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人魚姫の恋  作者: 春菜
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6

 翌朝も目覚ましの一時間前に起こされ、ヨーグルトの朝食後、ゆっくりとウォーキングをして帰ってシャワーを浴び、二度目の朝食を食べて仕事へ行く。犬が言った通り、朝からどんよりと重い曇り空だった。でも今朝は昨日より気持ちが軽い。

 昼休憩中、降り始めた雨を眺め、ファニの作ったお弁当を食べながら和樹のことを思い出そうとしていたのだが、殆ど毎日見ていたはずの顔が不思議なことにぼんやりとしか思い出せなくなっていた。

 最後に会って別れ話をされた後は声も温もりも完璧に思い出せた。それから何日も経っていないのに、 もう何ヶ月も顔を見ていないような気がする。和樹に別れを告げられた何時間後にファニと出会ったのに、それさえ日を跨いでいるように感じる。野宿して暮らしているというファニを家へ招いたのも、買い物に行ってダイエットを始めるために食べ物や飲み物を捨てたのも全部一日で起こった出来事なのが信じられない。

 カフェから飛び出して公園で泣いていた時は、毎晩この日のことを思い出して泣くのだろうな、と思っていたのに、意外にもそんなことはなかった。夜中に思い出すのは空腹に唸るお腹と、たった一粒のアーモンドを五十回以上噛まなければ飲み込めないということだけだ。空腹の前では夢の中にさえ和樹の姿は現れない。

「色々あったし、ね」

 違和感を自分に納得させるようにひとりごちた。

 今日のお弁当は少しだけ残した。というのも、ファニから満腹の一歩手前、腹八分くらいで食べ止めるようにと言われたからだ。

「残ったら捨てていいですよ。あまり量が残るようでしたら言ってください。全体的に減らします」

 見送りの時ににっこりと恐ろしいことを言ってのけたファニに背筋が凍り、引き攣った笑いを返して別れた。ここでいう全体的というのがお弁当の中身の話でないことはわかった。一日の中で食べる量を調節すると言われたのだ。今でも夜中に空腹で目が覚めてしまうというのに、これ以上減らされたらたまったもんじゃない。だからお弁当を残す量もほんの申し訳程度だ。このくらいの量なら無理矢理でも食べればいいのに、と思えるくらいの量で箸を置き、後ろ髪を引かれる思いでお弁当の蓋を閉めた。

 仕事を終えてアーモンドを飴のように口の中で転がし、少しずつ溶かすように齧りながら家に帰ると、昨日と同じようにファニが待っていた。

 ベランダへ向かうファニの姿を目で追い、空腹にぐるぐると唸り声を上げる腹を擦りながら、着替えて洗濯機を回した。朝と夜に運動するおかげで、普段はあまり量がない洗濯物が二倍に膨れ上がる。

 和樹と一緒にいたときは洗濯を私がしていたので、洗う量自体はあまり変わっていない。料理以外の家事は全部自分でやっていた。

「ついでにファニの服も洗う?」

「いえ、大丈夫です」

 一応、キッチンに向かって声をかけると当然の返事が聞こえた。恋人でもない女に着る服を洗濯してもらうのは嫌だろう。

 そこでふと気付いたのだが、ファニは食事をしないだけでなく、風呂、トイレに行くところも見たことがない。

 朝、私はいつも寝ていて見ていないが、テントの中で着替えて、それをカバンに詰めて昼間出かけている様子なので何処かで洗濯だけはしているのかもしれないが、料理中に手を洗っている以外に体を洗っている様子はない。

 それなのに長い髪はいつもサラサラ、肌はいつもつるりと白く、汚れの一つも着いていない。体からは例のフィルターの煙の香りが漂っている。爪垢一つ気になったことがない。もしかしたら昼間、一人で出かけているときにこっそりお風呂に入っているのかもしれない。今度、仕事が休みの日に一日中付き纏って確かめてみよう。

