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人の出入りが激しいオフィス街のカフェ。行き交う人々が見える窓際の席に私は座っている。目の前には大好きな人。だけど私は両手を膝の上で握り締めて俯いたまま、最愛の男の顔をまともに見られずにいる。
「それじゃあ、元気でな」
私が何も言えないうちに男はそう言って氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーのコップを持って席を立ち、自動ドアを潜り、振り向かずに歩き去っていった。その後姿が段々遠くなって人混みの中へ消えていくのをガラス越しに眺めていた。
目の前には床に固定された木製のテーブル越しに空いた椅子が一脚と大好きなミルクたっぷりのカフェオレ。まだ湯気の立つそれを手に取って飲む気にはなれず、立ち上がる力もない。
ほんの三分前、私は彼氏に振られた。しかも、自分に起こりうるはずがないと思っていた最悪のパターンで。夢の中にいるような感覚だった。このまま目を閉じて強く念じれば以前の幸せだった頃の自分に戻れるのではないかと思った。頭の中でやけに冷静な自分が囁く。幸せだった頃っていつだろう。予想もしなかった出来事が自分の身に起こると現実を信じられなくなるのだ。しかしどう足掻いてもこれが現実だ。認めたくないけれど受け入れるしかない。とりあえず店を出なくては。このままでは泣いてしまう。
夜の薄暗いバーならばともかく、真昼間のお洒落なカフェで店内に響き渡るような嗚咽を漏らす女っていうのはあまりに醜いだろう。私が他の客なら居合わせたくない現場だ。
力が入っているかどうかも定かではない足で必死に立ち上がり、カフェオレを片手に店を出た。
焦点の定まらない目では自分がどの道を通っていて何処へ向かっているのかはっきりとわからなかったが、気付くと小さな公園のベンチに腰を下ろしていた。
周りに見える範囲には誰もいない。野良猫や一羽の雀の姿さえ見当たらない。
一人になってみると、ついさっき心に空いたばかりの大きな穴がズキズキと痛んだ。
やっと私は泣き出すことができた。子供のように大きく開いた口からわんわんと大声を上げて、涙も鼻水も流れるままに任せ、今朝ばっちりキメたメイクが涙で流れて落ちるのも気にせずに、時間を忘れてみっともなく泣いた。
どのくらいの時間が経っただろう。少し落ち着いてからポケットのハンカチを取り出し、近くにあった公衆トイレの前にあった水道で勢いよく水を跳ね飛ばしながら顔を洗った。
溢れ出した涙と鼻水はティッシュで拭いきれるような状態じゃなかった。顔についた水滴をハンカチで優しく拭った。ウォータープルーフのマスカラやアイラインは大量の涙のせいでその役目を果たしきれず、ハンカチには黒い染みがついた。
化粧品のコマーシャルになっていた曲を思い出す。失恋した女の子が今の自分に出来る精一杯のお洒落で大好きだった人との最後の時間を過ごした歌。でもあの子の結末は今の私ほど惨めで可哀想な姿ではなかった。
こんな顔、誰も見てなくて本当によかった。
心の中でその言葉を呟いた瞬間、自分がこの世にたった一人になったような気がして、また悲しくなってじんわり涙が滲んできた。
元のベンチに座って、置いてあったカフェオレをぐいっと飲む。時間が経って冷めてしまったカフェオレは温くて苦い。砂糖を入れ忘れてしまったようだ。
ふぅ、とため息をついて下を向くと、さっきあれだけ泣いたのにまだ涙で視界が霞んだ。
涙が零れ落ちないように歯を食い縛っていたら、突然、降ってきたような声が聞こえた。
「あなた、今、不幸ですか?」
顔を上げて周りを見るといつの間にか隣に男が座っていた。年齢は高校生か、童顔の二十代くらい。黒い長髪を後ろで一つに束ね、白いぶかぶかのシャツの上にくたくたになった萌葱色のジャケットを羽織っている。ズボンもカバンも同じ色だ。
モデルのようにスラッとした手足は細くて、色白の顔は幼いながらも間違いなく美形だ。
首から下げた大きな一眼レフのカメラと、足下に置かれた登山でもするかのような荷物を見ると、旅のフォトグラファーと言った風体だ。
即座にナンパではないと思った。私は太っている。顎の下にも腹にももれなく贅肉がつき、目は肉に押されて細く潰され、手は空気を入れて膨らませたゴム手袋のように無様だ。大根のような腕、
その上、吹き出物と肌荒れで昔の面影なんてないくらい酷い顔をしている。
そんな女が惨めな姿で顔をぐしゃぐしゃにして泣いているところに声をかけるなんて、詐欺師のような犯罪者しかいない。
純粋無垢という言葉が似合いそうな笑顔を浮かべる男に私は心の中で毒吐いた。見ればわかるでしょ、ほっといてよ。
男は明らかに嫌な顔をした私を見ても困った様子もなく、その中性的な顔に更に優しい笑みを浮かべて言った。
「よければ聞かせていただけませんか?一人で嘆き悲しむより、誰かに聞いてもらった方が楽になるときもありますよ」
笑顔と同じくらい優しい口調だった。耳が溶けそうなほど甘い声。ムカつくくらい細いけど男らしい大きな手が私の背中を擦る。
その温もりを感じた私はまた泣き始めた。男性に優しくされるなんて久しぶりのことだった。
優しくしてもらえるなら詐欺師でもいいかもしれない。お金さえ渡さなければいいんだもの。そもそも渡せるお金なんて持ってないけど。
「し、失恋したの」
しゃくり上げながら私は答えた。頭では放っておいてほしいと強く願っているにも関わらず、心ではこの悲しみを忘れるためなら目の前の優しさに縋って甘えたいと思っていた。
男はうんうんと頷くだけで、私が話し終わるまで何も言わなかった。