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PROXY  作者: 詩泥喪泥
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11月4日/a



 ゆっくりと目を開けると橙色の街灯のうすぼんやりした光が視界に広がる。覚醒と同時に右手、左手、右足、左足と順に握ってみたり、軽く宙を蹴ってみたりした。まるでそれらの動かし方を思い出しているかのように見えただろう。

 経験したことはないが生命の誕生というものを体感することができたのならばこういうものなのだと言ってしまってもいいかもしれない。目、耳、鼻、肌、あらゆる感覚から手に入るなにもかもが未確認の新着情報だ。

 白状すると今この瞬間以前の記憶が一切ない。

 記憶喪失、というには少しニュアンスが違う気がする。自分の脳内に思い出すべきことがあるような感覚が一切ない。空っぽの器で水を掬っているような感覚。自分の手にあるロープを引いてもどこにも繋がっていないかのような感覚。うまく言えているとは思えないがだいたいそんな感じ。

 なんとなく体の全部位の感覚が戻ってきたと感じると同時に横たわっている地面の冷たさを感じ、体が震えた。

 起き上がり周囲を見回すと明るい色彩のコンテナが積み重なっているのが見える。コンテナに書いてあるのは日本語だからどうやら日本国内のどこかの港らしい。



「まいったな」

 誰に聴かせるわけでもなくそんな言葉が漏れた。自分が着ているどこかの学生服らしい服だけではこの浜風はすこし肌寒い。ここにいたら風邪を引いてしまう、移動しよう。

 昼間はそれなりに活気があるんだろうがさすがにこれだけ夜が深くなると港は無人だ。道を聞く相手もいないのでとりあえず海から遠ざかる方向へ歩き出した。

「まあ、聞くべき道もしらないのだけど」

 道行く高校生風情に、僕はどこへ行くべきですか、なんていきなり人生尋ねられて、まともに答えることができる人間できた人はそうはいまい。

「そういえば…呼び方はどうしよう」

 自分のことが何一つ分からないというのは不便だ。自分のことをなんて呼んだらいいのかすらわからない。僕、俺、私、吾輩……自分が自分をどう呼ぶかだけではない。もっと困るのは他人に自分を紹介するときだ。なにか自分のことが分かるものがないか体を弄ってみたが持ち物らしい持ち物は持ち合わせていなかった。制服のジャケットの内側も見てみたが名前の欄は空欄のまま。

 持ち物を探ってみてもう一つ分かったことは財布の類も一切所持していないこと。どうやら人類最後の物言わぬ友、貨幣にも見放されているらしかった。

 三分ほどそこに立ちつくしてとりあえず当面のことは決めた。自分のことは〝僕〟と呼ぶ。名前は事情の説明のときこじれそうなので未定のままで。このまま港を抜け、誰でもいいので人に出会い、最寄りの警察オア病院といった公共機関へ連れて行ってもらう。

 この状況下でこれだけ冷静にものごとを考えられたら御の字だろう。再び僕は歩き出した。

しかし、静かである。車の音ひとつしない。これはかなり歩かないと人にすら出会えないのではないか。

憂鬱な気分にでもなりそうなものだが悪い意味で状況がクリアすぎて、なにも感じない。現実感がない、といった感覚なのだろうか。試しに頬を抓ってみたが視界はクリアなままだ、どうやらこれは夢ではない。



「ん……」

 濃い潮のにおいの中にわずかに異質なにおいが混じる。生臭い。コンテナ群の奥から漂ってくる。

 特に迷うこともなくにおいの方向へと足が向いていた。街灯の光がうず高く積まれたコンテナに阻まれて一気に辺りが暗くなる。においだけを頼りに暗闇の中をずんずんと進む。においがどんどん濃くなっていく。その場に明らかにそぐわないにおい、血だ。

 なぜ、どうして、と次々に曖昧な推理が頭の中で弾けては消えていくうちにぼんやりしていた思考は晴れ、その回転スピードが上がっていく。それに比例するように足も速くなっていく。

 最後には転がるように走っていた。

 なぜだかわからない。ただそうしなくてはいけない気がした。

 息が上がり、肺が押しつぶされたようになって、ようやく〝それ〟を見つけた。



 すっ、と分厚い雲の切れ間から一筋の月光が射した。漏れ落ちた光が地面を覆う闇を舐めるように取り払っていく。そして、〝彼女〟を覆っていた闇も取り払われた。

 そこにいたのは一人の少女だった。黒いコートを纏った体をコンテナへと預けている。身長も自分の一回りは小さく、ひどく華奢な体つきだ。うつむいているため前髪が顔に垂れ、その顔を窺い見ることはできない。寒さのせいかその肩が震えているのが離れていても分かった。

