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人魚姫の恋  作者: 春菜
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 ファニが戻ってきてからずっと停滞していた体重に変動が見られた。今までのような平行に近い下がり方ではない。グラフは目に見えて斜め下に向かっていた。

「あと三週間を切りましたね」

 ファニが言った。和樹の結婚式の案内状は部屋の中で一番目に付くところに貼られている。その下に重なって貼り付けられたカレンダーの日付には一目でその日がわかる赤い印が付いていて、その横に目標体重の数字が貼られている。そこは部屋の中で一番目を背けたい部分と化していた。

 結婚式に着ていく服は既に用意してある。ボディラインが強調されるデザインのドレスだ。露出する二の腕や胸元、足は勿論のこと、腹のたるみや背中のだぶつき、ヒップの上がり方までもが服の上からでもはっきりとわかるだろう。

 しかもサイズは恐ろしいことに昔の私が着ていた服と同じサイズとなっている。

 これを選んだのはマキコさんだった。

 休日、滅多に行くことのないような若者向けのファッションビルでファニと一緒に結婚式に着ていくドレスを選びに来ていた。

「結婚式にはどういう服を着て行くんですか?」

「えっと、調べた感じだと色は落ち着いたブルーとか、ピンクとかの派手じゃない色。白は絶対にダメ。真っ黒もダメ。露出は控えて、丈は膝下くらいがいいみたい」

「そうなんですか。色々条件があって大変なんですね」

「結婚式は儀式だからね。儀式に決まりはあるものだよ」

 そう答えながら私はエスカレーターに乗った。ファニも私のすぐ後ろに乗った。

 和服は最初からやめようと決めていた。買うと高いし、レンタルしたとしても着付や髪型が面倒だ。

 太ってサイズが合わなくなってしまい、最近までずっとクローゼットの隅に眠っていたスーツもあったが、礼服として買った遊び心のない服より、せっかく痩せて綺麗になれたのだから女性らしい可愛いドレスが着たかった。それにダイエット生活で食費や化粧品代が浮いた分、頑張った自分にご褒美をあげてもいいだろう。

 ファニを連れ回して店の中を歩き回っていると、たまたまマキコさんに会った。

「マリちゃん、お疲れ。彼氏?」

「え? 違いますよ」

 即座に私が答えるとマキコさんはその顔に少しつまらなさそうな表情を浮かべ、首を傾げた。

 ファニにマキコさんを紹介する。と言っても家で食事の準備を手伝うようになったとき既にマキコさんのことは話してあるので、実際の人物と名前を一致させるだけだった。

「ファニと申します。マリさんがお世話になっております」

 礼儀正しく挨拶をして頭を下げたファニに釣られてマキコさんも深々と頭を下げた。

 天使だ、彼氏ではないが同居人だ、と言ってもなかなか信じて貰えそうにないので、面倒な説明は省き、単純に友達だと紹介しておく。マキコさんも深く追求する気はなく、それで納得してくれた。

 追求する気がないというよりはファニの顔に見惚れていただけだった様子だが。

 それから私は今日、服を買いに来た理由について説明した。元恋人に浮気されて捨てられたこと、それをきっかけにダイエットを始めたこと、元恋人の結婚式の招待状が届いたので見返すために結婚式へ行くことなどを簡潔にまとめてファニの助けも借りながら一気に話し終えると、黙って聞いていたマキコさんは納得したように何度も頷き、小悪魔の笑みを浮かべた。

「だったら、私がいいお店を教えてあげるよ」

 そう言って手招きしてフロアを移動する。エスカレーターでどんどん上がっていくマキコさんの後ろを私たちは顔を見合わせつつ着いていく。

 私たちがそれまでいたのは所謂フォーマルウェアを扱っているフロアで、スーツやドレス、和服なんかが豊富に取り揃えられていた。ただドレスの種類は比較的大人しいものが多く、イメージとしては子供の入学式や卒業式に母親が着ていくような質素で控えめなデザインばかりだった。派手さを求めてはいないが、昔の恋人を見返しに行くには何かが少し足りなかった。

 ところが、マキコさんが連れてきてくれた場所にはそれとは真逆の服ばかりが並んでいる。

 フロアの入り口に置かれたマネキンが着ているのが背中が腰まで開いたドレスだったり、胸元と下半身だけが隠れ、腹部や背中は透けて見えるようなデザインのドレスだったりするのを見て私は思わずファニの腕にしがみついた。憧れたことはあっても、今まで一度も着たことがないジャンルだ。

