【8】第二皇子の専属料理人(仮)(嫌です)
翌朝。
わたしが厨房で朝の仕込みをしていると、マルクスさんが険しい顔でやってきた。
「リーゼ」
「は、はい!」
「昨夜、二番調理室に勝手に料理を出したな」
ぎくっ。
やっぱり、バレた。
「す、すみません……フィンさんに頼まれて、つい……」
「頼まれて、つい、で皇族の食事を作るな。毒見も通してないだろうが」
マルクスさんの声は低く、怒りを滲ませている。
確かにその通りだ。皇族の食事には毒見の工程がある。それを無視して勝手に出したのは、最悪の場合、暗殺未遂と取られかねない。
「本当に、すみませんでした……」
わたしが深々と頭を下げると、マルクスさんは大きく息を吐いた。
「……で、何を出した」
「イムル芋と鶏骨の粥です。調味は塩だけで——」
「それだけか?」
「はい。本当に、それだけです」
マルクスさんが眉をひそめた。
何を考えているのかは分からないけれど、少なくとも今すぐクビにはならないようだ。
「リーゼ。お前に客だ」
「客?」
マルクスさんが厨房の入口を顎で示した。
そこに立っていたのは、昨日のフィンさん。
にこにこと、あの柔らかい笑顔を浮かべている。
「おはようございます、リーゼさん。突然ですが、殿下がお会いになりたいそうです」
は?
「えっ……わたしに? なぜ?」
「昨夜の粥のことだと思います。殿下が食事を完食されたのは、ここ数年で初めてのことでして。もう、それはもう大変な事件なんです」
フィンさんの目が、笑っているのに光っている。
嬉しそうでもあり、ちょっと怖くもある。
「あの……断っても……」
「皇子の召喚は断れません」
にっこり。
笑顔が怖い。
マルクスさんがわたしの背中を押した。
「行ってこい。ただし、余計なことは言うなよ」
余計なこと。わたしが言いそうな余計なこと。
例えば「殿下の料理の味付けは全体的にセンスがないと思います」とか、そういうことだろうか。
言いません。たぶん。
* * *
二番調理室ではなく、案内されたのは学院の貴賓室だった。
重厚な扉を開けると、朝の光が差し込む部屋の中央に、昨日と同じ黒髪の青年が座っていた。
カイゼル・フォン・アステリア。
近くで見ると、思った以上に背が高い。わたしの頭が、彼の胸くらいの高さだ。
冷たい碧眼が、わたしを見下ろしている。
怖い。
今のわたしの心境を料理に例えるなら、生きた伊勢海老を目の前に置かれて「さばけ」と言われた新人料理人の気持ちだ。
「お前が、あの粥を作ったのか」
挨拶もなしに、単刀直入に切り込んでくる。
「は、はい……リーゼ・ヴァイスフェルトと申します。厨房の実務奨学——」
「経歴はいい。どうやって作った」
「え……普通に、作りましたけど」
「普通に?」
カイゼル殿下の目が、わずかに細くなった。
その些細な表情の変化だけで、部屋の温度が二度くらい下がった気がする。
「俺が今まで食べたどんな料理よりも、味がした。宮廷の料理長も、帝都の名店の料理人も、誰一人成し遂げられなかったことだ。それを、『普通に作った』?」
殿下の声は平坦だ。怒っているわけではない。
ただ——真剣だ。切実なほどに。
そこでわたしは気づいた。
この人は、味がわからないことに、ずっと苦しんでいたのだ。
食事は人間の根源的な喜びだ。それが一切感じられない人生を想像してみると——胸が痛い。
「殿下は……味覚が過敏でいらっしゃるのではないかと思いました」
「……何?」
「普通の人が美味しいと感じる味付けが、殿下には強すぎるのではないかと。だから、できるだけ余計な味を取り除いて、食材そのものの味だけを残した粥を作りました」
カイゼル殿下が黙った。
フィンさんが横で「ほう」と感心したような声を漏らしている。
「……今まで、そんなことを言った者はいなかった」
「え?」
「宮廷の医師も料理人も、俺の味覚を『異常』として治そうとした。味を感じられるように、味を強くしろと。あれもこれも足せと。誰一人、『引く』ことを考えなかった」
それは——なんて悲しい話なのだろう。
味覚過敏は病気ではない。個性だ。
その個性を「異常」として扱い、無理に「普通」に合わせようとした結果、この人は食事の喜びを完全に奪われてしまった。
前世の食品科学者として、これは許せない。
「殿下」
わたしは——たぶん、この場で言うべきではないことを言った。
「殿下の味覚は、異常ではありません」
「……何だと」
「殿下は、普通の人よりもずっと繊細に味を感じ取れるのです。それは、料理人にとっては最高の才能です。ただ、今まで殿下の舌に合う料理を作れる人がいなかっただけ」
