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人魚姫の恋  作者: 春菜
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 外は暗くなっていて、月と街灯が明るく夜道を照らしている。ファニはうっとりするような目で月を見上げると、にっこりと微笑んだ。

「ファニは月が好きなの?」

「ええ。私は月の女神に仕える天使ですから」

 そう言われて、私は自然と納得した。こんな醜い女に優しい理由も、微笑みの温かさも、天使なら頷ける。詐欺師だと言われても納得できるけれど。そう思いつつ私は大袈裟に笑った。

 もしこれが冗談だったとき、真面目に取ってしまった自分が居た堪れないからだ。

「天使? 何それ? 羽根も生えてないし、頭の上に輪っかもないし、日本人みたいな顔してるのに天使なの?」

「羽根が生えているのは神に近いところでお仕事をなさる階級の高い方だけですよ。輪がついているのは力のある印です。神か、神より直接仕事を賜る名誉を受けた者にだけ現れます。それに、天使を生業とするのに民族や人種は関係ありませんよ。私たちは神界という国の住民ですから」

 ファニは慣れた様子でペラペラと説明した。

「なるほどね。じゃあ、魔法が使えるの?」

「いいえ、まさか! 私は魔法使いではなく、ただの天使ですよ」

 まるでありえないことを言われたかのように心底驚いた顔をしてファニはそう言ったのだが、私には『ただの天使』と『魔法使い』の違いがわからなかった。ファンタジーなどの物語によく出てくる、不思議な力を使って人々の願いを叶えるという点では大差ない。でも、この様子だとファニは天使には魔法のような力はないのが当然だと思っているのがわかった。

「じゃあ、天使って何するの?」

「私は神界から人の幸せを集めるために人界へ派遣されて来たんです。派遣元は神査管理局というところですが、私自身の主は月の女神、アルセレノス様という方ですよ」

「へぇー。その人、きっと美人なんだろうね」

「とてもお美しい方ですよ。自由奔放な方で、同僚を困らせてばかりいますが」

「美人だから何をしても許されるのね」

 私がため息をつきながら言うとファニは首を横に振った。

「いいえ。それだけではありません。アルセレノス様は誰よりも長く神界にいらっしゃる、とてもお力のある方なのです。神として優秀なら見た目や多少のわがままは問題になりません」

「長く……って、その人何歳なの?」

「本人は忘れたとおっしゃっていますが、多分人界の時間では四十億歳くらいですね」

「……そうなんだ。すごいね」

 呆気に取られた。絵画のヴィーナスのような若々しくて美しい人を想像していたのに、四十億歳と聞かされると……腰の曲がったシワシワのお婆さんを想像してしまう。いや、私の想像しているお婆さんでも八十歳や、九十歳くらいなものだ。四十億の足下にも、もしかしたら爪先にすら及ばない。

 そんなことを考えているうちにスーパーに到着した。

「疲れたぁ! 足が痛いよ」

「じゃあ少し休憩しましょう。はい、お水」

「あれ? 今日まではジュースもいいんじゃないの?」

「いいですよ。じゃあ、それを一度返して下さい」

 私は渡されたばかりの水のボトルをファニに返した。二人で入口の自動ドアの傍にあるベンチに腰掛けると、ファニはカバンからコップと漫画本サイズの紙の箱を出した。箱には赤い色で曲線がいくつも描かれており、読めない文字が書かれている。箱の中身は茶色の紙袋に入った粒が大きめの白い粉だった。箱を揺すって粉をコップに入れる。そこにボトルの水を注ぐと透明な水はたちまち色が変わり、茶色になった。

