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人魚姫の恋  作者: 春菜
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 翌朝は普段目覚ましに起こされる時間より一時間早く起こされた。

「朝食を食べたら出ましょう」

 そう言って差し出されたジャム入りのヨーグルトを寝惚けた頭で喉に流し込み、這うように辿り着いた鏡の前で眉とアイラインを書いて、口紅をつけた。そして最後にジャージに着替えた。

 ファニはその間何も言わず、座って待っていた。昨夜の恐ろしさが嘘のようににこやかで優しい。だが、その見かけに騙されてはいけない。私は気を引き締めた。

 家の近くに大きな公園がある。グラウンドに沿って整えられた芝生の周りにウォーキングロードが整備されていて、朝や夕方はジョギングする人やウォーキングに勤しむ人、犬の散歩に来ている人などで賑わっている。

「最初はゆっくりでもいいので朝は一時間、夜は二時間歩きます。慣れてきたら朝は二周、夜は三周に変えて、徐々に増やしていくつもりです」

 私は公園を見渡した。足下に書いてある数字は人の足に踏まれて消えかかっているが、目を凝らして見る限り、一周で一キロ以上あるらしい。昨日の徒歩十五分のスーパーに行くのでさえつらかったのに、それを毎日一時間やらなければならないという。想像するだけで痩せそうだ。

「では、最初は私と一緒に歩きましょう。着いてきて下さい」

 ファニが歩き出す。ウォーキングというよりちょっとしたお散歩くらいのペースだ。

 私より少し前を歩くファニはすれ違う人や、自分たちを追い越していく人たちに気軽に挨拶をしている。相手も時々、挨拶を返してくれる。そんな感じで十分くらい歩いた。スピードをほんの少し落として私の横に並んだファニが言った。

「どうですか? どこか痛かったりしませんか?」

「大丈夫よ。このくらいなら出来そう」

「よかった。辛かったら言って下さいね」

 微笑むファニは朝の光を浴びているせいか、何だか眩しい。それから私たちは並んであれこれと話をしながら歩き続けた。

「ダイエットって今まで色々試してきたけど、こんなに本格的なのは初めてよ」

「今まではどんなダイエットをしてきたんですか?」

「食事制限と運動でしょ。あと、夕食をリンゴにするっていうのもやったし、朝食がトマトばかりの時もあった。テレビで見た運動はとりあえずみんな試したし、通販でサプリメントを買って飲んだりもしたけど、全然痩せなかったの」

「和樹さんに食事の量を減らして、カロリー控えめの物を作って欲しいって言えばよかったのに」

「そうなんだけどね、和樹にはそういうこと、あんまり言えなかったの」

 和樹の名前を口にすると昨日のことを思い出し、思わず泣きそうになった。悲しみや喪失感が波となって心に打ち寄せる。私は黙って俯いた。少しスピードが落ちたけれど、ファニは咎めることなく私に合わせて歩いてくれた。黙ったまま歩き続けて一時間が過ぎ、私たちは家に帰った。

 シャワーを済ませ、ファニが用意してくれた昨日の残りの味噌汁とサラダの朝食を食べて、しっかりとメイクを済ませると仕事に行くため家を出た。

 私がいない間もファニが出入りできるように合鍵を渡しておこうと思ったが、

「いえ、私は家にいませんから」

 と断られてしまった。昼間は街中を歩き回って仕事をするらしい。それが終わったら私が帰ってくるまで待っていると言われた。駅前まで見送ってもらい、凡その帰宅時間を告げて別れた。

 改札を通って駅のホームへ向かう。ファニから離れて周囲が知らない人ばかりになると急に胸が締め付けられて苦しくなった。このまま私の姿が消えてしまっても気が付く人はいない。会社は私が無断欠勤をしただけだと呆れるだろうが、困って心配されるようなことはないはずだ。目の前が真っ暗になってくる。涙が溢れないように歯を食いしばった。何とか辿り着いたホームの隅に立って線路を見下ろしていると吸い込まれそうな気分になった。電車が来た瞬間、ここへ飛び込んでしまえば何もない世界に行ける。和樹のことや仕事のこと、何もかもを忘れて、苦しむ必要のない世界へ行ける。

