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溢れた時だけ

 今日、掃除当番ではない私は、校舎の玄関横に立ち、悠人ゆうとを待っていた。

 同級生が何人か、笑顔で手を振りながら、私の前を通り過ぎた。

 私が誰を待っているのか、もう、みんなは知っているから、問い掛けてくる人はいない。

 しばらくすると、悠人がやって来た。いつもどおり、私の顔を見てうなづくと、両手をポケットに入れたまま、何も言わずに校門の方に歩き出した。私もその少し後ろについて行く。悠人の肩を見ながら無言で歩く。


 3か月前。私は悠人から「好きだ」と告白された。

 私は、小さい頃から、大きな声を出すことが苦手で、引っ込み思案で、何をするのも消極的で、本を読むことが唯一の趣味だった。

 だから、お洒落にもそんなに気を遣っていた訳でもなく、それまで、男の子と付き合ったこともなかった私にとって、それは衝撃以外の何者でもなかった。

「どうして、私なの?」

 それが、私の返事だった。

「お人形さんみたいで、連れて歩きたいから」

 確かに、私は、黒髪を長めのおかっぱにしていたけど、人形みたいと言われたことは初めてだった。

「私は、お人形さんじゃないよ」

「それは、一緒にいないと分からないだろ?」

「一緒にいるって?」

「一緒に学校に行って、一緒に家に帰ろう」

「それだけで良いの?」

「他に、やってもらいたいこと、あるのか?」

 私は、ちょっとだけ、変な想像をしてしまって、一人、照れてしまった。

「……特にない」

「それじゃあ、今日から一緒に帰ろうぜ」

 それから私達は、毎日、最寄り駅で落ち合って、一緒に学校に行き、その駅まで一緒に帰えるようになった。

 ただ、それだけだった。

 楽しくおしゃべりをしながら歩く訳でもなく、意思疎通に必要最小限の会話くらいしかしなかったし、休日に会って、デートをすることもなかった。

 これって、付き合ってるって言えるのだろうかと、時々、思った。

 一緒に登下校するようになってから、3か月経とうとしているのに、私達は、まだ、手を繋いだこともなかった。


 悠人も、ほとんど、クラスメイトと話すことはなく、私と同じような雰囲気の男の子だった。

 デスクトップ・ミュージックといって、コンピュータを駆使して、自作の音楽を演奏することが悠人の趣味で、休日には自分の部屋に閉じこもって、その作業に没頭しているみたいだった。

 自作の曲を何曲か聴かせてもらったけど、私には、よく分からなかった。

 でも、一曲だけ、すごく好みの曲があって、「この曲、良いね」って言うと、悠人は嬉しそうに微笑んだ。悠人の笑顔を見たのは、その時だけの気がする。


沙希さき

 悠人は、振り向くことなく、前を向いたまま、私の名前を呼んだ。

 私は、少し目線を上げて、悠人の後ろ姿を見つめた。

「キスして良いか?」

「えっ?」

 悠人の突飛な物言いには慣れていたつもりだけど、さすがに驚いた。

「どうして?」

 その理由が知りたかった。

「好きだから」

「今までは好きじゃなかったの?」

「もちろん、好きだったよ」

「どうして、今?」

「したいと思ったから」

「誰に言ってるの?」

「沙希」

 私が、前を向いたままの悠人に問い掛けると、悠人は、前を向いたまま答えた。

「私の顔を見ないで、そんな大事なことを言うの?」

「見ると、こんなこと、言えないよ」

 悠人なりに勇気を振り絞って言ったようだ。

 そんな悠人が急に愛おしく感じてきた。

「良いよ」

 悠人は、立ち止まると、振り返って私の顔を見た。

「本当に?」

「うん」

 悠人の顔を久しぶりに見た気がする。

 悠人は、私に近づいて来ると、両手をポケットに入れたまま、姿勢を低くした。目の前に悠人の顔が見えると、そのまま軽く唇が触れあった。

 悠人は、すぐに顔を離して、私を見つめると「柔らかい」と言った。

 まさか、通学路のど真ん中で、初キスをするとは思ってなかった。

 辺りには、けっこう、人がいて、同じ学校の生徒も何人かいたみたいだけど、私は、思ったより冷静で、顔も赤くなっていないみたいだ。

 悠人もいつもどおりで、緊張しているようではなかった。

「悠人?」

 悠人は、少し首を傾げて、私を見た。

「悠人は、したいと思ったことはすぐにするの?」

「基本、そう」

「私に抱きつきたくなったら抱きつくの?」

「もちろん」

「どこでも?」

「ああ」

「私が嫌だって言ったら?」

「しない」

「どうして?」

「好きだから」

 まるで禅問答のような悠人の答えがおかしくて、私はくすりと笑った。

 悠人は、何か不思議な物を見たような顔をしていた。

「沙希」

 今度は、私が首を傾げて悠人を見た。

「沙希の笑った顔、初めて見た」

「えっ?」

「沙希も笑うんだな?」

「私は人形じゃなくて人間だから」

「それは今、分かった」

「今まで、私のこと、人形だと思ってたの?」

「笑ってくれなかったから」

「私が笑うようなことを、悠人がしなかったからだよ」

「どうすれば、沙希は笑ってくれるんだ?」

「分からない」

「じゃあ、さっきは何故笑ったんだ?」

「悠人の言っていたことがおかしかったから」

「俺、おかしなこと言ったかな?」

 悠人が微笑んだ。

「悠人」

「うん?」

「悠人が笑った顔をもっと見たい」

「俺も沙希が笑った顔をもっと見たいよ」

 キスが二人の間の見えない壁を取り払ってくれたみたいだ。

 でも、今までの居心地の良さを無くすのは嫌だ。

「悠人」

「うん?」

「……無理には笑わないで。普段どおりの悠人が心地良いから。溢れた時だけ、笑ってくれれば良い」

「分かった。溢れた時だけ……」

 悠人は、また、顔を近づけて来た。

「溢れた」

「……私も」

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