「何をニヤニヤしてるんですか?」

 キッチンから顔を出したファニが首を傾げている。

「何でもない。思い出しただけ」

 私は首を振った。どちらかというと思いついた、だけれど、細かいことはいいだろう。

 風呂場の前に作った物干しスペースに服を干し、下着だけは風呂場の中に吊るした。相変わらずうるさいお腹をバシッと一叩きして部屋に戻ると、夕食が完成していた。

 今日は煮物と、サラダに大根おろしと鶏肉をのせたものだった。空腹の胃袋にだしがきいた生姜の香りはたまらない。がっつきたい気持ちを抑え、両手を合わせて「いただきます」と呟いてから、箸で掴めるだけ掴んで口に放り込む。じれったいけれど、噛む間はゆっくりと味わえるのがこの食事のいいところだ。

 私が食べているのを監視していたファニがベランダへ行ってしまった。空を見上げていないところを見ると、今日は曇りのため月が見えないらしい。その代わり、テントの中に入ってカメラを手に出てきた。

「ニコ、今日は一緒に行きませんか?」

 カメラに向かってニコと呼びかけ、友達のように話しかけている。独り言の連続ではなく、しっかりと会話になっているような相槌まで打っていた。

「そのカメラは何なの?」

 私が聞くと、ファニは答えた。

「ニコは私の仕事道具です。これで人の幸せな姿を写したものが、アルセレノス様のお食事になります」

「アルセレノスってファニが仕えてるっていう月の女神? 写真を食べるの?」

 私の言葉にファニが面白そうに笑った。

「いいえ。カメラで写し取られた幸福をお召し上がりになるのですよ」

 そう言ってこれまでに撮った写真を見せてくれた。スライドされていく写真はどれも花の写真ばかりで、道端に咲いているような花が綺麗に咲いているものもあれば、花屋でしか見かけないような大輪もあり、蕾や蔓ばかりのものもある。

「人なんて写ってないよ?」

「これはニコの力です。被写体がより幸福なら満開に近い花が写り、不幸なら蕾になるんですよ」

 そう言われて改めて写真を眺めてみる。満開と呼べるほど咲いている花は少ない。

「世の中、幸せな人ばかりなのかと思ってたけど、そうでもないんだね」

「そうですね。誰しも幸せばかりとはいきません。口に入れた小さな一粒の砂糖を一匙と同じ甘さに感じることができる方は少ないですから」

 ファニは悲しげに肩を竦めた。私はよく意味がわからないまま適当に相槌を打った。私の食事が終わり、少しの休憩の後、食器の片付けが済むと、二人並んで夜の公園へでかけていった。

「今日は一人で歩いてください。二時間経ったら声をおかけします」

 ファニと話をしながら歩くのが楽しかったので、遠くなっていく後姿を見ながら少し寂しい気がした。それでもしっかり歩かなければ、と気を取り直して歩き始める。

 すると、しばらくしてファニの姿が見えてきた。散歩中の犬にカメラを向け、ファインダーを覗いている。あのカメラは人だけでなく、犬にも有効なのか。大好きな飼い主と散歩している犬ならばそれはいい写真が撮れることだろう。そう思いながら声をかけるために近付いていった。が、声をかけられる距離になる前に早足で何処かへ行ってしまった。

 次に見かけたときはベンチに座って休んでいるご夫婦の前にいた。白髪混じりの夫婦と和やかに談笑しながらシャッターを切っている。やがてペコリと頭を下げると、また足早に先へ行ってしまった。

 どんなスピードで歩いているのか、ファニは走っている様子でもないのにとても早く移動している。グラウンドの向こう側、半周先で立ち止まり、カメラを構えている姿を見かけたので速度を上げようと思ったらまたすぐに歩き出し、視界から消える。追いつくのを諦めて少し速度を落としかけると、今度は私の後ろから顔を覗かせて、また次の被写体を探しに行く。私は再びその後姿を追い始め、堂々巡りをする。

