14
次の朝は久しぶりに目覚まし時計の音で目が覚めた。ずっとウォーキングのために一時間早くセットしていたのだが、それが鳴るよりも数分早くファニに起こされていたのでしばらく役に立っていなかった。聞き慣れない音に驚いて目が覚めたものの、最初は何が鳴っているのかわからず、部屋を見回してしまった。
起きて、周りを探る。部屋は電気がついておらず、早朝の薄暗さを保ったままだ。朝御飯を作っている匂いも、私の寝惚けた顔を覗き込んで微笑むファニの姿もない。
「ファニ……?」
呼んでみても返事がない。ふとベランダに目をやると、昨夜まであったテントがなくなっている。
慌てて駆け寄ってガラス扉に張り付く。ぽっかりと空いたスペースは確かにファニがいたことを示しているのに、そこにあったはずのテントやカバン、ニコとファニの姿もない。
「ファニ? 何処? ファニ! ファニってば!」
寝惚けた頭が一気に覚めて騒がしく足音を立てながら家中を探し回った。キッチンや風呂場、トイレ、クローゼットに押入れの中まで、人が入れそうなところは思い付く限り開けて探した。
そんなところに姿を隠して悪戯をする人ではない。探すのが無駄なのはわかっていたけれど信じたくなかった。恐る恐る扉を開けると昨日と同じ風景が静かに佇んでいる。その中にファニだけがいないのを確かめる度に胸が締め付けられるように痛くて涙が溢れた。
昨日の夜のファニのショックは私が思っていたよりずっと深かったのだ。今までファニが積み重ねてくれた努力と惜しみない協力に対して私のしてしまったことは最低な裏切り行為であり、決して許されることではなかったのだ。申し訳ないと骨の髄まで反省しながらも、心の奥ではファニなら受け入れて許してくれると甘えていた部分があった。
ファニにはそれがわかったのか。だから、黙っていなくなってしまったのか。そう思えば思うほど、昨日の自分が許せなかった。どうして誘惑に負けてしまったんだろう。断り切れない話じゃなかったのに。帰ってから誤魔化そうなどとは考えずに、真っ先に頭を下げればよかった。心の底から反省していることをちゃんと伝えられるまで話し合えばよかった。ファニは怒っているだろうか。私に呆れただろうか。自分自身を心の中で何度も責めた。
ファニがいなくなった。それだけでまるで昨日とは別世界に来てしまったような気がした。世界中にたくさん人はいるはずなのに独りぼっちになってしまったみたいだ。早く立ち上がって、朝食を食べて、公園へ行って朝の日差しの中を歩いて、シャワーを浴びて、仕事にも行かなければと思うのに動けない。崩れ落ちたまま立ち上がれない。
いつもと同じ日常を送らなければならないことがこんなに苦痛だったなんて知らなかった。和樹がいなくなったあの時に苦痛の全てを悟ったつもりでいたのは思い上がりだった。一生分の悲しみをあの日、使い果たしたと思っていた。自分が浅はかだったと今更、こんなにも思い知っている。
恋人でも家族でもない。ただの同居人だった。だけど、一番辛い時に支えていてくれた掛け替えのない人だった。狭い世界で初めて心から好きになった人の存在に縋って生きていた私の殻を破って外に出してくれた。だから和樹を失っても今日まで生きていることができた。それなのに、こんな形で別れることになるなんて。さようならも言ってない。
「どうしていないの……ファニ、ここにいてよ……」
言いたいことはたくさんあった。頭の中に次から次へと言葉が浮かんでくる。自分を責める言葉だったり、後悔だったり、筋違いだと解ってはいるがファニを責める言葉もあった。その言葉のどれを選んでも時間は絶対に戻らない。ファニが再びここに現ることはない。拭いても拭いても涙が止まらない。ファニの名を呼びたいけれど口からは嗚咽しか出てこない。今の私はどんなみっともない姿を晒しているんだろう。でも、もうそれを取り繕う気持ちの余裕も残されてはいなかった。
涙が枯れて出なくなるほど散々泣いて、唇が乾き、口の中がカラカラになった。
「大丈夫、やっていける」
掠れた声で呟いた。悲劇の主人公になりきり、現実から目を逸らして逃げるのは簡単だ。でも、ここで逃げ出したらまたファニの期待を裏切ることになる。それだけは嫌だった。ファニが残してくれた思い出と一緒にいた時間があるから、独りでも生きていける。
「大丈夫。大丈夫」
