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私は和樹という男と学生時代から五年ほど付き合っていた。学生の頃の私はとても少食だったせいもあって痩せていたし、自分を客観視しても一般的に可愛い顔と呼べる方だったので男性からの人気もそこそこあった。
ただ、当時の私にとっては恋人という存在に重要な意味はなく、友達の話題に置いていかれないためのステータスとアクセサリー程度の価値だったので、その人気も自分の価値を高める一つでしかなかった。
初めて会ったのは彼氏の部屋に呼ばれ、彼氏の友達と一緒に飲んだ日のことだった。紹介された数人の彼氏の男友達はまず聞き慣れた決まり文句で適当に私のことを持て囃した後、普通に学校の話や、その頃話題だったゲームや漫画、人気があるアニメなどの話をして盛り上がっていた。
その時に紹介された彼氏の友達の中の一人が和樹だった。第一印象は爽やかに笑う人だな、という感じ。
最初はそんなに話すこともなかったし、その時の彼氏の方が顔が良くて経済力もあったので、そこを彼氏に選ぶ男の基準として考えていた私は恋愛感情なんて抱かなかった。でも和樹から携帯電話の番号とメールアドレスを交換しようと誘われて、時々暇なときにメールや電話をするようになった。学校やそれ以外の場所で何度か顔を合わせるようになったある日、和樹が冗談めいた告白をした。
「俺、君のこと好きになっちゃったかも!」
今までのキャラに似合わないくらい軽いノリで言われたその言葉は彼氏の前だったこともあり、その場にいた人たちと同じように笑い飛ばしたが、それからというもの和樹のことを意識し始めてしまい、メールや電話では普段の遊び慣れた雰囲気と違った一面を見せる和樹を知っていくうちに初めて『この人のものになりたい』と思った。
彼氏に内緒でデートに誘われて、二人きりで遊ぶこともあった。待ち合わせの場所に向かう時からドキドキして、時間より少し早く着いたらメイクを直し、髪型を整えて完璧にする。
時計を見ながら和樹を待つ。待ち遠しいと思いながらも、長く待っていたと思わせて気を使わせないように何でもない顔を装いながら待っていた。
和樹が現れたときは脳内で幸せが詰まった爆弾が爆発したかと思うほど満ち足りた気分になり、自然と笑顔になる。手を繋ぐとそれだけで飛び上がりそうなくらい嬉しかった。
今まで感じたことのない初めての感情に戸惑いながらも、これが本当の恋というものなのか、と感動した。新しい恋、それも初恋にも等しい心からの恋に目覚めた私は迷わずその時付き合っていた恋人に別れを告げた。
そして改めて告白してくれた和樹と付き合い始めた。彼と友人として付き合っていた時は遊び慣れていて浮ついたイメージがあったけれど、恋人になってみると実は真面目で、素直な人だとわかった。一緒にいる時間は最高に楽しくて、黙っていても傍にいるだけで心が休まる。しかも、それまでに付き合った恋人の誰よりも好みが同じで、気が合った。
一生を添い遂げるなら彼しかいないと思える程、私は和樹に夢中になっていった。
学校を卒業して、夢だった料理人になるためにレストランで修行中の和樹と普通の会社員になった私。お互いに結婚するつもりで約束をして、半同棲生活を送っていた。
仕事で怒られた日も、ミスをして落ち込んでいた日も家に帰ると和樹が待っていてくれる。美味しい料理を二人で食べながら、一日の話をして心休まる時間を過ごすことが出来る。和樹と一緒にいれば上手く行かなくて辛いことも、悩んで苦しいこともいつの間にか忘れて何もかもが順調で幸せだった。
仕事が忙しいときに毎日残業で夜遅く帰ってくる私を彼は出来立ての夕食と共に迎えてくれた。早く帰れる日は二人で一緒にキッチンに立って夕食の準備をした。でも和樹は流石にプロを目指しているだけあって手際がいい。私が下手に手を出すと邪魔になってしまうので、使い終わった道具の片付けや、これから使う食器とテーブルの支度をしたりする。それが終わると、料理をしている和樹の後姿をうっとりと眺めた。いつも彼が作ってくれる料理はとても美味しくて、少し量が多かった。
だけど、せっかく彼が素材を吟味して、わざわざ遠くのお店まで足を運んで買って来た調味料を使って作ってくれたのだと説明された料理を残す気にはなれず、吐きそうになりながら必死で詰め込んだ。私の皿に残った料理を見たときに見せる和樹の寂しそうな顔を見たくなくて頑張った。
努力のかいあって小さかった胃袋は段々と拡張され、見た目には多くても和樹が用意する一人前くらいは全部食べられるようになった。
