしまう方もいらっしゃるのです」

 少し悲しげに眉を寄せ、ファニは言葉を続けた。

「幸福と不幸の間に確かな境界線はないんです。笑顔と喜びに満たされた生活は幸福そうに見えるかもしれませんが、その生活に不安や恐怖を抱く人もいて、怒りや憎しみに満ちた生活は不幸に見えても、その感情を生きる糧にしている人もいるのです。家族の笑顔が幸せな方もいれば、復讐のために生きるのが幸せな方もいるんですよ」

 ファニは静かに語った。幸せは人それぞれだという言葉は何度も聞いたことがある。でも、今までに聞いたどの言葉よりも脳に沁みこんでくるような説得力があった。ファニの言葉だからなのか、今の私がこれまでとは違った私に変化しつつあるからなのか、自分ではわからない。

 私は頷いた。そして、独り言のように呟いた。

「復讐、か」

「もしかしてバドルが言ったことを気にしていますか?」

「うん。ちょっと考えてみたの。もし自分が幸せになるために和樹に復讐するって言ったら、ファニは私を止める?」

「いいえ。あなたが海の泡にならないために王子の胸を刺すというのなら喜んで協力します。私はあなたのために派遣された天使ですから」

 ファニは微笑んだ。気遣いや嘘偽りのない純粋な笑顔だった。彼は本当に私が幸せになるために彼を殺したいと願えば、迷わずその手段と機会を与えてくれるだろう。でも、そんなことをさせてはいけない。私のために彼の笑顔を汚してはいけないと思った。それに、彼が死んだところを想像しても私の心は晴れる気がしない。

「冗談だよ。もう少し考えさせて」

 考えたい、と自ら言葉にしたからには本当の望みはそんなことではないのだと気付いた。

 バドルの言葉を聞いて頭に思い描いたのは和樹を私と同じくらい惨めな気持ちにさせることだった。想像の中で彼の体を傷付け、心を痛めつけて、彼が私を捨てたことを後悔させ、謝罪させる姿を思い描いてみた。「許してくれ」と言って泣きながら地面に平伏す和樹の姿に私の心は冷めていくばかりで爽快感がない。彼の傷によって私の傷が癒されることはなさそうだ。

 またもう一度元のような友達に戻るということも考えたけれど、現実味がない。何より和樹が私以外の女と家庭を築き、生まれてきた子供を愛し可愛がる幸せな姿を目の当たりにすることを想像するだけで胸が苦しく、狂いそうだった。

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