 頭がボーッとして手に持っていた物を落としそうになり我に返った。ふと見るとさっきファニから受け取ったばかりのお弁当の包みが手の中で強く握られていた。その重さを改めて確かめているうちに電車がホームへ入ってきて私は人波と共にそれに乗り込んだ。

 会社の休憩中にファニから手渡されたお弁当の蓋を開くと、中身は見事に野菜だらけだった。大きめに切った野菜の煮物、細く切ったニンジンと入り卵を和えて味付けしたものなどが入っている。朝、私がメイクや着替えを済ませている間に時間をかけてお弁当を詰めていたファニの後ろ姿が思い出された。

 どれも少し硬めで歯ごたえがあるけれど、噛めば噛むほど味が出てくるし、柔らかかったとしても五十回は噛まなければならないのであまり気にならなかった。口の中に広がって胃と胸を満たす甘味や塩味はまるでファニの優しさが味になったみたいだった。

 そうやって休憩時間を丸々食事に使った私は小さなお弁当箱ですっかり満腹になり、午後の仕事に精を出した。量が少なくても満足したと思えるのは久しぶりだ。

 そういえば和樹と一緒の食事でこんな満たされた気分になったのは学生時代だけだった。雑誌に載っているお店を探して食べ歩き、学校のことや友達のことを語り合いながら二人で美味しい料理を楽しんだ。

 働き出してからは外に食事に行く機会が減ったのでいつも家で和樹が作った料理ばかりを食べていた。修行中なだけあって美味しいことに違いはないのだけれど、量が多くて、でも残したときに見せる悲しそうな顔を見たくなくて食べることに必死になっていた。必死になるばかりで会話は減り、食事を楽しめなかった。私は何故、和樹に正直な気持ちを曝け出せなくなったのだろう。出会った頃は何でも言い合える唯一の相手だったのに。

 考えつつ家に帰ると、玄関の前にファニが座っていた。カメラの画面を覗き込んで時々首を傾げ、ボタンを操作している。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 私が声をかけるとカメラを小脇に抱えてパッと立ち上がり、返事をした。鍵を開けて家の中に入る。ファニは真っ先にカメラをテントの中に置きに行き、部屋の中に戻ってくるなりキッチンに立った。

