読書好きの幽霊
八月の登校日を終えて、私はスクールバックを肩に引っ掛けて、席を立った。
クラスメイト達は、この後、カラオケに行こうだとか、何か食べにいこうだとか、盛り上がっていたけど、それに背を向けて、私は図書室に向かった。
図書委員の私は、夏休みで長期未返却になっている本の一覧表を作るという作業を終えてから、二学期が始まるまでに家で読もうと思い、何冊か本を借りてから、帰路に着いた。
帰り道の途中に親水公園がある。池の周りに遊歩道とジョギングコースがあり、その道沿いには、多くのベンチや東屋があって、池を眺めながら、休憩することができる。
八月だけど、曇り空で気温はそんなに高くなく、思い思いの場所で休憩している人が何人かいた。
私は、学校からの帰りに、いつもここに寄って、定位置のベンチに座り、お気に入りの小説を読むことが好きだった。
さすがに体が凍える冬には無理だったが、それ以外の季節には、学校帰りにいつも来ていた。
池の水面を滑るように風が吹き抜けて行った。
私が座っているベンチの近くにある柳の枝が、私の長い黒髪と一緒に踊るようにしなった。
「小柳!」
名前を呼ばれて顔を上げると、トレーニング着姿の憲一君が立っていた。
憲一君は、家も近所の幼馴染みで、小学校、中学校、そして高校とずっと一緒で、友達の少ない私と話をしてくれる唯一の男子だった。
ずっと陸上をやっていて、この公園のジョギングコースを走るのは、学校の部活が終わってから、熱くなっている筋肉を、ゆっくりとしたペースで走ることで、少しずつクールダウンさせるためだと言っていた。
「こんな暑い日くらい、冷房のきいた家で読めば良いのに」
「あの池から吹いてくる風が好きなので」
「相変わらずだなあ」
呆れ顔の憲一君に、「私がここで読書をしてるのは、憲一君が走っている姿が見られるから」という言葉を飲み込んだ。
最初は、中学三年の時、本屋さんで買った好きな作家さんの本を、家まで待ちきれずに、最初のところだけでも読もうと、ここに座った時、ジョギングしている憲一君を見つけて、それ以来、学校の帰りに、ここで本を読むことが日課になっている。
さすがに日曜日や今のような夏休みに、わざわざ家から出て来て、ここで読書をすることは、どう考えたって変だし、そこまですると、本当に憲一君のストーカーと誤解されかねないからしないけど、もう、十分、ストーカーだよね。
「学校が終わってから、ずっと読んでたのか?」
「ううん。今日は図書委員の仕事もあったから、ここに来たのは、十五分くらい前かな」
「図書委員だって、小柳一人じゃないんだろ? 図書室の香川先生も言ってたぞ。小柳が一人で何でも引き受けてくれるけど、仕事も早くて正確だから、ついつい頼んじゃうってさ」
「一人でするのが、気が楽だし、好きだから」
「これからも、ずっと一人でするつもりかよ?」
「だって、ペアの幽霊なんておかしいじゃない」
ここで読者を始めた頃、辺りが薄暗くなる頃までいたこともあって、中学で「柳の下で長い黒髪の女がベンチにうつむいて座っていた」と幽霊騒ぎになってことがある。その幽霊の正体が私と分かってからは、「貞子」というあだ名も付けられ、少なかった私の友達がほとんどいなくなった。
もっとも、もともと外向的な性格ではなく、どちらかというと一人の方が気楽な私は、そんなに苦しくはなかった。それは、今の高校でも同じだ。
「また、そうやって自虐的なこと言って」
「まあ、本人が気にしてないんだから良いじゃない」
「やれやれ、じゃあ、俺、もっと走ってくるから」
憲一君は、私に軽く手を振ると、また、ジョギングコースを走り出した。
憲一君の背中が見えなくなるまで見送ってから、私は、また、本を読み始めた。
憲一君は、このコースを一周五分くらいで走っている。クールダウンとは言っても、たぶん、他の人よりも速いペースのはずだ。
でも、十分くらい経ったのに、憲一君は戻って来なかった。毎日、十周以上は走っているから、まだ、帰ることはないはず。
それとも、今日もいる私を気味悪がって、本当に帰っちゃったかな?
しばらくすると、憲一君が足を引きずりながら走って来ているのが見えた。
直感的に怪我をしていると分かった私は、思わず、憲一君に走り寄った。
「どうしたの?」
見ると、膝から血が出ていた。
「自転車でジョギングコースを走ってる子供がいてさ。ぶつかりそうになって咄嗟に避けたけど、転んじまった。本当、情けないぜ」
「すごい血が出ているよ! 消毒しなきゃ!」
「こんな怪我なら、いつもしてるよ」
「駄目だよ! 大会も近いんでしょ!」
思わず大きな声を出した私に、憲一君が気圧された顔をしていたが、私は気が気じゃなかった。
だって、憲一君がずっと頑張ってきているのを知っているし、来週には陸上の大会もあったはずだ。
「とりあえず、あのベンチに座って!」
「あ、ああ」
私が座ってたベンチに憲一君を座らせると、私はスクールバックから応急セットを取り出した。
「ちょっと、しみると思うけど」
そう言ってから、コットンに消毒薬を染ませて、憲一君の膝の前にしゃがむと、コットンで傷を拭いた。
「痛てっ!」
「ごめん! でも、もうちょっとで終わるから」
コットン二枚を使って、血を綺麗に拭き取ると、大きめの絆創膏を傷口に張り付けた。
「はい。できたよ」
「あ、ありがとう。でも、そんなの持ち歩いてるのか?」
「うん。私もよく転ぶから」
「そういえば、運動会でもよく転んでたよな」
「小っちゃい頃に傷が膿んでしまって、すごい辛い思いをしたトラウマがあって、それ以外、持ち歩いてるの」
「そっか」
「ねえ。もう、今日は無理しないで、このまま、家に帰った方が良いよ」
「でも、まだ半分も走ってないし」
「駄目! 無理して、かえって台無しにしちゃったらどうするのよ!」
「……小柳」
「うん?」
「お前も大きな声が出せるんだな」
「あっ、……ごめんなさい」
「責めてる訳じゃないって! 初めて聞いたから、ちょっと新鮮だっただけ」
「……今日は、練習を切り上げて、早く帰って」
「そうだな。そうするか」
「うん」
「じゃあ、小柳。行こうぜ」
「えっ?」
「何、言ってんだよ。同じ方向だろ? 小柳こそ、薄暗くなってきてるのに、まだ、本を読む気かよ? この暗さじゃ、さすがの貞子さんも字が読めないだろ?」