「紅茶です。甘いですよ」

 そう言われて差し出されたそれはリンゴの香りがする甘酸っぱい紅茶だった。

「美味しい」

「そうですか? よかったです」

 ほんのり甘い紅茶を飲む私をファニは食事のときと同じように嬉しそうに眺めていた。私は聞いた。

「これ、どこで売ってるの?」

「神界のお店です。この紅茶は人界では扱っていない限定品なんですよ。私たちは人界のお金を持たないので、神界で買い物をするんです」

 その話を聞いて、雲の上の遥か高く、天国と呼ばれるその場所にスーパーマーケットのようなところがあるのを想像した。ちょっと行ってみたい気がする。

「ファニって他にどんなもの持ってるの?」

「それと似た物なら粉のオレンジジュースがありますよ。後はニコの手入れ道具と着替えと、フィルターです」

「フィルター?」

 ファニは頷いてカバンの中から手の平サイズの紙の箱を取り出した。

 見かけはタバコの箱のようだが、見たことのないデザインだ。紫色の模様の上に紅茶の箱と同じような日本語ではない文字のようなものが描かれている。

 まだ新品の箱の封を切って一本取り出し、ズボンのポケットに入っていたプラスチック製の安物のライターで火をつけた。ライターはよくコンビニやレストランのレジなんかで売っているような物だ。ファニが口に銜えて一口吸ってみせると辺りは穏やかな花の香りに包まれた。これはラベンダーだろうか。

「一本、いかがですか?」

 私はタバコは吸わないので、一瞬、渋ったが、心休まる香りに興味を惹かれたので一本だけ貰ってみることにした。ファニが火をつけてくれる。私が恐る恐る吸い込むと、その味にタバコのような刺々しいイメージは一切ない。それどころか自然溢れる山奥に行って胸いっぱいに深呼吸をしたときのような清々しさが広がった。これがタバコだと言われたら、皆がどんなに高くてもやめられないほど中毒になる気持ちがわかる気がする。

「何、これ……」

「私の食事です。天使は人間が食べるようなものは口にしません。清浄な空気が私たち天使の食事なんですよ」

「じゃあフィルターって、空気を綺麗にするための物?」

「これは生活の中で不純物の混ざった空気を濾過して吸うための物ですが、濃縮された空気を圧縮して売っている物もありますよ」

「へぇー……空気の何を食べるの?」

「何でしょう……敢えて言うなら生き物の気ですね。自然の中で生成された空気には生き物の気が入っていて、生き物の気は神の気と同じ力を持っているんです。それを食べて栄養にしているんですよ。」

「そうなんだ。木みたいだね」

「そうですね」

 ファニは呟いて、味わうようにもう一口吸った。不思議なことに灰は落ちない。ただ先端が赤く燃え、煙がゆらりと漂うと、その長さがほんの少し短くなっているだけだ。

 ある程度の長さになるまで吸って普通のタバコと同じように先端を潰して火を消し、店の前にあった灰皿に投げ入れた。

「本当はその辺に捨てても大丈夫なんですけど、最近はマナーが厳しいから」

 と苦笑するファニ。本来は残った部分は放っておけば土に返るし、昆虫や鳥の餌にもなるという。普段は細かく千切って地面にばら撒き、パン屑のようにスズメやハトの餌にしているらしい。

 だが、見た目がタバコと同じなだけに人の目が多い場所ではなるべく気をつけているという。

 灰皿の中に溜められた水の中、他の煙草の吸殻が不恰好に膨れている中でゆっくりとほぐれて溶けていくフィルターの残骸を眺めながら、タバコとは本当に違うものなんだなぁ、と私は感心し、ファニに続いてスーパーの中に足を踏み入れた。

 私がカゴを乗せたカートを押して、ファニがそのカゴの中に野菜や果物などを入れる。味噌や醤油といった調味料を選んで、最後にローストアーモンドを一袋入れて

「一人分ですから、このくらいでいいでしょう」

 そう言ってレジに並んだ。ファニの分は入れていないらしい。少し待ってもらってついでに日用品も購入した。会計を済ませたときお菓子やジュースなどがない分、普段よりずっと安く済んだことに驚いた。

