02 You are in the rain
ゴールデンウィーク明けの最初の日曜日に、図書館で出逢ったおじさん。
結局、あたしはおじさんの名前を知らない。
ただ、黒のワゴン車に乗っていることだけしか知らない。
おじさんは、あたしの名前を知っているけど。
「咲田 遼子」ってあたしは告げたんだ。
だけど、それだけ。
携帯電話の番号も住所も何も知らない。
連絡を取る術は何も無い。
だけど、あたしは楽しかった。
あたしをちゃんと見てくれていた。
あたしの話を聞いてくれた。
だからあたしは楽しかった。
家に帰ることに比べれば。
おじさん、どうしているかな?
おじさん、何処にいるのかな?
教室の窓際で窓の外の五月晴れを見ながら、あたしはそんなことを考えていた。
「どうした、遼子。最近ボーっとして」
突然、親友の茉美があたしの後ろからあたしの右肩に手を掛けた。あたしはハッとして振り向いた。
「茉美、脅かさないでよ」
茉美の横には、もう一人の親友の恵梨佳がいた。
「ホント、最近の遼子はおかしいわ。時々遠くを見たりボーッとしたりしてね。私が思うにわね、遼子は恋をしているのよ、きっと」
恵梨佳の言葉を受けて、ボーイッシュな茉美があたしの肩をバンバン叩いた。
「おぉっ! 何処で男を見つけたんだぁ? あたしにも紹介しろよな。全く、水臭いんだから」
あたしは、茉美と恵梨佳を見つめて言った。
「そんなんじゃないってば。この前のおじさんが気になってるのよ」
恵梨佳が、遼子を覗き込んだ。
「おじさんって誰なの? 気になるわねぇ、その言い回しは」
おじさんアレルギーというより、男がちょっと苦手な茉美は露骨に嫌な顔をした。
「えー、おじさん? 誰なんだよ、それ。あー、やだやだ」
あたしは、茉美と恵梨佳の反応にうんざりした。
「だからさ、昨日話した、図書館のおじさんだよ。一緒にラーメン屋に行ったって話の」
茉美は、もう違う話題を話し始めていた。
「ラーメン屋って言えば、典子と了一が一緒に食べてたって噂だよ」
「キャー、ヤダ、ヤダ! 了一様は誰のモノでもないのよぉ!」
あたしは、窓から外を見た。
大きくて真っ黒な雲が、空を覆い始めていた。
空の上の方を見ると、入道雲が発達して金床雲に成りかけていた。
「雨、降りそうだなぁ」
あたしは、誰に言うとも無しに呟いた。
あたしの予測した通り、午後三時を回った頃からは土砂降りの雨になった。最近はゲリラ豪雨とか言うらしい。
アンニュイな気分で、学校帰りの、駅までの道を歩いていた。既に靴は当然、靴下もグッショリと濡れて、傘を差しているけれど、傘の役割を果たさないごとく、制服のカッターシャツの両方の肩も濡れて、皮膚に張り付いていた。
いつも学校の帰りに通りかかる、ちょっと大き目の公園を何気なく見ると、男の人が一人、大きな木の下で雨宿りをしていた。あたしは、直感でそれが「おじさんだ」と分かった。どうして分かったのかは、あたし自身も判らないけれど、気が付いた時には、あたしは公園の中へと向きを変え、大きな木の下に向って走り出していた。
「おじさーん!」
あたしは、雨音に負けないように大きな声で呼びかけた。すると、おじさんはあたしの方を見てビックリした。
「どうしたの?」
おじさんは、あたしに声を掛けてくれた。
間違ってはいなかった。あの時のおじさんだった。
あたしが木の下の辿り着くと、おじさんは濡れてない場所を空けてくれた。
「やっぱり、おじさんだった。よかった」
あたしは、息を切らせながら言った。
「僕に何か、用があったのかい?」
おじさんはキョトンとしていた。
「うん、あ、いや、何となく。もう一回、逢いたいなぁって」
あたしは、照れも無く平然とそんなことを言った自分に驚いていた。
「いやぁ、おじさんは嬉しいなぁ」
おじさんは照れながら、あたしにハンカチを差し出した。
あたしは、何の抵抗も無くおじさんのハンカチで濡れていた顔を拭った。洗剤の匂いと共におじさんの臭いがした。いわゆる『加齢臭』というヤツなのだが、今のあたしには心地よい香りに思えた。
「学校帰りなの?」
おじさんの質問に、あたしは大きくうなずいて返事をした。
その時だった。
一瞬、空全体が白く輝いたかと思ったら、大気を揺るがすような爆音が炸裂した。
「きゃっ!」
あたしは、思わずおじさんに抱き付いた。おじさんはあたしをしっかりと受け止めてくれた。
あたしとおじさんは、しばらくそのまま抱き合っていた。
「大丈夫だよ。ただの雷だよ。でも、近くに落ちたかもしれない。ほら、ビルの電気が消えてる」
おじさんは、あたしを促すように、周りのビルを指差した。
「ホントだ」
あたしはおじさんから身体を離して周りを見た。確かに先ほどまで白く光っていたビルの窓は全て黒い色をしていた。
「酷い雷雨だけど、夕立だからすぐに止むよ。しばらくここに居た方がいいね」
おじさんは、諭すようにあたしに話し掛けた。あたしはおじさんに引っ付きながらコクンとうなずいた。
何回か、雷が鳴ってから段々と空が明るくなってきた。そして明るくなったと思ったら、すぐに雨が止んで雲が切れ始めた。
「ほら、夕立だった。もう雨が上がったよ」
おじさんは木の下から出て、両の手のひらを上に向けて、雨が降っていないというジェスチャーをした。あたしは、おじさんのその姿が可笑しくて、クスクスと笑った。
「可笑しいかい?」
おじさんもニヤリと笑って、あたしに応えてくれた。
「おじさんの名前はね、『大村 俊朗』っていうんだ。『トシちゃん』って呼んでよ」
あたしは、急に自己紹介を始めたおじさんにキョトンとしてしまった。
「何だよ、ちゃんと突っ込んでくれよぉ」
あたしのその態度に、おじさんは不服そうだった。
「ねぇ、それじゃぁ突っ込むわよ。俊おじさんの携帯電話の番号とメアドを教えてよ」
あたしは、マジに訊いていた。おじさんからおどけた表情が無くなった。
「え、マジ?」
おじさんは聞き返してきたけど、あたしは無視して真剣に言った。
「あたしの携帯電話の番号とメアド、教えるから」
おじさんは、あたしの真剣な顔を見て携帯電話を取り出した。そして、プロフィールを表示してあたしに見せてくれた。あたしは素早く自分の携帯電話に番号を打ち込んで発信した。するとおじさんの携帯電話が鳴った。
「それが、あたしの番号」
そして、もう一度おじさんの携帯電話のプロフィールを見てメアドを打ち込んでから、すぐに空メールをおじさんに発信した。するとまた、先ほどとは違う着信音でおじさんの携帯電話が鳴った。
「それが、あたしのメアド。そして、あたしの名前は『咲田 遼子』よ」
おじさんは、携帯電話を操作しながらうなずいた。入力が完了したおじさんは、顔を上げてあたしを見た。あたしは間を置かずにこう言った。
「俊おじさん、あたしとお付き合いして」
言い終わった後、あたしはおじさんに走り寄って抱き付いた。