 マキコさんは平然としている。それどころか初めて踏み込んだ領域に怯えている私を見てケラケラと笑った。

「その男を見返すんでしょう? だったら今までのマリちゃんからは想像も出来ないような姿にならないと印象に残らないよ」

「でも、結婚式でこんな服着られないですよ」

 私が一番近くのマネキンが着ているドレスを指差すと、マキコさんは困ったように頷いて

「確かにこれは結婚式には向いてないね。もうちょっと奥に行こう」

 と言って空いていた方の腕を引っ張った。ファニは目を輝かせ、楽しそうに微笑んでしがみつく私の腕を引っ張り、歩き始めた。逃げ場はない。諦めた私は抵抗する気も失せ、肩を落としつつ二人の真ん中を歩いた。

 フロアの中は下着にも見えるような服だったり、スリットからスカートの中が丸見えになりそうな服が並んでいて、マキコさんが冗談でそれを指差して私に勧めるのを首を振って必死でお断りした。

「マリちゃんならこれも似合いそうだよね」

「似合わないですよ! 結婚式の服を買うんですよ。忘れないで下さいね。結婚式ですよ!」

「冗談だよ。そんなに震えなくてもちゃんと選んであげるから心配しないで」

「そうですよ。心配はいりません。和樹さんが浮気したことを後悔するくらい素敵な服を選びましょうね」

 ファニとマキコさんは始終楽しそうだった。ラックからドレスを取り出し、あれこれと私に合わせて眺めた。服を選ぶのが楽しいというより、その度に慌てふためく私を見ているのが楽しいようで、結婚式にはもちろん、普段でもとても着る機会のないようなデザインのものばかりを選んでは私に見せていた。

 それでも本命候補となるドレスもきちんと探してくれていたようで、最終的に私の前に出されたのは三つのドレスだった。

 ファニが夕闇の空のような青を気に入っていたため、候補のドレスは共通して色が青系に統一されており、無地で、丈は膝下より少し長いくらいの物が揃えられていた。

 まず一つ目はかわいらしいフリルが付いているホルターネックで背中が大きめに開いたドレス、二つ目は細い肩紐で吊り下げる形の胸元が開いたドレス、そして三つ目はノースリーブで裾にはレース、胸元にリボンの形の飾りが飾られたタイトなドレス。

 試着は出来ないと思った。どれも今の私には合わないサイズの物になっていたからだ。お腹や腕が引き締まっていない今の状態では試着した姿が参考にならないだろう。

 だから見た目で選ぶしかなかった。色はどれも気に入った。神殿のバルコニーから見下ろした雲海と同じ深い青だ。

 ただ、結婚式となるとあまり露出度が高いのは相応しくない。上にボレロかショールを羽織ってしまえば背中は問題ないかもしれないが、胸元が開いているのを隠すのは難しいだろう。二つ目のドレスを候補から外した。

 フリルが付いたドレスは可愛らしすぎて、私に似合わない気がした。可愛いドレスを着たいと思ってはいたが、いざ実物を目の前にすると年齢に相応しい格好を選びたくなった。何となく誘導されている感も否めないが、ここは文句を言ったり、変な勘繰りはせずにリボン付きのタイトドレスを選んだほうがいい。

 そう判断した私は最後に見せられたドレスを購入した。

 合わせてショールとカバンも買い、マキコさんと別れた帰り道でファニが言った。

「あのドレスが入るように頑張りましょうね」

 私は頷いた。帰ってすぐにドレスを試着してみたが脇のファスナーは恐ろしいほど上がらない。息を止めて体を出来るだけ伸ばして上げているだけにファスナーが歪んで噛み合わないだけだと言い訳をする余地もない。無理矢理着てみたものの、腰を軽く曲げたり、体を捻ったりしただけで生地が破けそうなほどきつかった。

 しかし同時にかなり驚いた。生地に多少の伸縮性があるとはいえ、今の状態で着られるとは思っていなかったのだ。

 体重は確かに減っているのだと改めて実感した。普段着ている服もファニと出会う前に着ていたものは緩くて着られなくなってきていた。ウエストが大きくて、ずり下がる。物によってはそのまま脱げてしまうこともあった。会社の制服も最大サイズから一気に二サイズ小さな物に交換して貰っていた。見栄を張ってサイズダウンしたものの、まだバストやヒップがきつくてギリギリ着られている状態だ。