小さな声で何度も呟いて自分を奮い立たせ、何とか立ち上がった。キッチンで水を一杯、一気に飲み干す。そろそろ着替えて家を出なければ出社の時間に間に合わない。洗面台の鏡の前に立って涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を洗った。腫れた瞼を水で冷やして、久しぶりに時間をかけて濃い化粧をした。アイラインもファンデーションも分厚く塗って、鏡の中の自分を別人に変えてしまった。化粧をすると顔が変わる。同時に他人には見せたくない自分の本心も隠れてしまう気がする。
最後に化粧の上から無理矢理笑顔を作って貼り付けた。適当に見繕った服を着て、歩いて駅に向かう。お弁当はないので、今日はコンビニでサラダでも買おうと心の中で唱えるように呟きながら歩く。自分を責める言葉が次から次へと頭の中に浮かんでくる。それを振り払うように「コンビニのサラダ」と呟き続けた。
駅に着いていつもと同じ時間の電車に乗り込み、たまたま空いていた席に腰を下ろしてノートを開く。朝の欄に何も食べなかったことを記入し、水を一杯飲んだと記した。
会社に着いて、制服に着替える。ロッカールームの鏡でメイクを直し、念入りに笑顔の練習をする。仕事中に何度かトイレに駆け込み、鏡で笑顔が剥がれていないか確認する。そうやって自分を保たなければ、剥がれた部分から灰になって消えてしまいそうだった。
仕事中、人と目を合わせるのが怖かった。化粧で隠した心の中が目を通じて相手に伝わってしまうかも知れない。同情されたら脆い部分が崩れてしまう。そうなったら立ち直れない。相手を見ているようで遠い目をして話す私を同僚たちは不気味に思ったのか、少し遠巻きにしていた。
その日の昼休みは会社近くのコンビニで野菜だけが入ったサラダとドレッシングを買った。自分の机に戻って食べていると、
「あれ、今日はお弁当じゃないんだね。買って来たの?」
そう声をかけてくる人がいた。名前はよく覚えてないけど、いつも食堂に行かず机で奥さんが作ったお弁当を食べてる人だ。テレビが好きで毎週やってるドラマを全部録画して休みの日に奥さんと子供と一緒に見るのが好きだって言ってた気がする。いかにも愛情が篭ってそうなお弁当を羨ましく思いつつ適当に曖昧な返事をして誤魔化した。
お弁当について深く聞かれると、また今朝の虚無感が甦ってきてギリギリのところで保っている平常心が崩壊してしまいそうだ。気まずい空気を感じたのか、幸運なことに誰も深く追求してこなかった。
今日、仕事でトラブルが起きたとしてもきっと私は対処できないだろう。どんなに些細なトラブルだったとしても、とても冷静になれる状態じゃない。ミスをしないように気を付けるだけで既に足が攣りそうになっている。
一日中、祈るような気持ちで過ごして退社時間になると逃げるように帰宅した。電車に乗って、ガラスに映る哀れな顔をした女と目が合う。一日中貼り付けていた笑顔がファンデーションと共に剥がれ落ち、もう口角を上げる力さえ残っていない。家に着いても玄関の前にファニはいなかった。いないことは予想していたけれど、心の片隅で期待していたせいなのか、その現実に酷く落ち込んだ。
買い物に行く気力はない。冷凍食品とレトルトは捨てて以来買っていないので、冷蔵庫に残っていた野菜を使わないことには夕食が作れない。簡単に炒め物と味噌汁を作ることにした。
久しぶりに開けた冷蔵庫の中は見やすいように整理されていた。密閉容器には付箋が貼り付けてあって、中身とそれを詰めたであろう日付が書き込まれている。ラップや袋にまで買った日付が書き込まれていた。半分に切られてラップに包まれたニンジンやタマネギ。買った時から半分に切ってあったキャベツは更に半分に切られ、半分はサラダ用に千切りにして密閉容器に入れてある。もう半分の塊は使った部分が削れたように減っていて袋に入って冷蔵庫に残っていた。調理済みの食材はレンジで蒸した鶏肉くらいで、薄い塩味が付いている。
目に付いた野菜を適当な大きさに切って熱したフライパンに投げ入れた。火加減なんて考えずに炒めていたら焦げてきて、慌てて火を切った。多少焦げた部分はあるけれど食べられない程じゃない。塩、胡椒をさっと振り掛け、醤油を垂らした。次に鍋を火にかけてお湯を沸かし、切り散らかして残った野菜を茹でる。ダシを入れて火を止め、味噌を溶かす。味見をしたら薄かったのでもう少し加えてみたら、味噌の味は消えてただのしょっぱいお湯になってしまった。
何故だろう。作り方はこれで会っているはずなのに。小学生の頃、母の見様見真似で作った時の方がよっぽどマシな味だった。