 野菜が入った重い方の袋はファニが持ち、私はティッシュなどの嵩張るけど軽い荷物を手に帰路についた。

 帰る途中、不意にお腹が空腹を訴える唸り声を上げた。そういえば六時頃に夕食としてフレンチトーストを食べたきり、何も食べていない。さっき食べたばかりだというのに激しく自己主張の声を上げる音は誤魔化しようのないくらい辺りに響き渡った。

「お腹すいちゃった」

 照れ隠しにそう言うと、ファニはクスクス笑って

「帰ったら夜食を作って差し上げます。頑張って歩いて下さいね」

 そう言って私の背中を押した。

 家からスーパーまでの往復ですっかり疲れてしまった私は水を飲みながらリビングに横たわり、買ってきたものを冷蔵庫に収納するファニの姿を見ていた。

「さて、作りましょう。もう少し待って下さいね」

 そう言うなり、冷蔵庫に入れたばかりの野菜を手に、何やら料理をし始めた。手伝おうと思ってファニの背後に立ったが、家のキッチンは狭い。ファニほど細い人が二人なら余裕もあるだろうが、私のように幅がある人間が並ぶとかえって邪魔になりそうだ。

 この家で暮らし始めた頃、和樹と一緒にキッチンに立って、肘や肩がぶつかっては顔を見合わせて笑い合ったことを思い出した。太り始めてからは邪魔にならないようにずっと後ろから見ているだけになったが、食後に使い終わった食器を洗うくらいなら嫌な顔もされなかったので皿を洗ったり、調理器具の片付けをしていた。ついこの前まで当たり前のように過ごしていた日常はもう訪れないのだと思うと涙が滲んできた。私が物思いに耽っているうちに、完成したようだ。

「炊けたご飯の残りがありましたから、味噌汁と焼きおにぎりにしました」

 適当に切った野菜がたっぷり入った具沢山の味噌汁。醤油の焦げた香ばしい匂いが食欲をそそる。人間の食べ物は食べないという割に料理上手だ。

 床から這うようにして起き上がり、テーブルにつくと、ファニが言った。

「明日から、六時以降は食事を禁止します。水とお茶だけで我慢して下さい。それから、今日から食事は一口につき五十回以上噛むようにして下さい」

 甘い声で和やかに恐ろしいことを言われ、一瞬耳を疑った。

「そんな……お腹が空いて眠れなくなっちゃう」

「どうしても空腹に耐えられないときは、アーモンドを一日につき三粒まで許可します。ただし、一粒食べたら必ず二時間以上の間隔が空くようにしてくださいね」

 テーブルの上に置かれた四角い半透明の小さなプラスチックケースの中にアーモンドが三粒入っている。これが明日から私の命綱になるのだと思うと、いっそ拝みたい気分だった。

 そしてやっと許可を貰い、私は食事にありついた。

 焼きおにぎりの表面のパリパリとした食感を楽しみつつ咀嚼して、味噌汁と一緒に喉の奥へ流し込む。味噌汁の温かさが胃に沁みる。和樹のことを思って冷え切っていた心の底から温められて、ほぐされていくようだ。

 食べている間もファニは明日からの計画を話し続けた。

 朝は仕事に行く前に一時間ほどウォーキングをするらしい。そして仕事から帰って食事をした後、少し休憩してまた歩きに行く。食事はファニが用意した一日分を三回から、多くても五回に分けて食べる。仕事の日はファニが作った特製のお弁当だと言う。食べる量を減らすと言われなかったことにほっとしていると、突然、彼の目が鋭い光を宿した。

「一口につき五十回ですよ。それを飲み込むまで口に入れないで下さい」

「あ、はい。すみません」

 思わず謝ってしまった。冷蔵庫の整理をしている時もそうだったが、こういう顔をしたファニは怖い。普段は優しく、虫も殺せないような穏やかな顔をしているくせに突然、口調も声も厳しくなる。怒鳴ったり、暴力に訴えたりする訳ではないのにそれよりもずっと恐ろしい。