 彼女に近づいてみて、その違和感に気がついた。彼女の下の地面に黒い水たまりができていた。よく見ると腹部を庇うように押さえている手が紅い。遠くて気付かなかったが黒いコートの一部がじっとり湿っているのが見えた。

 その段になってようやく自分がここに走ってきた理由を思い出した。血だ。

「怪我、してるのか…?」

 我ながら間抜けな声だったと思う。その声に気付いた少女が顔を上げた。



 今にも泣き出しそうな目だな、現状を忘れて呑気にそんなことを思った。

 絶世の美女、というわけではない。どちらかというと街中ふとどこを見てもそこにいそうな、かわいらしい、そんな凡庸で簡単な言葉で片付けられてしまいそうな希薄な顔をしている。

 しかし、その目が気になった。泣くのを懸命に堪えているような、今にも壊れてしまいそうな、そんな目。前髪に隠れたもう片方の目も見ようと手を伸ばしかける。

 焦点の合っていなかった瞳が僕の顔を捉える。生気が失せていたその目が嘘のように見開かれ、信じられないものを見たように首を左右に振る。喉から声を出そうとするもその声はかすれてしまっていて、まともな言葉にならない。

 僕は彼女の口元に耳を寄せた。

「なんで、あなたがここにいるの…?」

 切れ切れであったがたしかにそう言ったのが聞こえた。



「僕のことを知ってるのか?」

 思わず聞き返してしまったが、その言葉を聞いた彼女は一瞬放心したようになった後、露骨に落胆したように目を伏せてしまった。

「…忘れて。人違いだったみたい」

 それだけ短く言うと彼女は血だらけの手を地面について、自分の体を持ち上げようとした。よく見ると彼女の体には腹部の傷以外にも大小の傷がいくつも刻まれていた。

「動かないほうがいい、そんなボロボロの体で。救急車呼ぶよ」

「ありがとう。けど結構よ」

 彼女はそっけなく僕をあしらうとコンテナに半分体を預けながら闇に消えようとする。

「いや、だめだろ」

 すぐに追いすがるが彼女は止まろうとはしない。

「どこ行くんだよ」

「放っておいて」

「こんな死にそうになってる女の子放っておけるか」

「あなたが死ぬことにもなっても?」

 足が止まる。

「え、なんて?」

「私だってふつうに車にはねられたのならおとしなく病院に行くわ。けど今はそうじゃない。わからない? どう考えたって異常事態でしょう?」

 息をするのも苦しいだろうに彼女は追いすがる僕を振りほどこうとするばかりに言葉を並べたてる。その声は極力感情が消し去られていて悲痛だ。

 倒れそうになる体をコンテナに押し付け、懸命に前へ進もうとする。

「お願いだから放っておいて。あなたには関係ない世界のことよ」



「ちょ、ちょっと!なにやってるのよ」

 僕は彼女の腕を掴むとそのまま自分の肩に回させ、空いた手で彼女の腰を支える。

「僕、今記憶がないんだ」

「え?」

「そのまんまの意味だよ、今僕にはさっき目覚める前の記憶がない」

 彼女は僕の顔を怪訝そうに窺っている。僕は想像以上に軽い彼女の体をぐっと引き寄せながら言葉を続ける。

「ここがどこだか、どうしてこんなところで眠っていたのか、それどころか自分が誰だかすらわからない。僕は今、あらゆる関係を見失っている」

 彼女の腰あたりに押し当てられた彼女の腹部からじわりと湿り気を感じる。まだ彼女の腹に空いた穴から血は流れ続けているのだ。

「僕にとって関係ない世界だらけなんだよ、この世界は。けど僕と君は今こうして会話している。これってもう立派な関係者、って言えるんじゃないかな」

 だから付き合わせてもらうよ、そう言うと僕は歩き出した。

 彼女は黙ったままだ。間が持たない、と判断した僕は勤めて笑顔を作り、はははと彼女に笑いかけた。

「えーと、それでどこに行けばいい?僕、この辺の地理、まったくわかんないんだよねー」





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