 そうやってファニを追いかけるようにして歩いていると息が切れて少し苦しくなってきた。同じようにしているつもりでも無意識にペースが早くなっていたらしい。

 と、いきなり背後から声をかけられた。

「こんばんは。お元気?」

 一瞬、暗くて誰だかわからなかったので慌てたが、すぐに道を照らす街灯の光が強いところまで出て行くと相手の顔が見えた。

 昨日、飲み物をくれたおばさんだった。あぁ、と声を上げた私は小さく会釈をした。

「昨日はどうもありがとうございました」

「いいえ、お節介焼いちゃってごめんなさいね」

「いえいえ、ご馳走様でした」

 一通り当たり障りのない挨拶を交わした私たちは歩きながら話した。おばさんは健康のためにウォーキングを始めたと言い、私もダイエットのために歩いていることを説明した。おばさんが言った。

「私も最初はダイエットしようと思ってたんだけどね、運動するとお腹が空いて、つい食べちゃうから痩せられないのよね」

「本当にお腹空きますよね」

 私は力を込めて同意してから、ファニという不思議な同居人の厳しい監視の下でダイエットを行っており、夜六時以降の食事を禁止されていることや、間食にはアーモンドが一日に三粒だけ許されていることを話した。

 おばさんは驚いていたが、少し考える仕草をして

「それ、どこの雑誌を参考にしてるの? 私も同じダイエットしようかしら?効果はある?」

「さぁ……まだ始めて三日目ですから、なんとも」

 正直に答えた。私には体重計を使う習慣がない。適度な太り方の人なら少しは変化が現れるのかもしれないが、私ほど太っているとたった三日のダイエットでは服のサイズも変わらないし、よく効果が現れるという顎のラインどころか顎も首も完全に埋もれている。変化があるのかどうかわからなかった。

「じゃあ、効果があったら教えてね。私も同じダイエットしてみるから」

 おばさんはそう言って人好きの良さそうな笑顔を見せた。そのとき、カメラのシャッター音が響いた。音の方を見ると、ファニが楽しそうにカメラを構えてファインダーを覗いていた。

「あらやだ! 撮ったの?」

「はい。とても素敵な笑顔をしていらしたので」

 ファニが曇りのない返事をすると、おばさんは頬をほんの少し紅く染めて照れ笑いした。

「嫌だわ。こんなおばちゃんの顔をいきなり撮ったらダメよ」

「いけませんでしたか? すみません」

 ファニは困ったようにそう言ったけど、おばさんは怒った様子ではなく、むしろ嬉しそうににこにこと笑っているだけだったので気にしてはいないのだろう。私に向かってファニが言った。

「そろそろ二時間が経ちますよ。帰りましょうか」

 そう言われたのでおばさんとの別れを名残惜しく思いながらも挨拶をして公園を後にした。おばさんと話をしていたおかげか、後半は意外と短く感じた二時間だった。それでも、ファニを追いかけ、おばさんのペースに合わせて歩いていたので、いつもより足が重い。

 帰ってシャワーを浴び、部屋に戻ってだらしなく足を投げ出して座っている私を見てファニがカバンから箱を取り出した。前に飲んだリンゴの紅茶と同じような大きさだが、今度は緑色と黄色で彩られたデザインの箱だった。

「いいものを買ってきましたよ」

 そう言って差し出されたコップの中には緑茶のような色をした液体が入っていた。一口飲んでみると甘酸っぱく、頭まですっきりするような清々しい香りが鼻をくすぐる。

「ハーブティーです。疲れが取れますよ」

 これもお茶の一つとして飲んでいいものらしい。その気遣いに感謝しながら、惜しむように少しずつハーブティーを飲み干した。体の、特に気になっていた足の疲れがなくなり、軽くなる。急に眠気に襲われた私はそのまま布団に潜り込み、眠りについた。

 ぐっすり眠ったせいか、翌朝もすっきりと目覚めることが出来た私は、ファニが用意した軽い朝食を食べて歩きに行った。今回はファニも一緒に歩いてくれるらしい。それが何だか嬉しかった。

「明日は仕事が休みなの。だから、ファニがよければファニのお仕事に付き合うよ」

「もちろんいいですよ。では、その後に何も予定がなければ食材を買いに行きませんか?」

 私は頷いた。

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