10
和樹からの招待状が届いたのはそんな数々の変化に気付いた矢先の出来事だった。体の変化と気持ちの変化。信じられないことが続いていたのでポストの中の招待状を見たとき、これは実は夢なのではないかと疑った。目を開くと相変わらず恋人に振られた惨めな女が一人いるだけのような気がした。でもこれは現実だ。和樹に振られた時よりすんなりと事実を受け入れられた。部屋に入って、ファニが食事の準備をしている間にポケットから封筒を取り出す。
和樹の名前の隣に並んだ、見知らぬ女の名前。私から和樹を奪い、悲しみの底に突き落とした女の名前。
見つかった物と一緒に捨てきれず、心の奥底に封印していた暗い感情が時を経てぶつぶつとどす黒いものに変化しているのを感じる。その感情に再び蓋をして逃げるように二人の名前から目を逸らした。
「どうかしましたか?」
お盆に食事を載せたファニがキッチンから出てきて私の顔を見るなり首を傾げた。和樹とあの名前の女のことを思う時、どんな顔をしているんだろう。私は思わず招待状を隠した。
「うん……いや、なんでもないよ」
私には言えない。ファニにこの感情を悟られてはいけない。私が和樹のことを乗り越えるために頑張ってくれているのに、再び元の場所に戻ってしまいそうなことがわかったら心配するし、落胆するだろう。
ファニをがっかりさせたくなかった。それでも自分一人でこの出来事を抱え込むにはあまりにも重く、唯一気軽に話せる相手であるミツコさんに相談することにした。
「へぇ~。別れた恋人から結婚式の招待状がねぇ」
「そうなんですよ。何か頭にきちゃって。普通は気を遣ってそんなもの出さないですよね。どういうつもりだと思いますか?」
ミツコさんは私の言葉に合わせて大きく何度も頷いて、ため息をついた。私から話を聞いただけで見知らぬ相手であるにも関わらず和樹のことを少しだけ罵倒してくれた。まだ和樹と一緒にいた頃のことを思い出そうとすると良い思い出しか出てこなくて泣きそうになる。別れた原因は和樹の浮気だが、和樹がそうしたくなるような理由が自分にあると思っていたので和樹の浮気のことをを悪く言ったことはなかった。私が醜く太ったせいで、彼に気を遣い過ぎたせいで。理由は数え切れないほど思い付く。ミツコさんがやんわりと叱るように言った。
「違うわよ。浮気はね、どんな理由があってもした方が絶対に悪いの。二人の間の約束を破ったってことなんだからね。挙句にまだ生まれてもいない子に罪を擦り付けてマリちゃんと別れるなんて情けないわ。自分できちんとけじめをつけられない男なんて最低よ。そんな男とは別れて正解だったって思いなさい」
ミツコさんが私の代わりに心の内を代弁してくれたと感じた。私だけが悪いんじゃない。和樹にだって責任はある。自分の口からはまだ言えないけど、頷いて同意することなら出来た。ミツコさんは続いて深く考え込む仕草をした。これはただのポーズなのかも知れないけれど、どうしようもないこの気持ちを楽にしてあげようと考えて動いてくれている。その心遣いがありがたかった。
殆ど毎日会っているにも関わらずミツコさんの連絡先も、住んでいるところも知らない。ミツコさんも公園で会うときの私しか知らない。ただこの短い一時だけの関係だけど、ミツコさんは私が心を許せる数少ない一人になっていた。ここでしか会わないからこそ、私たちはお互いのことを知り過ぎない。知らない分、気を遣わないでいられる。干渉し合わない程よい距離が、一日のうちの僅かな時間をより濃く、親密にしていく。ミツコさんは私の親友であり、尊敬できる人生の先輩でもあった。
やがて、ミツコさんが口を開いた。
「マリはどう思ってるの? その和樹って人のこと」
「どうって……今はもう……何とも」
私は答えた。それは半分は嘘であり、半分は本当のことだった。
自分の胸に手を当てて問い質せば、正直なところ和樹のことはまだ好きだと思う。切り出された話の衝撃を受け止めるのに精一杯で、一方的に告げられた別れに結論を出す暇がないまま、別れざるを得なくなった。有体に言えば、私は捨てられたのだ。未練が残っているのは否定できない。