 手を洗って冷蔵庫から夕食に使う食材を取り出す。

「あれ、お肉?」

「ええ。鶏肉ですが。どうかしましたか?」

 ダイエット中に肉はご法度かと思っていた私は素っ頓狂な声を上げてしまった。

 ファニは平然と答えて、ささっと下味をつけた肉を、底に水が入ったシリコン製の容器に入れ、電子レンジに放り込んだ。何か手伝えることはないかと声をかけたら

「作るのは私がやります。後で片付けをお願いしますから今は休んでいて下さい」

 とキッチンから追い出されてしまった。野菜を切る軽快な音に耳を澄ませながらテレビをつける。夕方の教育番組で童話のアニメが放送されていた。

 今日の話は人魚姫だ。

 海で溺れていた王子を助け、その王子に一目惚れした人魚姫が魔女と取引して、声と引き換えに人間にしてもらう。そして、それと同時に恐ろしい警告を伝えられる。

「もしもその王子が他の女と結婚することがあれば、お前は海の泡となって消える」

 だが、王子は愛を伝える言葉を失った人魚姫ではなく、他の女を選んだ。失恋に嘆く人魚姫に姉妹たちは剣を差し出して言った。

「王子の血を流せば、あなたは人魚に戻れる」

 だけど人魚姫はその剣を使うことなく、海に身を投げて海の泡になることを選んだ。

「私みたいだな」

「何か言いましたか?」

 ファニが近くにいて驚いた。紙芝居調で進んでいく物語を見ていたらいつの間にか夕食が出来たらしい。視界を滲ませていた涙を隠れて拭い、料理の並んだテーブルについた。

 今日の夕食は蒸し鶏入りの野菜たっぷりのスープ。洋風だ。

「本当にお肉だ。いいの?」

「明日の朝まで食事がありませんから、夜は肉や魚も食べられますよ」

 そう言ったファニは本当に天使のようだった。

 よく噛むように、というだけあってスープの具は多い。しかも野菜は中まで火が通っているのに少し硬い。鶏肉も塩気がたっぷり効いていて食感は違うがハムのようだ。

 ファニも食事の時間のようで、ベランダに出て例のタバコを吸っている。あんな匂いなら室内で吸ってもいいのに、と思ったけれど、フィルターを吸っている間、ずっと空を眺めているので、もしかしたら月の女神と話をしているのかもしれない。だとしたら邪魔しない方がいいだろう。

 そんなファンタジーな空想を膨らませた私は小さな丼に入ったスープを啜りながら、その後姿を眺めた。

 食後は休んでいていいと言われたので素直に従った。三十分程休んだ後、使った食器を洗い、出かける準備をして、朝行った公園へ向かった。

 夜の公園は暗いのではないかと思っていたが、余計な心配だった。ウォーキングロードはしっかりと照らされていて足下がよく見える。

「では、夜は二時間です。ゆっくりでいいですからね」

 ファニが歩き出すスピードに合わせて私も着いていく。やっぱりファニはすれ違う人全員に挨拶をする。

 散歩に連れてこられた犬にも頭を低くして声をかけている。犬はそれに応えるようにファニを見つめた。

 天使は動物とも話が出来るのだろうか?ああして話しかけているところを見ると出来るんだろうな。

「ねぇ、その犬は何て言ってるの?」

 私が聞くと、ファニが振り向いて教えてくれた。

「今日は天気がよかったけど、明日は雨かもしれないんだそうです。近所の猫が顔が痒いと言っていたから」

 私は頷いた。さっきテレビでちらりと見た天気予報では明日は曇りだった。雨が降っても不思議ではない。ファニが先に行く犬と飼主に手を振って、私の横に着いて歩き始めた。

「あのね」

「ん? どうかしましたか?」

「さっき、テレビ見てた?」

「テレビ? ああ、人魚姫ですか?」

「うん。ファニは人魚姫がどうして王子を殺せなかったか、考えたことある?」

 言ってしまってから、馬鹿な質問だと思った。人魚姫は王子を愛しているから殺せなかったんだ。そのくらい、子供にだってわかる。

 だけど私には違っていた。人魚姫にとって王子のいなくなった世界に生きる価値などなかったのだ。王子がいるから世界は輝き、彼が存在することによってのみ心が救われる。彼が世界にいてくれればそれだけで人魚姫の世界は光り輝き続ける。自分の手で殺して、その光を失ってまで暗闇の世界に生き残る必要はない。自分が死ぬことよりも価値の無い世界で行き続ける方がずっと恐ろしいのだから。

 俯く私にファニは言った。

「どうしてだと思ったんですか?」

 いつもの甘い声、優しい口調。だけど目はとても真面目で、私がおかしなことを言ったとは少しも思っていないのが見て取れた。

「ううん。いいの。どうしてかなって思っただけ」

 私が首を振り、口を噤むと、ファニが独り言のように呟いた。

「ただ、伝えればよかったんです」

「え?」

「人魚姫は声を失いましたが、心の言葉まで失ったわけじゃありません。気持ちさえあれば、王子のことが好きだと伝える方法は他にもあったはずです」

「でも……それでも、言えないことってあるよ」

 私は誰にでもなく言い訳するように言った。その言葉が自分に対しての言い訳だとわかって、自分で自分が嫌になった。ファニが微笑んだ。

「あなたのダイエットは今度こそ、成功しますよ」

「どうしてそう思うの?」

「あなたは和樹さんを好きになって、愛して、彼の全てを受け入れようとした。和樹さんの存在は心だけで受け入れるにはあまりに大きく、体にまで現れてしまった。だったら、痩せられないのは当然です。だけど、今なら捨てられるはずです。もう与える人はいないのですから」

