7
翌日は久しぶりの平日の休みだった。普段の休日なら昼まで目覚めないか、目が覚めても布団から出ないことが多い。ところが、予想通りファニに叩き起こされてしまった。
「今日は休みだからもう少し寝かせてよ……」
「朝食を抜くと昼まで食事がありませんが、構いませんか?」
私はもぞもぞと頷いた。食事よりも、今この時にしか手に入らない至福の眠りを味わっていたかった。
でも結局、一度起こされたせいですぐに目が覚めてしまった。時計を見ると、いつもなら仕事に行くため、駅にいる時間だった。
「おはようございます。着替えが済んだら公園へ行きますよ」
「お腹すいた……朝ごはんは?」
「マリさんがいらないとおっしゃったので作っていません」
「そっか。じゃあ、ちょっと早めの昼ごはんにしようよ」
「しません。昼食はウォーキングの後です。時間になるまで我慢して下さい」
ファニは断固として譲る気はないようだった。私はファニが納得しそうな案を考えることにした。
「だったら、食べる代わりに朝のウォーキングを一時間増やすよ。いいでしょ?」
私が言ったその一言がファニの気に障ったらしい。
サッと眉を寄せて私を見つめ、大袈裟なほど大きなため息をついて私の前に正座した。落胆と悲しみに胸を痛めたその表情は私の胸をキリキリと締め付けた。逃げ出したい気持ちを抑え、視線を床に落とす。
「あなたは、食事を代償として数時間の眠りを手に入れることを選びました。そうですよね?」
「……はい。そうです」
「着替えて下さい。行きますよ」
厳しい口調で言ったファニは公園に着くまで私を見ようともせず、一切口を利くこともなかった。公園に着いてからやや私の方を振り向いて
「今日も一時間、頑張りましょう」
そう言ったきり黙って私の前を歩き続ける。ファニが私に追いつかれないようにしているのか、それとも私が何かしながら歩いていないせいなのか、いつもより歩く速度が少し早いように感じる。それなのに過ぎていく時間は遅い。沈黙する空気が重くのしかかって痛い。心の中で歩数を数えても、一時間が経つのは気が遠くなるほど遅かった。
やがてファニの足がゆっくりと速度を落とす。その隙を見逃さず私は少しだけ足を速め、その横に滑り込むように並んだ。だけどあんな悲しい顔を見るのだと思うと視線を上げられない。何と言えばいいのだろう。悩む私にファニは言った。
「お疲れ様でした」
いつもと同じ、甘く優しい声。私が情けない顔を上げると、ファニは一瞬驚いた顔をして、すぐ困ったように微笑んだ。
「ごめん、ごめんね。ファニ」
私はバカみたいに何度も何度も謝った。それ以外に話せる言葉を忘れてしまったかのようだった。どんな言葉を並べても、伝えたい気持ちの半分も伝わらないような気がした。言葉しか伝える方法はないのに、それさえ今は無意味に思えた。それはある意味正しいのかもしれない。ファニは最初から私のことを怒ってなどいなかったのだから。
優しく宥められ、ベンチに座った。
「はい、どうぞ」
いつものようにファニが差し出したペットボトルの水を飲む。一息つくと、真剣な顔をしたファニが言った。
「代償行為というものは悲しい行為です」
「ファニはそういうことが好きじゃないのね」
「いえ、もちろん時には必要なことです。ですが、代償として失った物を再び代償を払って取り戻そうとする行為を繰り返せば必要だったことが後回しにされ続け、本来最初にやるべきだったことは見失われて忘れ去られてしまいます」
ファニは小さなため息と共にうな垂れた。
「そんなことを許し続ければその先には悲しみが生まれるだけです。人を不幸にしようとする者だけがそれを許し、その人が底なし沼に囚われて行くのを笑って楽しんでいるのです」
「不幸にしようとする者……って、もしかして悪魔とか? いるの?」
私が聞くと、ファニはきょとんとして首を傾げた。しばらくしてあぁ、と呟き、説明した。
「悪魔という職業は私たちの世界には存在しません。人に幸せを与えない天使のことを人が悪魔と呼んで区別しているだけです」
「ということは、悪魔も本当は天使なの? 人を不幸にするのに?」
「そうですよ。アルセレノス様は幸福を食事になさってますが、悪食を好んで召し上がる神様もいらっしゃいます。そういう神様にお仕えしている天使が一般的に悪魔と呼ばれているようですね」
ファニは穏やかにそう言った。どうやら仕事の内容に違いこそあれど、彼らの中では仲間として認められていて、特別毛嫌いしているということもないようだ。