だが、ファニと一ヶ月以上を過ごしてきて、天使や神様など御伽の世界に迷い込んだような信じられない話を聞き、外に出て自分の足で色々な場所へ行って、普通に過ごしていたらきっと出会わなかったであろう、たくさんの人と会ってきた。それぞれの人たちが自分の世界と物語を持っていて、私とファニに聞かせてくれる。
その内の何人かは生活圏が同じだったり、近い場所に住んでいる人もいたのに、その人たちの世界の中に私がいたことはないし、物語の中には当然和樹も登場しない。ファニが連れて行ってくれた場所に座り込んで、写真を撮る後姿を眺めながら無意識に和樹の姿を探すけれど、数え切れないほど人が行き交う何処にも和樹の姿は見当たらない。その事実に心を痛める度に私と和樹が偶然にも再会することはないのだと確かめる。出会ったとしても、もう一度昔と同じ関係には戻れない。欠けた信頼や愛情は同じ形に修復できない。やり直しはきかない。
終わってしまったのだ。
その言葉を呟いた瞬間、彼しか愛せない狭い世界に生きていた自分自身は蒸発するように消えていった。
「心の整理が出来たのね」
考えを述べるとミツコさんは言った。私は自分に向けられた優しい眼差しを受けて頷いた。
「だったら、会いに行けばいいと思うわ。痩せて、綺麗になって、自信をつけて彼を見返してやるの」
「出来るでしょうか?見返すなんて」
「もちろん。あなたと初めて会った時から比べたら、ずっと綺麗になったもの。彼はきっとあなたを捨てたことを後悔するはずよ。いいえ、約束を破ったことを後悔させなきゃダメなのよ」
ミツコさんの手が、温かく、力強く私の背中を押した。
「あなたより素敵な人を見つけて幸せになるわ、ってかっこよく言ってやりなさい」
その手と言葉に後押しされて、心の中で泡が弾けたように私は決心した。傷付けて謝罪させるだけが復讐ではない。表す言葉はたった一つしかなくてもその形は一つじゃないんだな。そう思いながら頷いた。
ミツコさんが手を離しても、背中に温かい手形がはっきりと残っているのを感じた。初めて歩いた日に泣いている私の背中を押してくれたファニの大きな手を思い出す。私の背中に二人分の優しい手形が並んだ。ウォーキングが終わって迎えに来たファニに決意を表した。するとファニは心から嬉しそうに笑った。
「そうですか。それは素敵な考えですね。あなたがマリさんの背中を押してくれたんですか?」
「私は余計なお節介を焼いただけよ」
「そんなことありませんよ! こんな素敵な方法を考えて下さったミツコさんも、それをやると決めたマリさんも素晴らしいと思いますよ」
ファニは感動したように目を輝かせ、とても素敵な考えを私に与えてくれたミツコさんのことを褒めちぎり、お礼を言った。予想外の褒め言葉にミツコさんは顔を真っ赤にして照れながら帰っていった。去っていく後姿を見送りながらファニが聞いた。
「結婚式、というのはいつですか?」
「二ヶ月くらい先だよ」
「では、それまでに和樹さんを後悔させられるくらいに変わらないといけませんね」
「うん。……協力してくれる?」
「もちろんです。頑張りましょう」
ファニは快く引き受けてくれた。その無邪気で爽やかな笑顔が地獄の始まりになろうとは思ってもみなかった。
水を飲みながら帰宅してすぐにシャワーを浴びようとする私をファニが引きとめ、腹筋と背筋を命じた。
「少し休んでからでもいい?」
「いけません。運動したばかりで体が温まっている今が一番いいんです」
ギラリと光る目と力のこもった声で力説されると従わざるを得ない。渋々床に寝転び、ファニの指導通りに胸の前で腕を交差させて腹筋をやった。単純に上半身を持ち上げるだけの動作が難しい。背中を丸めるように言われたが、首を持ち上げ、肩が僅かに床から離れる状態にしかならないのは背中を丸める以前の問題だ。
何とか数回こなし、プルプル震える体を無理矢理転がしてうつ伏せになる。頭の後ろに両手を乗せて体を反るために力を込めたが、顎を浮かせるだけで精一杯だ。まだ、まな板の上の鯉の方が生簀から上げられたときにビチビチと暴れるだけ動きがあるだろう。一応回数を数えたが全く背筋をやった気がしない。それでもお腹と背中に強張って軋むような感触があるので無意味ではないらしい。