 もう和樹はいないんだ。私に愛を与えてくれることはない。その事実を口の中で噛み砕いた瞬間、涙がどんどん溢れてきた。あんなに泣いたのに、まだ出てくる。

 和樹のために色々なことを我慢してきた。気を遣って、彼の嫌がることはしないように暮らしていた。大好きだという気持ちだけで何でもしてあげようと思えた。それなのにどうして別れなくちゃいけなかったんだろう。ずっと一緒にいて彼を支えてきた私より他の女を選んで去っていくなんて酷すぎる。どんなに頑張ってもこんな結末しか迎えられないというのなら私はもう誰とも恋はしたくない。

 スピードを緩め、足を止めようとした私の背中をファニが力強く押して歩いた。泣きながら歩く太った女と痩せて背の高い少年はとても目立つに違いない。すれ違う人の視線を感じ、何度も歯を食いしばるけれど涙が止まらない。

「……かっこ悪いね」

 私が言うと

「理由があるときは泣いていいんですよ。後で笑えるのなら、ね」

 ファニはそう言ってアイラインとマスカラを吸って灰色に染まった涙を拭った。

 後は二時間が過ぎるまで泣き通しだった。二時間が過ぎて、顔を洗い、ベンチに座ろうと足を伸ばすと体が軽くなっていることに気付いた。

「涙ってダイエット効果もあるのかな」

「さぁ……聞いたことありません」

 ファニは空いているベンチに私を案内し、並んで座った。ジャージ姿の女性が話しかけてきた。歳は私の母親と同じくらいか、もう少し若いかもしれない。

「あなた、どうかしたの? 具合でも悪かった?」

「いえ、何でもないです。大丈夫です」

 泣きながら歩いていた私のことが気になって声をかけてくれたらしい。

 私が答えてメイクの崩れた顔を見せまいとして俯いてしまうと、女性は小さく頷いて、手に持っていた新しいペットボトルを差し出した。

「何があったか知らないけど、元気出してね」

「ご親切に、ありがとうございます」

 近くの自動販売機で買ってきたであろうスポーツドリンクの冷たさに心がじんわりと温まった。私はお茶と水だけしか飲んではいけないと決められているので、ファニに飲んでもらおうとしたが、

「せっかくのご厚意をそんなつまらない理由で無碍にしたくありません。今だけですよ」

 そう言って返されてしまった。

 蓋を開けて口をつけた瞬間、涙と汗で水分を失った体は貪欲にそれを吸収していった。一息つく間もなく飲み続けて気が付くとペットボトルの中身はほぼ空になっており、私は大きく深呼吸をした。

「さぁ、全部飲んでしまって帰りましょう。明日も早いですよ」

 ファニの言葉に促されて残った僅かな中身を飲み干し、ペットボトルの蓋を閉めてゴミ箱へ投げ入れた。

 軽い音を立ててゴミ箱の中に転がったボトルに向かって、さっきの女性の顔を思い出しながら両手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 ひとりごちて、先に歩いていたファニの後を追いかけた。

 家に帰ってシャワーを浴び、水の音しかしない空間で一人になると和樹のことが頭に浮かんだ。だが、感情が麻痺したように悲しみや寂しさを感じなくなっていた。洗面台の鏡の前に並んでいた、和樹が使っていた歯ブラシや、プレゼントされたけど使わなくなっていたハンドクリームなんかを手当たり次第ゴミ箱に放り込んだ。

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