「さて、随分日が高くなってしまいましたね。そろそろ行きましょうか。」
そう言って、ファニは立ち上がり歩き出した。私も慌てて後を追う。
「ファニって、他の天使と会ったりするの?」
「ええ。神界に帰ったときは同僚たちに会いますよ。神査管理局で働いている天使もいますし、こちらでも時々見かけます」
「天使と人間ってどうやって見分けるの?」
「興味がありますか?」
ファニがくるりと振り返って悪戯っぽく笑った。初めて見た子供みたいな表情に一瞬、胸が高鳴る。
だけど、それを顔に出さないようにして私は頷いた。
「では、今日は仲間に会いに行きましょう。丁度、近くで仕事をしている天使がいるんですよ」
私はその提案に賛成した。家に帰ってシャワーを浴び、待ちに待った昼食を食べると、ファニと一緒に出かけた。
行き先は住宅街だった。一軒家や小さなアパートが立ち並ぶ中に公園がある。いつも行っている芝を敷きつめ、グラウンドが整備された大きな公園ではなく、地面は砂でベンチがあり、遊具はブランコと砂場くらいしかない小さな公園だ。
その砂場の真ん中で、一人の女の子が遊んでいる。
体に合っていないサイズのシャツとズボンを着ていて、遠目には男か女かわからない。長い髪を後ろで結んでいるが、切り揃えられている様子は無い。素手で土を盛り、砂山を作って真ん中を掻き出し、トンネルを掘ろうとしているようだが、水気のないサラサラの砂は掘ったところから崩れてしまう。
それでも諦めず、手を爪の中まで真っ黒にしながら何度も同じことを繰り返していた。
そんな女の子の様子をベンチに座った一人の男が見ている。ファニはその男に近付いていった。
「こんにちは、バドル」
「よぉ、ファニ。久しぶり。そっちの女は?」
「マリです」
礼儀正しいファニとは正反対の横柄な態度のその男に私は名乗り、小さく頭を下げた。ファニと同じように整った顔をしており、灰色の髪とよく似合うシャツもズボンも黒い服を着こなしている。足は長く、スタイルもいいが、嫌な空気を纏った男だ。手に持ったデジカメを大事そうに撫でている何気ない手つきが、何だかいやらしく感じる。
「そう露骨に嫌な顔するなよ」
そう言われて私はさっと顔を伏せた。バドルという天使はそれを見て面白そうなものを見つけたというように笑った。
「ふーん。最近失恋したんだな? 太ったのが原因か? それとも他に理由があるのか?」
その言葉に誘われるように私の頭は忘れかけていた和樹のことを鮮明に思い出し、別れた日のことが甦ってきた。心がチクリと痛み、激しく脈打つ。目を逸らし続けていた痛みがぶり返すのを感じ、奥歯に力を込めて泣き出したいのを堪える。何故だか、この人の前でだけは泣きたくなかった。
「ちょっと思い出すだけでそんな酷い顔するなんてな。その男のことを忘れられるのか?お前たち人間には復讐っていう甘美で都合のいい言葉があるだろう? やってやれよ。お前が傷ついたのと同じだけ、傷付けてやればいい」
不意に人魚姫の姉妹たちの声が聞こえ、最後のシーンが脳裏に浮かんだ。
「王子を殺せ」
必死にそう言う姉妹たちから復讐の道具を渡されて鈍い光を宿す短剣を手に王子の寝室に忍び込んだ人魚姫。裏切られ、傷付けられた痛みをそのまま目の前にいる男に与えてやろうとするその姿に和樹と自分の姿が重なる。バドルの声は心の中をぐちゃぐちゃに踏み潰されるように乱暴で、怖かった。
「選ぶ道は二つに一つ。お前が負った傷をそのまま男に返すか、全て忘れたフリして男が幸せになるのを横目に生きていくかだ。ま、決めるのはあんただよ。無理強いはしないけどな」
バドルが道を踏み外せと囁く。その声の力強さはとても恐ろしく、言葉は甘い。私が黙っているとファニが言った。
「やめてください、バドル。彼女は私の仕事ですよ。あなたの仕事に私が手を出していいんですか?」
「はいはい。わかったよ。真面目だな……冗談が通じない奴は嫌われるぞ」
「アルセレノス様はそこが私の良い所だと仰って下さっています」
「はいはい、そうかよ。なぁ、ファニ。あいつをどう思う?」
バドルは砂場にいる子を指差した。ベンチくらいまで近付くと女の子だとわかる。今はまた高く山を盛り上げて、今度こそ崩れないように必死に固めようと砂山の表面を手で叩いているところだ。
「あいつの父親は何年か前に出て行った。母親は昼間、寝てるか、酒を飲んでるか、パチンコに行ってるかしていて、あいつとは遊ばないし、世話もしない。夜は仕事先のスナックで男と楽しそうにいちゃついてる。そのくせ、自分が男と上手くいかなくなると急に母親面してあいつに言うんだ。「お前を育てるために自分は苦労してるんだ」って言いながらあいつを殴るんだよ」