「それが済んだら半身浴を三十分行って下さい」
ファニにトレーニングが終わったことを報告すると三十分に設定されたキッチンタイマーを手渡された。
湯船には熱めのお湯が丁度よく溜まっていた。普段はシャワーを浴びるだけに終わらせるので三十分も湯船に入っていられるのか不安だったが、タイマーをスタートさせ、お湯に浸かりながらファニが用意しておいてくれたハーブティーを飲んで体が芯から温まってほぐれてくる感じを味わっていると、三十分が過ぎるのは早かった。
お風呂から出たらすぐにファニの指導の下、ストレッチが開始された。私は太る以前から柔軟が苦手だ。足を閉じてまっすぐ伸ばせば手の指先がつま先にかろうじて触れるので精一杯だし、足を開けばまるで関節のついた人形よろしく少しも前に倒れない。腰と足が折れそうだ。
しかしファニは容赦なく私の腰を曲げさせ、足の筋がビリビリと痺れるほど股を裂いた。少しも体が前に倒れていないのに筋が限界まで伸びきっている。痛みに悲鳴を上げたくてもゾンビのような呻き声しか出ない。それが終わって痛む足を擦り、涙目で床に座り込んでいた時は何でこんな痛い目に遭わねばならないのかと恨みの一つも抱いていたが、ファニが用意してくれたハーブティーを飲んで労いの言葉をかけられつつ布団に入ると、空腹も気にならないほどすぐに深い眠りに就いた。
ストレッチの成果なのか、半身欲の効果なのか、疲れてよく眠れたおかげかはわからないが、翌朝の目覚めもよかった。しかし、すっきり目覚めたのは意識だけで、体の方は脂肪の下で怠けて退化しきっていた筋肉が刺激を受けて破壊され、再生を始めたために悲鳴を上げていた。起き上がろうとした瞬間、体が何が起こっているのか理解できない程の痛みを訴えてきて、思わず息が詰まった。少ししてからこの痛みには筋肉痛と名前がついていたことを思い出した。
「おはようございます」
「おはよう……」
いつもの爽やかな笑顔に涙目と苦笑いで応えた私は朝食の野菜サラダを食べてジャージに着替えた。
一ヶ月以上規則正しい生活を送ってきたせいか、最近では夜中に空腹で目が覚めるということはなくなっていて、朝食もヨーグルトのように喉の奥に流し込めばいいだけの食べ物ではなく、歯ごたえのあるものを食べる余裕が出てきた。公園を歩きながらその変化を伝えると、ファニは満足げに頷いた。
「一ヶ月経ってやっと効果が出てきましたね」
「効果って? 私、一ヶ月も食事制限と運動してるのに少しも痩せた気がしないよ」
「ええ。見た目にはまだ変化がわかりにくいかも知れません。ですが、見た目以外の効果を確実に実感できているはずです。最初に伺ったお話の内容から、マリさんは痩せにくい体質だと判断しました。そこで徹底的に食べ物を管理して、生活を規則正しくし、運動に体を慣れさせることで新陳代謝を活発にし、体質改善を図ってきました」
体質改善と聞いても全くピンと来なかった。ああいうのは病気になった人が専門家の指導の下、機械や薬なんかを使って行う必要のある難しいものだと思っていた。普通に生活している中で出来るものだなんて知らなかった。
「最近、足のむくみがなくなっていませんか? それと冷え性も治っているはずですよ」
寒さには強い方だったので気にしたことはなかったが、考えてみると確かに手足の冷えが治っている。仕事帰りの電車内で、足が鈍く痛んで立っているのが辛かった。ウォーキングを始めたおかげで平気になったのだと思っていたけれど、実は足のむくみが解消されたおかげだったのかもしれない。
「言われてみればそうね……でも、そんな話を聞かせたたことあったっけ?」
「いいえ。詳しくは伺っていませんでしたが、体質的にそういう悩みもあるのではないかと思っただけです。肌荒れが治ったという話もお聞きしましたし、食事の量だって空腹でいつも辛い状態からは抜け出せたのではありませんか?」
私は頷いた。図星だった。