和樹が家に来る前は自分で料理していた。家に友達を招いて料理を振る舞ったこともあった。腕にはそれなりに自信がある方だった。焦げの付いたフライパンや、調理中に溢した水や調味料、使った食器でぐちゃぐちゃになったシンクを見て、綺麗に洗う気力も起きない自分にがっかりした。手を動かそうとしても、何から手をつけていいのか思いつかない。和樹を失って、ファニまで失ったら、今までの自分まで失ってしまったみたいだ。料理も掃除も出来なくなってしまった。
とりあえず片付けを後回しにして出来上がった料理を皿に移し、リビングのテーブルに並べた。一口食べた途端、すぐに箸を置いた。
「……美味しくない」
味も見た目も最悪だった。ファニの料理には遠く及ばない。ファニの料理はテレビや雑誌で見るように彩り鮮やかで、匂いもさることながら盛り付けからして食欲をそそる。何より食べた後にお腹の奥から全身が芯から温まってくる不思議な力があった。
いないと知っているのにベランダで紫煙を漂わせるファニの姿を探してしまう。虚ろな心で空っぽになったガラスの向こう側を見つめる。昨日まではテントの影と並んで月を見上げるファニの後姿があったのに。
料理にはほんの少し箸をつけただけでラップをして冷蔵庫に片付けた。お腹が空いたら水で満たして誤魔化そう。まだアーモンドも残っていたはずだ。空腹に耐えられる体にしてくれたファニに感謝した。
そう思いながら着替えを済ませて公園に行った。食べていないので休憩は必要なかった。片付けはさっきと変わらず気が進まなかったが、帰ってからやるのも面倒なので休憩の時間を使ってゆっくり片付けた。公園に着くとミツコさんが私の顔を見るなり、とても驚いた顔をした。
「どうしたの、その顔」
「え? 何処か変ですか?」
「ううん……ばっちり化粧してるところを見るのは久しぶりだと思っただけよ」
「ああ、そうですね」
「何かあったの? ファニは今日はお休みなの?」
感情の篭っていない返事をする私にミツコさんが聞いてきた。私は何と答えていいかわからず黙ったまま俯いた。まだ自分の中でファニがいなくなった事実を整理できていなかった。いない、と言ってしまえば悲しい現実を認めることになり、もう二度とファニに会えなくなるような気がして、口に出すのが憚られた。それに、ファニのことを言葉にして、再び朝の感情が甦り、このままみっともなく泣き出してしまうのは嫌だった。
唇を噛んで感情を堪えようとしている私を見たミツコさんは困ったように微笑んだ。
「いいわ。歩きましょうか?」
私が頷いて足を進めると、それ以上何も尋ねることなく黙ったまま一緒に歩いてくれた。
並んで歩く間、ミツコさんは時々私の表情を窺うだけで、無理に話題を探そうとしたり、自分の話をしなかったので、とても助かった。気の遣い方がとても素晴らしい、といつもの私ならお礼を言うところだけど、そんな余裕はない。ミツコさんもそれを感じていてくれたようで、気分を害した様子はなかった。
ウォーキングの時間が終わり、心配してくれるミツコさんに頭を下げてさよならを言った。家に帰ってお風呂にお湯を溜めた。入る前に化粧を落とし、鏡に映った素顔になった自分を目の当たりにするとあんまり情けない顔をしていたので笑いが出た。瞼が重い。口元が薄っすら微笑んだだけだったけど、今日になって初めて笑えた。
感情が一つ表に現れるとそのまま雪崩を起こしたように泣き出して、半身浴をしている間もずっと涙が溢れ続けた。ポトポトとお湯の中に涙が溶けていく。三十分が経ったことを知らせるタイマーの音が聞こえても俯いたまま動けなかった。動きたくなかったけど、お湯はどんどん冷えていく。これは夢じゃない。現実だ。だからここに居続けたって何も変わらない。寝て起きて明日が来れば仕事だってある。
何とか立ち上がって髪と体を洗いお風呂から出た。体重を測ってノートに書き込む。
今日も体重は減っていなかった。あんなに泣いたのに気分がすっきりしないし、心の疲れを癒してくれる優しい言葉も温かいハーブティーもない。
自分の顔を笑ったことでほんの少しだけ盛り上がった気持ちは再び萎んで元の無気力状態に戻ってしまった。ストレッチもそこそこに布団に入って眠りについた。
翌朝はちゃんと目覚まし時計の時間に起きて、朝食のヨーグルトをジャムと混ぜて喉の奥に流し込み、公園へ行って歩いた。ファニが突然いなくなったからって、ファニが教えてくれたことや、私がするべきこととして一生懸命考えて決めてくれたことまで失う気にはなれなかった。
これをやめたらファニといた時間は本当に無駄になってしまう。そうなれば一緒にいた時間まで意味がなくなってしまうと思って、ファニのおかげで習慣になった行動を続ける決心をした。




