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人魚姫の恋  作者: 春菜
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 そう思うと無性に誰かに会いたくなった。顔を見て話したいと思った。気付くと外は夕暮れ。早く食事にしなければ夕食抜きになってしまう。焦りつつも今日はマキコさんに習っためんつゆの作り方を参考にしょうゆベースのつゆを作り、肉じゃがの練習で残ったしらたきを使ってラーメンを作ってみた。刻んだ野菜を盛り付けると冷やし中華のようだ。簡単に食事を済ませて、さっさと使った食器を洗い、ジャージに着替えて外へと飛び出した。

 一秒でも早く着きたくて走って向かった。息を切らせて公園に着くと、私は出会った人たちに片っ端から挨拶をした。笑顔で挨拶をすると、相手は驚きながらも優しく挨拶を返してくれる。中には私のことを知っている人もいて、世間話をしながら歩いた。

 何周か歩いた頃、ミツコさんが遠くから私を見つけて手を振っているのが見えた。私は話していた人たちに挨拶をして足早にそこへ向かって行った。

「こんばんは。今日は早いわね」

「はい。いてもたってもいられなくなっちゃって」

「そう? 何かあったの?」

「うーん、そうですね……。結局ミツコさんの言っていたことが正しかった、ような気がします」

 私が言うと、ミツコさんは訳がわからないというように首を傾げた。ファニのことを話したのは随分前の話だ。何度も繰り返し思い出しては考えている私と違って、何を言ったかなど覚えていないだろう。それでも私が長い間悩んでいたことが結論に達したということはわかってくれたらしい。

「よくわからないけど、いいことがあったのね。よかったわね」

 そう言って笑ってくれた。私はお礼を言って微笑み返す。タイミングは今しかないという予感がして、私は思い切って言ってみた。

「ありがとうございます。ミツコさんにはいつも話を聞いて貰って、相談にも乗ってくれて……ミツコさんがいたからウォーキングも続けられたし、ファニがいなくなってもこうやって笑えるまでになったんです。感謝してます」

「あら、なぁに? 改まって。それなら私だってあなたにお礼を言わなくちゃいけないわ」

「え? 私にですか?」

 首を傾げる私にミツコさんは頷いた。

「ええ。私もあなたと話すのが楽しみでここへ来てるの。あなたがいなかったら毎日歩きに来なかったでしょうね」

「それはお互い様ですよ」

「うん。でも、よく知りもしない私のことを信じて頼ってくれるから自分に自信がついたし、楽しいことがあるとあなたに話さなくちゃって思って、話せることをたくさん見つけられるように普段から気をつけていたら自然とよく笑うようになった。それに、毎日若い子と一緒にいるでしょう? 並ぶと比べられて私の方が年上なのはわかってるんだけど、余計に老けて見られるんじゃないかが気になって、見た目にも気を使うようになったの。最近、綺麗になったねって主人に褒められたわ。それってとても嬉しいことなの。あなたのおかげよ」

「でも、それはミツコさんが頑張ったからですよ。私は何も……」

「それでもあなたと出会わなかったらそんなことはしなかったわ。あなたがきっかけをくれたのよ。」

 ミツコさんが私に向かって頭を下げた。私は戸惑いながらその気持ちを素直に受け取った。思わぬ贈り物を貰った気分だった。それは嫌な気分ではなかった。

 いつもの何倍もの距離をたっぷり歩いた帰り道、私はその気分を何度も噛み締めながら家へ向かった。胸がむず痒いような、恥ずかしいような温かく懐かしい気持ちだった。

「人の役に立つって素敵なことだよね、ファニ」

 思わず声に出して言ってみた。

「そうですね」

 不意にあの甘くて優しい声が聞こえてきたような気がして振り向いた。だけど、何処にもファニの姿はなかった。温かさで満たされていた心に冷たい小さな悲しみの渦が巻く。泣きたくなるくらい情けない気持ちがぐるぐると頭と心を掻き回している。