最初は無理矢理残していたお弁当が最近は本当に少し多いかもしれないと思えるようになった。夜中に空腹で目が覚めることもなくなったし、仕事が遅く終わって帰ってきた時は昼食にお弁当を食べてから何も食べていないので空腹が気になることもあるが、食事の時間まで待つ必要があるときは水さえ飲んでいれば満たされる。
最初の頃は一日三粒のアーモンドがなくてはならない命綱だった。外へ行く時は必ず携帯し、家の中ではテーブルの上など視界に入る場所に置いていなければ落ち着かなかったのが、近頃では家に忘れて出かけても気にならないし、仕事へ行くカバンの中に入れっぱなしになっていても問題ない。
「食べる量を減らしたことで胃が小さくなったんです。元々は少食だったとお聞きしていましたから、余分な量を減らして元に戻しただけですよ」
ファニに言われて思い返せば、確かに和樹と付き合う前の私は食事に対して執着がなく、お腹が空いても食べる暇がない程忙しければ飲み物だけで不自由なく過ごしていたし、今くらいの少ない量でも十分に満足していた。空腹を苦しいと感じるようになったのは太り始めてからのことだ。
「でもわざわざそんなこと、何のためにする必要があったの?」
「食事制限で感じるストレスを減らす意味もありましたが、一番の理由はリバウンドを防ぐためです」
きょとんとしている私にファニは話を続けた。
「もちろん、そこまでして胃を縮小しなくても十分な運動と一時的な食事制限、薬を使っても脂肪を落とすことは出来たでしょう。以前の体質では難しかったというだけで痩せることは出来ますからね。でも、もしその方法で理想通りに痩せられたとしても、あなた自身が変わらなければまた同じことを繰り返すだけです」
「ダイエットで私を変えることが目的だったの?」
驚いた私は首を傾げた。ファニから特別に変化を促すような言動をされた覚えはない。少し苦しい日々だったけど日常を普通に過ごしてきただけのように思っていた。
「もし、今までにマリさんが試したことのある方法で痩せることが出来たら、きっとそうなったのは私が手伝っていたからだと思うでしょう。失敗すれば私のせいだと思っていたでしょう」
「でも成功してるよ。それにファニのおかげだよ。ファニが手伝ってくれたから続けられたし、励ましてくれたから頑張れたんだもの」
私は本心からそう言ったつもりだったが、ファニは首を横に振った。
「私の手伝いを受け入れ、じっと我慢して努力したのはマリさんです。どんなに励ましたところで、マリさん自身が挫折していれば失敗していました。私のお手伝いがいい結果になるように頑張ったのはあなた自身です。辛くても、苦しくても諦めないことを選んだのはあなた以外の誰でもないんですよ」
そう言ってくれたファニの言葉が私を褒めているのだとしばらく気付けなかった。私はただファニが次から次へと目の前に並べていく仕事を逆らえずにこなしてきただけだ。自分の意思で選び取ったつもりはなかった。与えられた状況に流されるまま今日まで続いてきた。強い人に歯向かえないだけで褒められるようなことは何もしていないのに、ファニはそんな私の弱さすら認めて褒めてくれているのだ。
「あの……それに、例え失敗してもファニのせいだとは思えないよ。ファニがこれだけ一生懸命やってくれたのに効果がなかったとしたら、それは私が真面目にやってなかったからだよ」
叱られた言い訳のように私が呟くとファニは笑った。
「そうやって失敗を私のせいにしないと言い切れるようになったのもマリさんが人のことを考えられるようになったからです。自分のことだけでなく、私のこともきちんと見て向き合えるようになったからですよ」
感謝を伝えたいのに、伝わらないのがもどかしい。ファニを褒めているのに、その言葉を褒め返されてしまって、何を言っても手ごたえがなく、効果がない。私が困って俯くと、ファニは悪戯っぽく笑った。
「私たちが出会った日のことを思い出せますか?」
「……うん」
「では、私があなたの家に行って、最後の晩餐として食べさせたものは何だったか覚えていますか?」
