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人魚姫の恋  作者: 春菜
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 ファニが普段テント暮らしをしていると聞いた私は家に泊まりに来るように言った。

 一人暮らしの女性の家によく知りもしない男性を泊めるなんて非常識だと笑われるかもしれないが、何故かそう提案するのが当然と思えるほど私はファニを警戒していなかった。話を聞いてくれたせめてものお礼と、これからお世話になる彼に対しての礼儀のつもりだった。

 マンションのエレベーターを待つ間、住人と擦れ違う。太った私と痩せたファニの並んだ様子が面白いのか、背中に視線を感じる。さりげなく目を合わせて軽く会釈をすると相手も会釈を返す。その私の様子で住人に気付いたファニは無邪気な笑みと共に挨拶をしていた。

 部屋の前に着く頃になるとファニは落ち着かなさそうに辺りを見回していた。鍵を開けて扉を開き、中に入るように促す。

「お邪魔します」

 囁くように言って恐る恐る部屋に足を踏み入れるファニはまるで新居にやってきた猫のようだ。

 リビングの隅に荷物をまとめて置き、部屋中を落ち着かない様子でうろうろと動き回る。トイレの扉を開き、クローゼットの扉をちょこっと開けて中を覗き、洗面所、お風呂場にも同じことをした。漸くリビングに帰ってくると、そのまま部屋を横切ってベランダをガラス越しに覗いて見回した。

 私の家のベランダは広い。檻のように鉄製の棒が並んだ柵が取り付けられているので日当たりがよく、洗濯物がよく乾くし、花や野菜を育てるのに向いている。でも、すぐ枯らしてしまうので植物を育てたことはない。洗濯物もお風呂場に干すのでベランダはあまり活用されていない。

 ファニはそのベランダを指差して言った。

「ここの場所をお借りしてもいいですか?」

「いいけど、何するの?」

 と聞く間もなく、ファニはカバンの中からテントを取り出しベランダに広げた。

 キャンプ場などで見かけるものより小さな一人用と思しきテントで、ものの五分ほどで組み立てられた。その中に自分の荷物を入れ、自分も中に収まるとやっと落ち着いたようで、嬉しそうににこにこしている。

「そこで寝るの? 部屋の中じゃなくて?」

「はい。長くテント暮らしをしているので、これじゃないと落ち着かないんです」

 だからってわざわざベランダで寝なくても。と思ったが、本人がそこがいいと言っているのだから仕方ない。肩を竦めてお茶を淹れ、手招きすると、ファニはのそのそとテントから出てきてテーブルの前に座った。私より背の高い男が四つん這いでベランダから這って寄ってくるのは間抜けで思わず笑みの零れる風景だった。ファニはお茶を啜りながら言った。

「さて、これからのことを話しましょうか」

「これからのこと?」

「そう。ダイエットを始めるのでしょう?」

「ああ、はい」

 今思い出したかのように返事をしたが、忘れていた訳ではない。彼が本気かどうか計りかねていたのだ。

 彼は唐突に聞いた。

「明日死ぬとしたら、最後に食べたいものは何ですか?」

「は?」

 言っていることは究極だが、その爽やかな笑顔から察するに、明日殺しますと宣告された訳ではないようだ。

 私はしばらく考え、答えた。

「フレンチトースト」

 これは私の好物である。

 元々少食で、幼い頃から全くと言っていいほど食べ物を口にしなかった私は母の気遣いのおかげで何とか健康に育っていた。成長期に差し掛かった頃、危うく骨と皮になりかけて、学校でよく貧血を起こしては倒れていた。

 それを危険と判断した母が時々作ってくれていた料理がフレンチトーストだった。

 ただし、牛乳と卵を混ぜた液には砂糖がたっぷり、焼いたトーストの上には更に粉砂糖をまぶし、ジャムとアイスクリームとメイプルシロップをかけたハイカロリーな食べ物だ。栄養を度外視したそのメニューは月に何度か訪れる食欲のない日でも食卓に並べば自然と胃に収まった。

 自分で作るにはあまりに面倒なのと、胸焼けを起こす心配があるため大人になってからは食べていない。

 ファニにそれを説明すると、彼はふーんと頷いた。

「では、ダイエットは明日からにしてそれを最後の晩餐といたしましょう」

「え? 今から食べるの?」

「そうですよ。キッチンをお借りしますね」

 そう言ってファニは立ち上がった。私はあまり料理をしないけれど、一応パンも卵も牛乳も揃っている。ジャムやアイスもある。さすがにメイプルシロップはないが。

 キッチンで冷蔵庫から出した材料を並べる様子を後ろから見ていると、ファニに和樹の姿が重なった。胸が締め付けられるように痛む。

 彼は出来上がったトーストにスプーンで丸めたアイスを二つのせ、その上にたっぷりジャムをかけ、冷蔵庫に入っていた果物を飾り切りして盛り付け、篩った砂糖をまぶし、メイプルシロップの代わりにトーストと並行して作っていたカラメルソースを垂らした。