 それが無理矢理とはいえこんなドレスまで着られるようになっている。私はそのことをファニに報告して、手を叩き喜んだ。

 中弛みしていた気持ちを再び奮い立たせ、私は一層の努力を重ねた。

 朝のウォーキングをジョギングに格上げした。タクミさんがまだ足が遅い私のペースに合わせて走ってくれるようになった。息が上がってくると笑って励ましてくれる。

「あともう少しで一周回れますから、頑張りましょう!」

 スピードを落として歩こうとする足がその言葉で元気付けられ、走りきることが出来る。息切れして何も言えずベンチに座り込んだ私の代わりにファニがお礼を言った。

「いつもありがとうございます」

「いつも料理を貰っていたので、せめてものお礼ですよ」

 タクミさんが言った。ファニはその言葉に首を傾げる。そういえばファニにタクミさんのことを説明していなかった。何となく照れ臭くてきっかけを上手く作れず、言い出しにくかったのだ。

 タクミさんに作り過ぎた料理を食べてもらっていたことを説明した。ファニは嬉しそうに頷いて、笑った。

「そうですか。せっかく出来たお友達との関係を私が手出しして邪魔するのは野暮というものですね。すみませんでした」

「いや、邪魔してないよ!」

「だって、マリさんが料理を話題に親しくなろうとしているのに私が料理をしてしまっては話題が減りませんか?」

「減らないよ。今だってマキコさんに習ってるし、ジョギングも始めたから一緒に走れるし、ねぇ?」

 私は声が上ずっているのを感じながらタクミさんに同意を求めた。顔を真っ赤にして汗をかき、必死な私の様子に苦笑しながらタクミさんが頷いた。

「それに私の料理なんかよりファニの料理の方が何倍も美味しいんだよ! 本当だよ! タクミさん、食べに来て確かめてよ!」

「え? 家に行っていいんですか?」

 はたと我に返った。せっかく戻ってきてくれたファニの機嫌を損ねないようにと必死になっていたけど、今の私の発言は少々問題があったのではないだろうか。でも言ってしまった以上、引っ込みがつかないのでこのまま勢いに任せて乗り切ることにした。

「もちろん! 私の家で三人で得意料理を作って食事会しようよ!」

「いいですね! 楽しそうです。」

 タクミさんは言った。ファニもいい考えだと言ってくれた。私は自分がしてしまったとんでもない提案を覆すべくファニに聞いた。

「でも……食べ物は節制しないといけないから、食事会なんてダメよね?」

「夕食なら何を食べても構いませんよ。腹八分目と五十回だけ忘れなければ問題ありません」

 私の心の声を知ってか知らずか、ファニはニコニコ笑いながらあっさり許可してくれた。これで余計に後には引けなくなってしまった。

 タクミさんと連絡先を交換し、時間の都合が合いそうな日を連絡してもらう約束をして別れた。

「食事会、楽しみですね。メールが着たら私にも教えて下さいね」

「どうせメールなんかこないよ……」

「そうですか? 何故そう思うんですか?」

「女性の家にわざわざ来て食事するなんて面倒なだけだもん。ファニがいるから二人きりじゃないとはいえ、恋人みたいなことして勘違いされたら困るって思ってるよ」

「……マリさんにはそう見えるんですか?」

「え? それどういう意味?」

「さぁ……私に人の心は読めませんから、ご自分で確認した方がいいですよ」

 それからしつこく尋ねたが、結局ファニは何も教えてくれなかった。

 家に帰って、シャワーの前に腹筋と背筋を行った。夜だけでは効果が殆ど感じられないので朝もやるようになったのだ。夜はそれに腕立て伏せも追加することにした。ただ、朝と違って夜は仕事で疲れているし、ミツコさんも一緒なので夜は変わらずウォーキングを続けていたが、それでも歩く速度は自然と上がっていた。