ファニと出会った日のことは時々思い出していたので、忘れるはずがなかった。食べたい物を聞かれた私が答えたのは
「フレンチトースト」
母が作ってくれたフレンチトースト。アイスの冷たさとジャムの甘さとメイプルシロップの香りが脳裏を過ぎった。母親を懐かしく思った。久しぶりに会いたい。そう思う私に頷き、ファニは話を続ける。
「その通りです。最後の晩餐として作りましたね。では、スーパーから歩いて帰ってきて私が作った食事のことは覚えていますか?」
「もちろん。焼きおにぎりと味噌汁でしょう」
そう答えた瞬間、頭の中に焦げた醤油の香りと味噌汁の温かさが甦ってきた。疲れた体に染み渡った味噌汁の温かさ、胃袋を満たす焼きおにぎりの表面のパリパリした食感。思い返せばあの日以来、炊いたお米を食べていない。
「もう……ファニがそんなこと言うから食べたくなっちゃった」
記憶を振り払おうと頭を振りながら文句を言うと、ファニは口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「フレンチトーストと答えた時はそんなこと言いませんでしたよね」
「だって、どうせ言っても食べさせて貰えないでしょう?」
「もし今日だけは何でも食べさせてあげると言ったらどうですか? 食べたいですか?」
私は考えてみた。どちらも食べたい。だけど、考えたところで甦った記憶は消えてくれなかった。頭が、口の中が、胃が焼けるほど甘いフレンチトーストより焦げた醤油の香りと味噌の塩味を求めている。実家以外ではあまり食べないフレンチトーストには母の思い出が強く残っていて、懐かしさだけが甦り、甘い香りと味をあまり思い出せないのに対して、自分でも作って食べていたはずの味噌汁や焼きおにぎりの方は同じ日に食べたにも関わらず、ずっと記憶に新しく鮮明で、食欲をそそる。
それを伝えると、ファニは頷いた。
「その二つの違いがわかりますか? フレンチトーストは何の代価もなく与えられた物、焼きおにぎりと味噌汁は体に鞭打って休まず歩いて帰った褒美として与えられた物です。人間は過去を忘れて生きる生き物です。簡単に手に入る痛みや苦しみは感じた瞬間は強烈ですが時が過ぎれば和らぎ、新しい記憶に塗り替えられていつか忘れてしまえるでしょう。逆に苦労しなければ手に入らない幸せや望みは弱く脆いようですが一生記憶に残ります。苦労した記憶が風化して消えて行ったとしても、その結果手に入れた幸福は宝物のように記憶の中で大切にされて、いつでも昨日の事のようにありありと思い出せる」
ファニが両手を開き、大切な物を持つように丸く空気を包んだ。何もないその場所に光が見えたような気がした。
「他人の手によって一時的にしか感じられない快楽や満足は与え続ければ次の欲が生まれるだけです。自分自身の手を煩わせることによって得た物からは最大の幸福を生むことができるのではないかと私は思っているのです」
ファニがそう言っているのを私は不思議な気持ちで聞いていた。渇いた喉を潤す水のように、悴んだ手を融かす温もりのように、暑さを和らげる木陰のように、言葉の力が優しく体を包み込み、抵抗なく心に沁み込み、融けて広がっていく。頭の中に今まで見たことのない、想像したこともない景色が浮かんできて、何の疑問も違和感も抱かずに言っている意味を理解してしまう。それが心地よかった。
神様の言葉を聞いているみたいだと思った。ファニの言葉にはいつも優しさと力強さが兼ね備えられている。心を撫でて甘やかすように優しいのに、どんなに恐ろしく無慈悲な言葉でも聞き入れたいと願ってしまうような強さがある。儚く甘い声のどこにそんな力があるんだろう。
魔法というのはこういうことを言うのかも知れない。言葉や、意思の力を声や目線、態度に表し、伝えることによって相手の心を開き、受け入れさせてしまうのだ。それは天使に限らず、誰にでも使える魔法なのかもしれない。
無防備な表情で黒い瞳を見つめていると、ファニは少し照れたように目を逸らした。
「さぁ、そろそろ帰りましょう」
私は迷わず頷いた。夢のような世界から現実に戻ると、体が空腹を訴えて呻いた。




