恋は風邪の特効薬
「くしゅんっ!」
電車から降りて、ホームに張り詰めていた冷たい空気に包まれると、私の鼻はその気温差を瞬時に感じ取ったみたいだ。
カーデガンを羽織っていたけど、少し寒く感じる朝だった。
「千夏のくしゃみって、子犬のくしゃみみたいで可愛いね」
隣を歩いていた、同じテニス部の佳代が冷やかす。
「それって、褒め言葉?」
「もちろん! 可愛いって最後に付いていたでしょう」
じゃあ、その笑いをかみ殺したような顔は何?
「くしゅんっ!」
「あれれ、風邪引いた?」
「ちょっと寒気がするけど、熱っぽくはないし、まだ大丈夫だと思うけど」
「名前からすると、千夏は、夏以外は弱そうだもんね」
「何、言ってるのよ? 私の夏は、千日続くのよ!」
「ずっと夏じゃない! そんなのやだ!」
「どうして?」
「だって、年中、水泳の授業があるじゃない!」
「その代わり、かき氷も年中食べられるわよ」
「おお、それは捨てがたい」
毎度恒例の、佳代との馬鹿話で盛り上がった登校時には、そんなに辛くなかったけど、授業が始まると、次第に、体が熱っぽくなってきた気がする。
普段から、授業に集中できている訳ではないけど、今日は一段とぼんやりとしている気がした。
下校時間の頃になると、明日は確実に寝込みそうな予感がするほど、体調が悪くなってきた。
私は、佳代に、今日は部活を休むと伝えてもらうことにして、一人で駅に向かって歩いていた。
ふと、目の前に、男子テニス部の細川君が歩いているのが見えた。ちょうど交差点の赤信号で細川君が立ち止まっているところに追いついて、隣に立った。
「細川君」
「んっ? ああ、新井か? 練習は?」
「体調不良。細川君は?」
「俺もだよ。ちょっと熱っぽくてさ」
「私と同じだ。……風邪?」
「分からないけど、大事を取って帰ることにしたんだ。新井は大丈夫なのか?」
「何とか」
「でも、新井も風邪引くんだな」
「どう言う意味よ!」
「はははは。それだけ元気だったら大丈夫だろ!」
「うるさい!」
確かに、さっきまでの体のだるさが、どこかに消えてしまったようだった。
細川君は、学校中の女子から「テニス部の王子様」と呼ばれているくらいイケメンなんだけど、冗談を言っては、いつも周りの人を笑顔にしてくれる人気者だった。
特定の彼女はいないみたいだけど、こうやって、私なんかとでも一緒に帰ってくれる、気さくで、気取らない人だった。
かく言う私も細川君に憧れていたけど、地黒プラステニス焼けで真っ黒だし、ショートカットで身長が高いことから、性別偽装疑惑がある私なんて、こうして一緒に歩けるだけで幸せだよ。
駅に着くと、ちょうど電車が入って来た。
細川君と私の家は同じ方向で、私が細川君より3駅遠い駅で降りていた。
いつもより早い電車で、仕事帰りの人がまだいないからか、いつもより空いていた。
私が、スクールバッグを膝の上に置いて座席に座ると、細川君も同じようにして、すぐ隣に座った。
こうやって並んで座るのは初めてだ。……ちょっとドキドキする。
でも、細川君って、女の子の隣に座るのにも全然躊躇しないんだ。もし、細川君に先に座られたら、私がその隣に座るのには、かなりの勇気が要ったはずなのに。
電車のドアが閉まって動き出すと、電車の空調のせいか、ちょっと寒くなってきた。
くしゃみの前兆を感じた私は、咄嗟に両手で鼻と口を覆った。
「くしゅんっ! ……くしゅんっ!」
「おいおい。本当に大丈夫か? ちょっと、この電車、寒いよな。熱帯生まれの新井には耐えられないかもな?」
「誰が熱帯生まれだ! 黒さでは人のこと言えないでしょ!」
「はははは」
細川君は、笑いながらも、スクールバッグをいったん床に置くと、自分のカーデガンを脱いで、私に差し出した。
「ほい」
「えっ?」
「これでも掛けておけよ。少しはましだろ」
「で、でも、細川君も体調が悪いんでしょ?」
「俺は、まだ、くしゃみが出てないからさ」
「で、でも」
「良いから、良いから」
そう言うと、細川君は、カーデガンを毛布のように私の体に掛けてくれた。
「あ、ありがとう」
私は、そのカーデガンを首が隠れるところまで、さりげなく引き上げた。
細川君の匂いがするかな。……って、我ながらキモい。
でも、お陰で、寒さは感じなくなって、逆に体が熱くなってきた。
細川君はいつもと同じように、冗談交じりで私に話し掛けてくれたけど、今日の私は、頭がボーとして、その内容は頭に入って来なかった。でも、たぶん、体調のせいじゃない。
細川君が降りる駅が近づいて来た。
「細川君、ありがとう」
私は、細川君にカーデガンを戻そうとした。
「もうちょっと掛けていなよ。新井が降りる駅まで行ってやるよ」
「えっ!」
「俺も、もうちょっと一緒にいたいなあって」
「えっ! ど、どうして?」
「新井のくしゃみをもう一回聴きたいなって思ってさ」
「……変態」
「ははははは。何とでも言え」
冗談だって分かるよ。私がどれだけ細川君を見つめてきたと思ってるの。
「ねえ、私の顔、赤い?」
「熱、出てきたのか?」
「う、うん、そうかも」
細川君は私の顔をまじまじと見つめた。
「う~ん、……黒くて分からないや」
「う、うるさい!」
「はははは。でも、新井、帰ったら早く寝ろよ」
「そう言う細川君だって」
「ああ、大会も迫って来ているからな」
学校で、お前に会いたいからだよって言ってよ!
――って、風邪、どこに行った?