「……何やってるんだろう。私」

 プカリと浮かび上がって来た感情を振り払うように呟いた。俯いたら涙が出そうになって顔を上げた。

 暗くなった紺色の空に丸い月が浮かんでいた。黄色の柔らかい光を放って、流れてゆく灰色の雲の影を映し出している。真っ暗な夜空に一人でポツンと立っているように見えるのに、その姿は少しも寂しそうに見えない。寧ろ雲のベッドにくつろいでいるかのように美しく輝いて優雅に夜空を照らしている。

「ファニ、そこにいるの?」

 私がどんなに大きな声をかけても月までは声が届かない。届いたとしても返事なんてあるはずがない。

今まで神様なんて信じたことなかった。人間が平穏に生きるために不幸の責任をなすりつけたり、都合のいいときに話を聞いてもらったりするための偶像だと馬鹿にしていた。

 映画を見るように、物語を読むように、嘘だとわかっていても自分の知らない場所にはそんな世界があるのだと信じたフリをする。それと同じようにファニが月の女神の話をするのを、私は空想か物語の世界のような気分で聞いていた。

 ファニが天使だということは本当だと確信している。疑う要素がない。それなのに、その天使が仕える神様のことは信じていないなんて矛盾している。

 でも、今日だけは。今だけは神様の存在を信じてみたい。こんな都合のいい考えを神様が聞いたら怒るかも知れないけど、信じられない存在に縋っても叶えて欲しい願いがあった。自分の努力ではどうしようもない。神様だけが叶えることの出来るたった一つだけの願い。

 両手を胸の前で合わせて、目を閉じた。ファニの姿を思い描く。あの神様の名前は何だっただろう?

「ファニにもう一度会わせて下さい。さよならも言えずに別れるのは嫌です。神様、月の女神様、お願いですから、せめてファニにありがとうって言わせて下さい。一目会えるだけでもいいので、私に時間を下さい!」

 月に向かって大声で叫ぶ。きっと今の私を見た人からは気が狂ってる女だと思われるだろう。でも、構わない。私は周りを気にして、いい子のフリをして、我慢して何もしないのはもうやめることにしたのだから。

 だけど、どれだけ叫び続けても流れる雲に見え隠れする月は相変わらずそこに浮かんだままだった。ファニは何処にも現れない。脳内に誰ともわからない声が聞こえてくることもない。月から迎えの馬車が来ることさえなかった。

 もしかしたら、いつものようにファニが玄関の前に座って待っているかもしれない。扉の前に座って、ニコをお腹に抱えて居眠りをしているかも。寝惚け眼のファニに「おかえりなさい」と言われることを期待して急ぎ足でアパートに帰ったけれど、無機質な蛍光灯に照らされた廊下に人の気配はなく、他の天使の姿も見当たらない。

「どうしてダメなの? ファニに会いたいよ」

 がっくりと肩を落とした私は小さな声で呟いた。涙が滲む目を擦り、廊下の柵からもう一度月を見上げ、夜空に何も変化がないのを見つつ玄関の扉を開いた。

 開かれた扉の向こうから淡い明かりが漏れて、まだ玄関に入っていない私の足下を照らしている。おかしい。家を出る前はまだ明るかったので電気を点けていなかったはずだ。点けたとしても家を出る時には消して行くのに。例え部屋の明かりを消し忘れていたとしたって部屋から扉までは少し距離がある。玄関の外まで光は届かないはずだ。

 頭の中が疑問でいっぱいになりながら足下に落としていた視線をゆっくり持ち上げると、目の前には信じられない光景が広がっていた。

 淡い黄色に光る壁。明るく広い部屋の真ん中に真っ白な天蓋つきのふかふかしたカウチソファ。洋風のバルコニーへと続くガラスの扉は開かれていて、レースの軽いカーテンがふわふわと風に揺れている。ソファを挟んでバルコニーと反対側のスペースに長いテーブルと椅子が数脚あり、テーブルの上にはワインのような色の液体が注がれた飲みかけのグラスと色とりどりの花束を大量に活けた花瓶が飾られていた。

