【91】灰の中から
焼け落ちた燻製小屋の匂いは、三日たっても山小屋の板壁に残っていた。
ハンスさんは、ほとんど声を出さない。
罠の巡回だけは欠かさなかった。戻る靴音は土と灰で重く、肩についた煤も払わない。食事は匙を二、三度運ぶだけ。夜になると、暖炉の火を見ているのか、その向こうの灰を見ているのか分からない目をして座っていた。
わたしは台所に立ち続けた。
朝は粥。昼は乾し肉の塩気を薄く溶いたスープ。夜は茸と根菜を鍋底から温める煮込み。香りを強く立てず、喉を通る熱だけを残す。
慰めの言葉は、誰も重ねなかった。
裏手では殿下の斧が丸太へ食い込み、乾いた音を刻んでいる。薪はハンスさんの分まで高く積まれた。ソフィアさまは赤い蝋印章の欠片を机に置き、欠けた紋様を細い筆で拾う。フィンさんは森の縁を歩き直し、足跡も折れ枝も、目で撫でるように確かめていた。
アリアは、ハンスさんの傍に座っていた。
何かを言おうとはしない。膝の上で手を重ね、ただ、同じ火の前にいた。
四日目の朝、椅子がきしんだ。
「リーゼ」
「はい」
「灰の中を、掘ってくれ」
「灰、ですか」
「燻製小屋の灰だ。石の床の下に、隠し棚がある。そこに入っているものが、無事かどうか確かめたい」
わたしと殿下は、焼け跡に膝をついた。
灰は見た目より冷たい。指を入れると、爪の奥まで黒くなる。殿下は手袋を外し、素手で掻いた。皇子の白い指が、炭と煤にまみれていく。
「ここだ」
ハンスさんの曲がった指が止まった場所を、殿下がさらに掘り下げた。
石の床板が顔を出す。その下に、小さな石室があった。外側は熱で黒く焦げ、触れるとざらりと煤が落ちる。それでも、中までは焼けていなかった。
出てきたのは、小さな革袋と、一冊のノートだった。
ハンスさんが両手で受け取る。
革袋の口を解くと、乾燥させた燻製肉の欠片と、薪の削り屑が入っていた。焦げ跡のついたノートを、ハンスさんは最後に膝へ載せた。
「これは——」
「親父の遺品だ」
ハンスさんの喉が鳴った。
「燻製の技法を、すべて書き残したノート。小屋が燃えた時のために、石の下に隠しておいた。親父が——死ぬ前に」
息を吸うと、煤の匂いが胸に入った。
「ハンスさんのお父さまも——残す準備をしていたんですね」
「ああ」
ハンスさんがノートを開いた。
ページの端は焼け焦げ、指に黒い粉を移す。それでも、中の文字は読めた。
達筆な文字だった。薪の癖、煙の温度、肉の切り方、塩の比率。炭の匂いの奥から、何十年も繰り返した手順が、まだ温かいもののように立ち上がってくる。
最後のページに、短い一文があった。
『この技を、エッセンスの使い手に、託す。山は、焼けても、また、芽を出す。――ヨルグ・ベルクヴァルト』
ハンスさんの父の名前だった。
「山は、焼けても、また、芽を出す——」
ハンスさんが、ノートを胸に押し当てた。
「親父」
かすれた声が、灰の上に落ちる。
「お前の小屋は、焼けた。だが——技は、ここにある」
ハンスさんの目元が歪み、涙が煤の筋をなぞった。
寡黙な猟師が、灰の前で泣いていた。
わたしの目にも熱いものが込み上げた。
殿下は煤に汚れた手を握ったまま、しばらく目を伏せていた。
* * *
その日の午後、ハンスさんが立ち上がった。
「リーゼ」
「はい」
「小屋は、また建てる」
「はい」
「技は、残った。道具は、また作る。肉は、また燻す」
ハンスさんの目に、鈍い火が戻っていた。
「だが、今のわしの体では、すぐには動けん。火の煙を吸いすぎた」
「ハンスさん、無理をしないで——」
「だから、お前に頼む」
ハンスさんが、ノートをわたしに差し出した。
「このノートを、写せ。お前のノートに、一字一句、写し取れ。原本は、わしが持つ。写しは、お前が持て」
「分かりました」
「それと——お前の本に、わしの燻製を書け。ロレンツォの魚醤や、ユーリアのチーズと同じように。三代分の技を、お前の本に、残せ」
「必ず」
ハンスさんは、短く頷いた。
「親父の遺言。『エッセンスの使い手に託す』。お前が、その使い手だ」
「はい」
「山は、焼けても、また芽を出す。わしも、また、燻す」
その声には、湿った薪へ火が移る時の、低い芯があった。
灰の山の向こうで、北風が吹いた。
焦げた匂いの下から、生木を削ったばかりの青い匂いが、かすかに立っていた。