 口の中でペースト状になった食べ物を音を立てて飲み込みつつ様子を伺うと、ファニはもうすっかりいつもの顔に戻っていた。

 そうやっていつもなら十分ほどであっさり完食してしまうであろう量を見張りつきで一時間近くかけて食べた私はどっと疲れてもう何も食べたくない気分になってしまい、早いけれど眠ることにした。

 シャワーを浴び、布団を敷く。ファニはベランダのテントの中で自分の髪を梳かし、ニコという名のカメラの埃を取ったり、磨いたりしていた。私が電気を消そうとして立ち上がったことに気付くと、にっこり笑って手を振り、寝転がって見えなくなった。

 布団に入った時の習慣で携帯電話を確認する。和樹からのメールは来ていなかった。期待していた訳ではないけど、心の何処かで裏切られたような気分になった。恋人だった頃は他愛のないメールを送って思わず笑みが溢れるような話をしていた。喧嘩になって携帯を枕に投げつけて眠ったこともある。その時は気付けなかったけど怒れる相手がいるだけで幸せだったのだ。当たり前だけどもう彼からのメールも着信も来ない。そう思ったら手の中にある小さな機械を今すぐゴミ箱に投げ捨てたくなった。

「でも、捨てちゃうのは勿体無いし、可哀想だし」

 自分の口が放った言葉が即座に自分へ跳ね返ってきて泣きたくなった。それはただの言い訳だと否定する声が聞こえた。恋人に戻れなくてもまた仲良くメールが出来るようになりたい。それを期待しているだけなのに、強がってしまう。だからと言って彼に未練がましいメールを送る気にはなれなかった。

 気を取り直して布団を頭まで被る。一日で色々なことがあり過ぎて疲れていたようだ。すぐに眠りに就くことができた。

 それでも深夜、空腹で目が覚めてしまった私は寝ぼけた頭のままキッチンへ向かった。とりあえずコップ一杯の水を汲んで飲み、冷蔵庫を開けて中を覗く。空っぽの冷蔵庫の中を見てやっとダイエットしていることを思い出した。ダイエット中と言っても、カロリーの低い野菜くらいなら食べてもいいだろう。

 空腹は体が飢餓状態になってダイエットにはよくないと聞くし、と冷蔵庫からキャベツを取り出したところで

「どうかしましたか?」

 背後から急に声をかけられた私は心臓が止まりそうなくらい驚いて悲鳴も上げずに飛び上がった。

 振り向くとファニが立っていた。腕組みをして立っている姿は冷蔵庫のオレンジ色の光に照らされて、仁王像のようだ。

「お腹空いちゃったから何か食べようと思って……」

「もう日付が変わりましたから六時以降の食事は禁止です。朝食まで我慢して下さい」

「でも空腹で眠れないの。野菜くらいならいいでしょう?」

「いけません」

 話しながら立ち上がった私はそこで初めて仁王像の本当の顔を知った。

 薄暗がりに隠れていたファニの顔は声からでは想像できないほど恐ろしく、視線だけで人を殺せそうな眼光に、いつもの穏やかさなど微塵も感じさせない冷酷な笑みを浮かべていた。

 鬼の形相というのはこういうことなのかもしれない。

「どうしても我慢出来ないなら、アーモンドをどうぞ。口の中でよくすり潰して食べて下さいね」

 ファニの口調だけはいつもと同じように穏やかだった。それが逆に恐ろしく、迫力を増していた。大声で叱責された方が余程気が楽になる。

 幽霊よりも恐ろしいものに凄まれた私は腰が抜け、膝を震わせながら布団に駆け込み、枕元に置いたケースからアーモンドを取り出し、口に入れてゆっくり噛み砕きつつ布団の隙間からキッチンにいるファニの様子を窺った。

 ファニは大人しく従った私を見て、黙って冷蔵庫の扉を閉めると、足音もなくベランダに戻って行った。

 物音が消えた安心感から気が緩み、口の中の物を飲み込むとほぼ同時に眠りに落ちていった。

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