 不意に部屋の隅から浅黒い肌色をした長身の男性が姿を現した。背負うように大きな羽根が生やしており、ギリシャ風の白い布を巻き付けたような服を身に纏っている。これは誰かに説明されなくても間違えようがない。この人は天使だ。

「……誰だ?」

 天使は言った。眉間に皺を寄せ、険しい顔をして扉を開けたまま呆然としている私を制止するように手を突き出している。

「マリ、です」

「そうか。どうやってここへ来たのだ? ここは神の住まう処。生ある人間の立ち入って良い場所ではない」

 そんなこと聞かれたって私にもよくわからない。何と答えようか迷っているとガラス扉の向こうにあるバルコニーから歌うような響きの高く澄んだ女性の声が聞こえた。

「いいのよ。エラ。私が呼んだの」

「……ここは神殿ですよ。勝手に神殿へ生ある人間を招いていただいては困ります」

「そうだったかしら?それなら次からは気を付けるわね」

 全く悪びれた様子の無い声。多分反省なんてしていないだろう。そして傍らのエラと呼ばれた天使もそれをわかった上で意見したのだろう。視線を泳がせて肩を落とし、小さくため息をついた。扉の向こう側から声の主が姿を現した。細い体に淡い金色のワンピースをゆったりと着こなし、音もなく滑るように歩いて銀色の長い髪を揺らす。バルコニーから入ってきた瞬間は銀色だった髪は部屋の中に入ると周りの壁から発せられる黄色い光を受けて金色に変わった。無邪気な顔は絵画のように美しく、思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの魅力だ。彼女はカウチソファに腰掛けて、眩しい笑顔で微笑んだ。

「こんばんは。いらっしゃい」

「こ、こんばんは……」

 話しかけられた私はやっと呼吸を思い出し、大きく息を吸い込んだ。フィルターを吸った時のような空気が肺の奥まで流れ込む。噎せそうな程、濃い空気だ。

「あなたがマリね。ファニから聞いているわ。私はアルセレノスよ」

 女性はそう名乗って、傍らにいるエラと呼ばれた天使に目配せした。エラは礼儀正しく頭を下げると、背筋を正して部屋から出て行った。アルセレノスに手招きされた私は明るい部屋に足を踏み入れ、恐る恐る二、三歩歩み寄った。

「アルセレノス……って、月の女神の? ファニが仕えてるって言ってた神様?」

 私がしどろもどろしながら聞くと、アルセレノスは静かに頷いた。髪がさらりと顔にかかって、その隙間から覗く瞳が無邪気に微笑んでいた。

 そこでやっと今の状況が見えてきた。言葉には表せないが、漠然とここが今までいた世界とは違うことを感じる。そう感じたことに理由はない。アルセレノスの美しさも、光る壁の明るさも今まで私が見てきた世界ではあり得ないことだ。エラも私が来るべきところじゃないと言っていた。ここを神殿とも呼んでいた。

 でも、ここに違う世界だと思った理由はそんなことじゃない。敢えて言うならば肌に触れる空気の感触が違うのだ。浮力の無い透明な水の中にいるみたいにほんの少し重くて濃い空気。ここがファニの言っていた神界なら、私はどうやってここへ来たのだろう?

 そのときファニの声が頭の中に響いた。

「あなたが望むなら、その扉はあなたの願いを叶えるでしょう」

 私がどうしても会いたいと願ったから自分の部屋に続く扉が神殿へと繋がったのか。でも私が会いたかったのはアルセレノスじゃない。この部屋の中にファニの姿は見当たらないのに、どうしてこんなところに来てしまったのだろう? もしかしたらあの扉が私の願いを勘違いしてしまったのか?