その結果、私はどんどん太っていった。最初は下着が窮屈になり、それまで普通に着ていた服のファスナーやボタンが閉まらなくなった。お腹に脂肪がついてくるとボディラインの出る服がみっともなくて似合わなくなってくる。すると、少し大きめのサイズのシャツやワンピースを着ることが多くなった。
そんな私を目の前にして彼の口数は減っていった。新しい服を買ってきたからと着て見せても褒められず、髪型を変えてもそれに気付いたような発言さえない。
悔しくて悲しくて様々なダイエットに挑戦してみたけれど効果が出ず、一度ついてしまった脂肪はなかなか私から離れていかなかった。が、代わりに彼の心が離れていった。
彼は職場のレストランでホール係をやっていた女の子と浮気をし、ついに妊娠までさせてしまった。
「責任を取って彼女と結婚することにしたんだ。悪いんだけど別れてくれないか?」
だったら私を太らせた責任も取ってよ。そう言いたいところだったが、頭の隅で仕方ないような気もしていた。随分前から和樹の心が離れていっている感触があった。何故離れて行くのか、自覚もあったが聞き分けよく頷くことはできず、取り乱して引き止めることもできない。黙ってコーヒーの入ったカップを見つめる私を置いて、彼は席を立ち、何も言わずに店を出て行った。私に残されたのは長い時間をかけて体中にたっぷりつけられた贅肉と、砂糖の入っていない熱々のカフェオレだけだった。
誰も来ない公園のベンチで男は長い話を静かに聞いてくれた。背中を擦る手は休めず、相槌以外に口を挟まず、ただ優しく微笑みながら聞いてくれた。
「和樹とずっと一緒にいたいから、嫌われたくないから頑張ったの。食べるのも、仕事も、お洒落も、一生懸命やってたのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。何が悪かったんだろう?」
話しながらボロボロと泣き続ける私の背中を男の手がずっと擦ってくれていた。
まるで気持ち悪くて吐きそうなとき、誰かがそうしてくれるように。
おかげで私の心に溜まっていた悲しみがすっかり吐き出されてすっきりした。
「人を愛することはそれだけで価値があると思います。あなたはいい恋をしましたね」
いい恋だったかな。酷い結末だったけど、一緒にいる間は幸せだった。これからはそれを糧に生きていかなくてはならない。もう和樹は戻ってきてくれないのだから。再び突きつけられた現実が胸を刺すように痛めつけたが、それを無視した。
「聞いてくれて、ありがとう」
礼を言って、男がカバンから出して差し出したペットボトルの水を貰って飲んだ。水は信じられないくらい甘くて清々しい透明な味がした。
「お役に立てて光栄です。これで幸せになれそうですか?」
「ううん……。和樹がいなくなったら私は幸せになれないの。だからこれから一生、他の誰のことも好きになる気はないし、幸せになるつもりはないよ」
私の答えに男は困ったような顔をして首を傾げた。
「じゃあ、どうすればあなたは幸せになれますか?」
「和樹が浮気相手を諦めて私のところに戻ってきてくれたら……でも、こんなに太って醜い私をもう一度好きになんてなってくれないよ」
「あなたは美しいですよ。人を好きだと泣けるのは心が美しい証拠です。太っている見た目が気になるなら痩せればいい」
よくも簡単に言ってくれる。私は男を睨んだ。
何も努力してこなかった訳じゃない。テレビで紹介されていた運動を何度もして、雑誌で読んだ食事制限もやって、仕事の休憩中にしていた間食もやめた。効果があるかどうか怪しいサプリメントだって飲んだ。
それでも体重は少しも減らなかった。体重計に乗ってそれを確かめたとき、あまりのショックで眩暈がした。まとめ買いしたサプリメントを捨て、ありったけのお酒をがぶ飲みした。翌朝は二日酔いで起きられず、会社を遅刻するほどだった。
そう説明すると男はふふふと笑って、すっと手を差し出し、先程の話を聞いていなかったかのように気軽に言った。
「僕はファニと言います。こっちは相棒のニコ」
男はそう名乗りつつ、首から下げた一眼レフカメラを少し持ち上げてみせた。
「ニコ? カメラに名前を付けてるの?」
「私が付けたんじゃありませんよ。ニコと相棒になったとき、そう紹介されたので私もそう呼んでいるだけです」
私は気のない相槌を打つ。幼い女の子がお気に入りの人形に名前を付けるのは可愛らしいが、男が物に名前を付けて呼ぶのはあまり馴染みがない。私が黙って顔を顰めていると、ファニと名乗った男は笑って片手を差し出した。
「お手伝いしますから、一緒に頑張りましょう」
嫌味のない素直な言葉に反論する気も起きなくて、唇を噛んだ。渋る私の目をキラキラした目で見つめるファニに根負けした私は半ば諦め気味にその手を取った。
「私はマリ。無駄だと思うけど……まぁ、よろしく」
それが私の新しい生活の始まりになった。