「ひどい……」
私は思わず呟いた。ファニが手招きして私を自分の横に座らせた。
ベンチからは女の子がよく見える。彼女の表情は砂遊びを楽しんでいる子供のものではなかった。必死で、縋るようにその手を動かし続けている。砂山を作る作業に熱中しようとしてはいるが、完成させる気などないのは一目瞭然だった。
「あいつが腹を空かせて、近所のコンビニのパンを盗んで食おうとしてたところに俺と会った。俺は、空腹だからって盗みは良くない。俺がそれを買ってきてやる、と言った。あいつはしばらく迷っていたがそれを俺に渡し、俺はコンビニに戻って何食わぬ顔でそれに金を払った」
バドルはニヤつきながらその続きを話した。
「コンビニから出た俺は夢中でパンを食べるあいつに、盗んだことを親に話すと言った。そしたらあいつは母親にだけは知られたくないと言った。母親にバレたら怒られるし嫌われるから、言わないでくれと俺に頼んだ。だから俺は、黙っていてやるから食ったパンの代金を支払えと言った。それが出来なければお前を警察に連れて行く。警察は必ず親に泥棒しようとしたことをバラす、とも言った」
「彼女はどうしたんですか?」
「あの母親が自分の子供にお小遣いなんて持たせてる訳ないだろ。そもそも持ってたら盗む必要もないんだし。あいつはみるみるうちに青褪めて泣きながら家に帰って、酔って鼾をかきながら寝ている母親の財布からパンの代金をこっそり抜いて俺に支払ったんだよ」
「盗みの代償を、盗みで支払った訳ですか。もし、それが母親に知れたら……」
「ああ。一つ知れたら全部話さなきゃならない。母親は躾のためだと言いながら大喜びであいつを殴るだろうな。あいつも気付いたよ。これ以上、母親に嫌われたら自分は捨てられる。何処にも頼る相手のいない子供にとっては親が全てだ。あんな奴でも捨てられるなんて恐怖のどん底だ。それに気付いたときの顔もなかなか面白かったけどな」
「そこで仕事を終わりにしなかったんですか? それだけでは満足できなかったんですか?」
ファニが呆れたように言った。バドルはケタケタと笑い声を上げた。
「満足出来ないのは俺たちじゃない。人間の方だろ。俺はただ今味わえる幸せを見せてやっただけだ。俺に声をかけられたとき、パンを諦めて空腹を我慢すればこんなことにはならなかった。殴られて死ぬ目に遭ってでも正直に話せばこうやって怯えて過ごす必要も無かった。警察に行けば母親とは二度と会えないが今よりマシな生活が出来た。目先の恐怖をやり過ごすために不幸を選んだのは人間だ。俺は何もしちゃいねぇよ」
「それで、彼女はどうしてあんな必死に砂山を作っているんですか?」
「家に帰れないのさ。母親が仕事に行って家からいなくなるまでか、パチンコに行って財布の小銭が減っていることに気付かないくらい散財してくるまでここで待つつもりなんだろ。黙って外で遊んでる間は親に殴られないからな」
バドルの口から語られる現実とは思えない話。悪魔のような天使が語る話など真実かどうか疑わしいところだが、もし今聞いたことが全て真実だったとしても彼女のためにどうしてやることも出来ないのが悔しかった。私が母親と話をしてもきっと二人の関係は変わらない。絶対に殴らない、これ以上彼女を酷い目に遭わせない、などの約束が出来ない限りは励ましの言葉をかけても意味がない。縋るように横目でファニを見たが、ファニはいつもと全く変わらず優しい顔をしているだけで、何も行動する気はなさそうだった。
不意にバドルが立ち上がった。ずんずんと女の子に近付いていく。迷わず砂場に足を踏み入れると、足を後ろに高く持ち上げ、女の子が積み上げた砂山を蹴りつけた。脆い砂山は一気に崩れ、それをバドルが更に踏み潰し、平らになるまで続けた。
しばらく驚いて呆然としていた女の子は我に返った瞬間に泣き出した。めそめそと泣くその顔をバドルは手に持っていたデジカメで写し、足取り軽くベンチまで戻って鼻歌を歌いながら写真を確認した。こんな酷い状況なのに、カメラの画面に映し出された写真は美しかった。光の差さない真っ暗な背景の中に浮かび上がるネオンのように光る魚の姿。深海魚のように白く濁った目がこちらを向いている。それは恐ろしくもあり、目を離せないほど美しい姿だった。撮った瞬間を見ていなければ、これが人の不幸を写したものだと言われても信じられなかっただろう。
バドルは満足気に頷いて立ち上がるとファニに向かって手を振り、去っていった。