「速くないですか?無理に私のペースに合わせなくてもいいんですよ」

「気にしないで。私ももう少しで昔の服が着られるの。負けていられないわ」

 鼻息も荒く張り合って歩くミツコさんに私とファニは思わず笑った。

 ミツコさんは久しぶりに会ったファニに感激して涙目になっていた。私を励まそうとして表に出さなかっただけでミツコさんもファニとの別れは寂しかったのだろう。三人で並んで歩きながら話をする。ファニがいなくなってからの私の落胆振りをミツコさんが身振り手振りをつけて大袈裟に話し、私は照れてそれを制止しようと騒ぎ立て、ファニは黙って私とミツコさんのやり取りを眺めていた。

 その穏やかな顔を見ていると夜空の上でファニと同じ微笑みを浮かべて人界の様子を伺っているアルセレノスの姿が思い浮かぶ。想像すると何となく顔を上げて話をしてしまう自分がいた。夜空は今日も濃藍色の天井に小さく光る星を散りばめて、黄色い月を包んで守るように灰色の雲を浮かべている。

 いつしかファニと一緒に月を眺める癖が付いてしまった。密かにアルセレノスに会いたいと願って扉を開けたり、月に向かって祈ったりしていたけれど、開いた扉が神殿に繋がることは二度となかった。少々がっかりしたけれど、あんな不思議な体験が一生に一度あっただけでも十分だ。それに気まぐれなアルセレノスが私をからかって遊んでいるのかと思うと、それはそれで諦めがついた。

 結局、タクミさんからのメールはすぐに届いた。仕事が終わる大まかな時間と休日の日付などがみっちり書き込まれていて、真面目な性格が覗える。基本的に残業のない仕事ばかりしている私は一応、ファニに確認を取った後、正式に食事会の約束をした。

「これで後には引けないぞ」

 私が呟くとファニがキッチンから私に向かって手招きした。行ってみると、今日作る料理の材料がズラリと並べられていた。

「食事会の予行練習です。ここは二人が立つのでやっとの広さですから、マリさんとタクミさんでこちらを使っていただきます」

「でも、メインはファニの料理だよ? それを確かめるために来るのに……」

「先に作り置きをして、当日は火を使わない料理をテーブルで作りますからご心配なく。それよりマリさんは練習して下さい。その包丁の持ち方にはいつも肝が冷えます。それに使い終わった器具の処理も、キッチンを占領しすぎです。使ったらこまめに洗う、片付ける。人を誘っておきながら今の状態をお見せするのは恥ずかしいですよ!」

 久しぶりに聞いたファニのお説教に思わず背筋を正した。普段、私が手伝っていても何も口出ししなかったのに心の中ではそんな風に思っていたのか、と少々ショックだったが、練習しろと言われたということは練習次第で良くなるという意味に解釈し、早速食事の準備に取り掛かった。

 練習次第というよりは特訓次第と表現されそうなファニの教えに従って、何とか食べられるものが完成した。手際が悪かったおかげで食感はイマイチだが、味付けだけはファニがやってくれたので自分で作った物より味は美味しい。それ以来、毎日ファニの特訓が行われることになった。細かい部分はメモを取り、何度も繰り返して体に覚えさせる。適確に一人分を準備するファニのおかげで無駄を出すことなく作れるようになった。

 ファニが戻ってきてから作り過ぎのお裾分けがなくなったタクミさんは少し寂しそうだったが、それも食事会当日までのことだった。

 家にやってきたタクミさんは手土産の紅茶を差し出した。そこから何を作るか相談して一緒にキッチンに立ち、談笑しながら料理を作った。次から次へと飛び出す話題に二人で笑ったり、語り合ったりしながら作業を進めた。そしてタクミさんは時々テーブルで黙々と作業しているファニの手元を覗き込んではその手際の良さとセンスに感心したようにため息をついていた。食卓に勢揃いした料理を食べては褒め、食べては褒めを繰り返し、後は満腹になるまで黙って食べた。ファニは食事には手をつけず、私たちをニコで何枚も撮影して、ご機嫌な様子で同席していた。

「マリさんの料理は家庭的で美味しいですけど、ファニさんの料理はプロみたいですね!」

 タクミさんは食後の紅茶を飲みながら最後にそんな感想を呟いて、私に押し付けられるままタッパーに残り物をたっぷり詰めて持って帰った。

 ベランダでフィルターを燻らせるファニから今日の料理について合格点を貰い、食事会が無事に終わったことを祝して紅茶で乾杯した。

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