 私は初めて目の前にした神様と向き合った。とても四十億歳などとは思えない美貌だ。テレビや雑誌には美人と呼ばれる部類の人間が大勢いるが、その誰とも共通項はないし、そもそも人間とは比較にならない美しさを身に纏っている。例えて言うなら丹精籠めて磨き上げられた宝石だ。天使が集めてきた幸福だけを口にして、神としての力を崇められ傅かれることは、長い年月を掛けて集まったものが形になり、数々の技術と研究の成果をその身に受けて輝くのに似ている。花や星空を無条件で美しいと感じてしまうように存在そのものがただひたすらに美しいのだ。

 アルセレノスは上等な絹のような耳触りのいい声で言った。

「いつもあなたを見ていたわ」

「見ていたって、私を?」

「ええ。ここからは何でも見えるの」

 アルセレノスはそう言って開かれたガラスの扉を見た。私も釣られて外の景色に視線を移した。

 バルコニーを包む外は真っ暗な夜だった。上空には雲ひとつ無い晴天が広がっており、都会では見られない満天の星空が明々と光り輝いている。星明りを見回した私の目に空と地面の境界線が入った。地平線に似ているが、それは一直線ではない。海のように波打って、ずっと遠くで途切れている。飛行機に乗った時、窓の外に広がる真っ白な雲の上を飛んでいる景色に似ている。いや、似ているのではない。バルコニーの下に本物の雲海が広がっているのだ。気付いた一瞬、恐怖に膝が震えた。

「この神殿は空を飛んでいるのですか?」

「違うわ。空の上に神殿があるんじゃなくて、神殿の下に空があるのよ」

「……それって、同じことですよね?」

「ふふふ。あなたはそう思う?」

 アルセレノスは無邪気に笑った。見た目はまるっきり大人なのに、その仕草や表情は生まれて間もない子供と同じ。悪意という物に触れたことがない純真無垢な雰囲気が彼女の美しさに対する嫉妬や羨望という感情を浄化させる。私の警戒心と戸惑いも消し、彼女に笑って欲しい一心で私は心を開く。

「私、今まで神様が本当にいるなんて思ってもいませんでした」

「神様は信じた時に信じた人のところにいるものよ。あなたが信じていなければ私は神様ではないの。だとしたらこの部屋に神様はいないし、私があなたを神様だと信じればばあなたも神様になれるのよ。そうなったら神様はこの部屋に二人いることになるわね」

「なぞなぞみたい。難しくてわからなくなっちゃった」

 困った私をアルセレノスは面白がった。その笑顔を見た私の頭の中はまるで火山が噴火したかのように喜びが滾々と湧き出してくる。アルセレノスが望むならこの場で動物の真似事でも、丸裸になって踊ることも躊躇わないだろう。喜びの前に恥や常識などという概念は何処かへ吹き飛んでしまった。

 神様の前というのはこんなにも気楽なのか。そんなことを考えているとアルセレノスは私の目をじっと覗きこんだ。

「人間は不思議ね。夜の帳が下りると心が素直になるみたい。そして私に祈るのよ。明日はきっと幸せでありますように、って。だから私はそれを叶えるの。彼らを使ってね」

 細いガラス細工のように儚い手がすっと私の背後を指差した。振り向くとファニを伴って部屋に戻ってきたエラの姿があった。ファニはアルセレノスに微笑みかけて跪き、深々と頭を下げた。そしてまた立ち上がって呆然としている私に向き直った。

「お元気でしたか?」

 ファニの優しいとろけるような声。ついこの前まで毎日聞いていたはずなのに、もう何年も聞いていなかったかのように懐かしさが込み上げた。私は頷いた。

「黙っていなくなっちゃうなんて酷いよ」

「すみません。二度と会えないという訳ではないので、いいかと思ったのですが……不安にさせてしまいましたね」

「私、頑張ってたよ。ファニがいなくなっても、ちゃんとダイエット続けてたよ」

「知っていますよ。ここから全部見ていましたから」

 子供のように駄々をこねてみても、ファニはほんの少し眉を寄せて微笑むだけで何も言わなかった。離れていても私を思ってくれていた人がいる。会いたかった人が目の前にいるのに、意気地なしの私は目を合わせることさえ出来ずに拗ねていた。ファニの手が泣くのを我慢して顔を歪めている私の頬に触れた。