沈黙。
フィンさんが目をぱちくりさせている。
マルクスさんに「余計なことを言うな」と釘を刺されたばかりなのに。
やってしまった。
「……リーゼ・ヴァイスフェルト」
「は、はいっ」
「お前、毎食、俺の食事を作れ」
「はい?」
「聞こえなかったか。毎食だ。朝昼晩。今日から」
「えっ、ちょっ、わたし学生で、授業もあって、厨房の仕事も——」
「フィン、手配しろ。この者の授業スケジュールに合わせて食事の時間を調整する」
「かしこまりました」
「ちょっ、わたしの意見は!?」
「聞いていない」
カイゼル殿下は立ち上がり、窓際に歩いていった。
その背中が、ほんの少しだけ——力が抜けているように見えたのは、気のせいだろうか。
「殿下。一つだけ、条件があります」
わたしの言葉に、殿下が振り返る。
「条件だと?」
「宮廷の指定メニューではなく、わたしが自由にメニューを決めさせてください。殿下の舌に合う料理を、わたしなりに研究して作りたいんです」
これは譲れない。
胡椒まみれの子羊肉や、砂糖漬けのコンポートを作り続けるなんて、料理人として耐えられない。
カイゼル殿下は、わたしを見つめた。
氷の目。でも、その奥に——ほんの微かに、何かが揺れた気がした。
「……好きにしろ」
こうして、わたしは第二皇子カイゼル殿下の専属料理人に(勝手に)任命された。
いや、ちょっと待って。
わたし、まだ十二歳だし、授業もあるし、厨房の仕事もあるし。
寝る時間あるの、これ?
* * *
「——と、いうわけで、殿下の専属料理人になってしまいました」
夜。寮の部屋で、わたしはベッドの上で膝を抱えていた。
「すっごーい! リーゼ、皇子様の料理人!? 何それ、物語みたい!」
ミーナが目をキラキラさせて飛び跳ねている。ベッドが軋む。
「物語って……わたし、ただの厨房係なのに」
「でもでも、皇子様って、あの氷の皇子様でしょ? 超カッコいいって評判の! 近づいただけで凍えるって噂の!」
「凍えるというか、実際に寒かった。あの人、無意識に冷気出してる気がする」
「きゃー! それって運命じゃない!?」
「運命って……ミーナ、ロマンス小説の読みすぎだよ」
窓辺で、ネルが鼻を鳴らした。
「あの小僧か。氷の魔力を持つ皇族の血筋……ああ、なるほどな」
「なるほど?」
「味覚過敏は、氷の魔力の副作用だ。氷の魔力が舌の感覚を研ぎ澄ませすぎている。だから普通の食事では刺激が強すぎる」
「魔力が味覚に影響するの?」
「当然だ。魔力は身体の全てに影響する。あの小僧が食事を楽しめないのは、自分の魔力が強すぎるせいだ」
つまり、カイゼル殿下の味覚の問題は、単純な好き嫌いや体質ではなく、魔法に起因するもの。
この世界の医師や料理人が「異常」としか認識できなかったのは、魔力と味覚の関連を誰も研究していないからだ。
「ネル、それなら……わたしの料理が殿下に合ったのは」
「お前の料理にはエッセンスが宿る。エッセンスは魔力による味覚の過敏を中和する効果がある。だから、あの小僧はお前の料理だけ味がわかるのだろう」
エッセンス。
わたしの料理に宿るという、よく分からない力。
「ネル。わたし、ちゃんと知りたい。エッセンスって何なのか。食の賢者って誰だったのか」
ネルは長い尾を揺らして、わたしを見た。
翡翠色の目に、懐かしさのような光が宿っている。
「……時期が来たら、教えてやる。今はまだ早い」
「いつ?」
「お前が、あの小僧の舌を本当に満足させた時だ」
それはつまり——カイゼル殿下に「美味しい」と言わせろということだろうか。
あの表情の乏しい氷の皇子に、「美味しい」と。
「……それ、結構ハードル高くない?」
「知るか。わしは寝る」
ネルは丸くなって、すやすやと眠り始めた。
ミーナはもう爆睡している。相変わらず、「ん〜……ぷりんたべたい……」と寝言を言っている。プリンはこの世界にないのだけれど。
わたしは窓から夜空を見上げた。
聖女失格の厨房係が、皇子の専属料理人。
冗談みたいな展開だけれど、不思議と嫌ではなかった。
だって、難しい味覚を持つ人のために料理を作るのは——食品科学者にとって、最高のやりがいだから。
明日の朝食は、何を作ろうか。
殿下が「美味しい」と言ってくれるような、最高の一品を。
わたしは枕の下から小さな手帖を取り出して、メニューの構想を書き始めた。
眠れない夜は、いつだって料理のことを考えている。
前世でも、今世でも。
それがわたし、リーゼ・ヴァイスフェルトという人間なのだ。