「職人技ね……」

 お店で注文したフレンチトーストでもここまで美味しそうなものは出てこないだろう。

 そのくらい素晴らしい出来栄えのフレンチトーストを私は大人しく食べた。母の味とは違うけれど、見た目を裏切らず、かなり美味しい。

 なかなか痩せられない人がダイエットは明日から、と言いたくなる気持ちがよくわかる。

 そのとき私はふと気付いた。用意されたのは一人分で、ファニは何も食べていない。テーブルの向こうから食べている私を嬉しそうに見ている。

「食べる?」

「いえ、お構いなく」

 あっさりと断られてしまい、気まずく頷いた私は残りを黙々と食べた。

「ごちそうさまでした」

「はい。では、お別れ会を始めたいと思います」

「え?」

 情けない声を出して首を傾げる私をキッチンへ連れていき、ゴミ袋を取り出させた。

 そして冷蔵庫を開いて、扉のポケットに並んでいたジュースのペットボトルを取り出した。

「明日からのダイエット期間中、飲み物は水かお茶のみ。この中身を流して捨ててしまって下さい。」

「え、ちょっと待って……」

「やって下さい」

 顔は笑っているが、ドスのきいた声と共に差し出されたペットボトルを見て、拒否権はないのだと悟った。蓋を開け、中身をドボドボと捨てる。勿体無いけれど、ぎゅっと目を閉じて仕方ないことだと自分に言い聞かせる。

「次に間食は禁止。菓子類は全部ここへ出してください」

「ゼロカロリーのやつも?」

「全部出して下さい」

 屈託のない晴れやかな笑顔が怖い。大事に食べようと思って買い置きしていたチョコレートやクッキー、フレンチトーストに使ったアイスクリームはもちろん、酒のつまみになりそうな塩辛いものや、低カロリーのゼリーまで提出させられた。

 唯一、難を逃れたのは無糖のヨーグルトだけだった。

「ジャムはいいの?」

「ヨーグルトを無糖のまま食べたければ捨ててもいいですよ」

 お許しが出たのでありがたく残しておくことにする。気が変わって捨てられないうちに冷蔵庫の奥へ仕舞いこんだ。

「インスタント食品と冷凍食品を出してください」

「パンにつけるクリームやパスタなどのソースは必要ありません」

「ラード? 使いませんよ。捨てて下さい」

 と、こんな調子で淡々と追い立てられて家中の食べ物を捨てた。菓子類以外の買い置きはしないので、米もパンも殆ど残っていなかった。一度心を鬼にしてしまえば捨てるのは造作もない。ファニ自身もキッチンの棚をあちこち開いたり漁ったりして、和樹が買い溜めていた見たこともない強烈な匂いのハーブや使い道のよくわからない外国製の調味料などを取り出しては不思議そうな顔で眺めつつ捨てていた。結果、ゴミ袋三つが埋まり、冷蔵庫はほぼ空になった。ガランとした冷蔵庫の中を見てファニが呟いた。

「野菜がありませんね」

「うん……買い物は殆ど和樹がして、料理も和樹がしてたの。私だけの時は冷凍かインスタントで済ませてたから……」

 一人の時に作って食べても美味しくなくて、どうせ残して捨ててしまうことになるので、段々と自分で作らなくなったのだ。

「まだお店は開いてる時間ですよね?」

「ええ。まだ八時前だし、一晩中開いてるスーパーがあるから大丈夫」

「ではお買い物に行きましょう」

 ファニはそう言って一度テントに入り、

「マリさんと出かけてきますからニコは留守番をお願いしますね」

 と言って、カメラをテントの中に残し、荷物を抱えて出てきた。覗いて確かめたところ、テントの中には誰もいない。それどころかカバンの他に物がないので、多分ニコと呼んでいるカメラと話をしているんだろうと思った。カメラのことを相棒だと言っていたのでこれが習慣なのかもしれないが、明らかに独り言ではない言葉を物に対して言うのは違和感のある光景だった。でも、カメラをとても大切にしているのが声の雰囲気でわかる。違和感はあっても、嫌なものではなかった。

 すぐに出て行こうとするファニを待たせて手早く眉だけ書くと、財布を持ち、家を出た。スーパーまでは三十分ほどかかるが、ファニが歩いていくというので従った。

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