 温かい感触に目を閉じるとふつふつと込み上げてきた悲しみや怒りが溶けるように和らいでいくのを感じた。ずっと感じていた喪失感も、ファニに言いたかったことも全てが涙と共に流れて落ちた。泣きじゃくる私をファニは困ったように微笑んで見ていた。久しぶりの優しさに甘えたくて「このままずっと泣いていられたら」と思った自分の馬鹿さ加減に泣きながら笑みが零れた。

 泣き続けたりしなくてもファニはいつだって優しいのに。

「女性を泣かせるなんて罪な人ね」

 からかうようにアルセレノスが囁く。ファニは苦笑して言った。

「では、罪滅ぼしをしなければいけませんね」

 ファニが差し出した手に手を重ねた。引力があるみたいに吸い寄せられた手は一つになったみたいに自然に繋がれた。

「帰りましょう」

 そう言ってバルコニーへと向かうファニに手を引かれて外に出た。吹き抜ける清々しい風が涙で濡れた私の頬を冷やしていく。見渡す限り広がる雲海と明るい無数の星が視界いっぱいに広がっている。広い世界の中で私の存在は夜空を照らす星一つにも満たない。そのちっぽけな私の声を聞いてくれる人がいる。心配してくれる人がいる。いつかファニが例えていた一粒の砂糖の一つ一つなら味もしないほど小さな一粒の砂糖だけど、味わうことが出来れば一匙より価値のある甘味に変わる。

 それに気付けなかった私は確かに不幸だったのだろう。ファニから出された課題がまた一つ解けた。

 エラにエスコートされてアルセレノスも外に出てきた。夜空の下で再び銀色に戻ったアルセレノスの髪と金色の服が風で優しく揺れて木々のざわめきのような衣擦れの音がする。エラが歩く度、背中に背負った大きな白い羽が花に留まった蝶のようにゆっくりと羽ばたく。雲の上に浮かぶ神殿のバルコニーで見るそれはとても幻想的で御伽の世界にいるみたいだ。

 ファニがバルコニーの扉を閉めた。ニコを首にかけ、カバンを背負ってから頭を下げる。

「では、行ってきます」

「気をつけて行ってらっしゃい」

 ひらひらと手を振るアルセレノスに見送られて、ファニと共にテラスの扉を開いた。

 扉越しに見えていた明るい神殿の代わりに暗くなった私の部屋が現れた。促されるままに足を踏み出し、玄関に立つと背後で扉が閉まる音がした。馴染み深い、存在するかどうかもわからないほど軽い空気が体を包むと、一気に体中の緊張が解けた私は膝を着いた。リラックスしていたはずなのに体中が軋んで、濃い空気をたっぷり吸い込んだにも関わらず息が苦しかった。

「神界って……疲れるところだね……」

「普通、神殿には生きている方が出入りしないので不純物の少ない神の気が満ちているんです。生きている方は普段は薄まった気の中で生活しているので、その影響を受けやすいんですよ。神査管理局はもっと人界に近いですけどね」

 神の気とか、神査管理局とか言われても今起こった出来事を整理するだけで精一杯の私はただ頷くことしか出来なかった。息を整えて、閉まった扉を見つめる。

「綺麗な人だったね。アルセレノス様」

「ええ。神界でも数えるほどの美しさですよ。少々気まぐれで勝手なのが玉に瑕ですけどね」

 そう言ってファニは笑った。私も笑った。

 それからファニは私の半身浴の準備に取り掛かり、冷たいハーブティーを作った。そしてベランダに出て小さなテントを設営した。そこに荷物とニコを入れて髪を梳き、寝る支度をする。

 その間に私は半身浴を済ませ、体重と運動量をノートに書き込んで、ファニと一緒にストレッチをした。

 布団に入る前、ベランダまで這って行ってテントの中を覗き込んだ。

「どうかしましたか?」

 髪を解いたファニが上半身を起こして首を傾げる。

「もう黙っていなくならないでね」

 私が真剣な顔をして言うと困ったように頭を掻き、いなくならないと約束してくれた。何もかも元通りだ。それを確かめた私はやっと安心して眠りに就いた。

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