【6】その粥、なんか光ってません?
学院に来て二週間が経った。
わたしの毎日は、朝五時に起きて厨房の仕込みを手伝い、午前中は授業、午後は再び厨房、夜は寮の小さな部屋で魔法理論の予習という、なかなかにハードなスケジュールだった。
体力的にはキツい。
でも、充実はしている。
何より、厨房が楽しい。
「リーゼ、今日のスープの味付け、またお前がやれ」
マルクスさんが、巨大な鍋を顎で示した。
先週の賄いで認められてから、わたしは正式に調理ローテーションに加えてもらえるようになった。といっても、まだ下っ端の仕事がほとんどだけれど、味付けだけは任されるようになったのだ。
「はい!」
返事をして、わたしは鍋の前に立つ。
今日の昼食は根菜のポタージュ。ジャガイモに似たイムル芋と、人参に似たルーテ、玉ねぎに似たゼーベルを使った、この世界では定番のスープだ。
この世界の一般的なレシピだと、全部の野菜を一緒に放り込んで煮て、塩をドバッと入れておしまい。
前世の知識がなければ、それでも「まぁ、こんなものか」と思っていたかもしれない。
でも、わたしは知っている。
イムル芋は低温でゆっくり加熱すると、デンプンが糖に変わって甘みが増す。
ルーテは高温で短時間炒めると、カロテノイドが溶け出して色と風味が良くなる。
ゼーベルは弱火でじっくり炒めると、硫化アリルが変性して、辛味が甘みに変わる。
つまり、同じ「煮る」でも、温度と時間を変えるだけで、味は劇的に変わるのだ。
わたしはまず、ゼーベルを薄切りにして、弱火でゆっくり炒め始めた。
「おい、リーゼ。何してる? そんなチンタラ炒めてたら、昼に間に合わんぞ」
厨房の先輩コック、ハンスさんが横から声をかけてくる。赤ら顔でひげ面の、陽気なおじさんだ。
「大丈夫です。あと十五分くらいで……」
「十五分!? ゼーベルの炒めに十五分もかけるやつがどこにいる!」
前世の飴色玉ねぎのことを思えば、十五分でも短いくらいなのだけれど、この世界の常識からすると確かに非常識らしい。
ハンスさんは呆れた顔をしていたが、マルクスさんが「黙って見てろ」と一言で黙らせてくれた。
十五分後。
飴色に変わったゼーベルを見て、ハンスさんが目を丸くした。
「な……何だこりゃ。ゼーベルがこんな色になるのか?」
「甘くなるんですよ、ゆっくり火を通すと」
わたしはそこに、別の鍋で低温加熱しておいたイムル芋と、さっと炒めたルーテを加え、水と、この世界のコンソメに当たるブイヨンを注いだ。
コトコトと煮込むこと二十分。
仕上げに、少しだけ塩と、この世界のバターに当たるミルヒ脂を落とす。
そして最後に——わたしはそっと、乾燥させた海藻の粉末をひとつまみ加えた。
これは、わたしが辺境伯領の近くの海で見つけた海藻を乾燥させて作った、自家製の旨味調味料だ。
前世の昆布だしに近い、グルタミン酸が豊富な海藻。この世界では「海の雑草」として捨てられているけれど、乾燥させて粉末にすれば、最高の隠し味になる。
ポタージュをひと口味見する。
……うん。完璧。
イムル芋の滑らかな甘み、ルーテの優しい風味、飴色ゼーベルのコク、そしてミルヒ脂のまろやかさ。それらを海藻の旨味がひとつにまとめている。
前世なら「普通に美味しいポタージュ」だけれど、この世界の基準では、たぶん、とんでもない味だ。
「できました」
マルクスさんに味見用の椀を差し出す。
マルクスさんは無言でスプーンを口に運び——
三秒ほど、固まった。
「…………」
「あ、あの、マルクスさん?」
「……もう一杯くれ」
二杯目。三杯目。
マルクスさんは黙々とポタージュを飲み続けた。
ハンスさんが恐る恐る味見をして、同じように固まった。
厨房の他のスタッフも、一人、また一人と味見に来て、全員が黙り込んだ。
沈黙が怖い。
「あの……美味しくなかったですか?」
「馬鹿か」
マルクスさんが低い声で言った。
「美味すぎて言葉が出ねぇんだ」
その一言で、厨房に歓声が上がった。
「何だこれ! 同じ食材でこんな味になるのか!?」
「リーゼちゃん、天才かよ!」
「おい、これ生徒に出すのもったいなくないか?」
嬉しい。素直に、嬉しい。
前世では、研究室で地味にデータを取るだけの仕事だったから、自分の作ったものを「美味しい」と言ってもらえるのは、何度経験しても胸が温かくなる。
お母さん。わたし、ここでも料理が作れるよ。
* * *
昼食の時間。
学院の食堂は、身分によって席が分かれている。
上級貴族の子女は窓際の特等席、中級貴族は中央、下級貴族と平民は壁際。そして、実務奨学生のわたしたちは——食堂で食べることすら許されず、厨房の裏口で賄い飯をもらう。
まぁ、わたしは厨房で自分の好きなものを作れるから、むしろ特等席だと思っている。
「リーゼ! 今日のスープ、すっごく美味しいって評判だよ!」
ミーナが食堂から駆け戻ってきて、目を輝かせた。清掃担当のミーナは、食堂で生徒たちの反応を直接聞ける。
「ほんと?」
「うん! 普段スープ残す子たちが、みんなおかわりしてた! あと、何人か『今日のスープ飲んだら、なんか体が軽くなった気がする』って言ってたよ」
……体が軽い?
それは、ちょっと気になる。
ただの野菜のポタージュで、そこまでの体感効果が出るとは思えないのだけれど。
「あ、でもね、一個だけ変な噂もあって」
「変な噂?」
「スープが光ってた、って言ってる子がいるの。金色にうっすら光ってたって」
光る?
スープが?
わたしは慌てて厨房に戻り、鍋の残りを確認した。
大鍋に残ったポタージュを覗き込む。
……普通のポタージュだ。光ってなんかいない。
気のせいだろう。この世界の生徒は魔力感知ができるから、ちょっとした温度差でも「光った」と錯覚することがあるらしい。
そう自分に言い聞かせて、わたしは鍋に蓋をした。
蓋を閉めた後、鍋の縁から微かに金色の粒子が漏れていたことに、わたしは気づかなかった。
* * *
その日の夜。
消灯後の寮の窓辺に、灰色の猫が座っていた。
「来たね、ネル」
もうこの二週間で、すっかり慣れてしまった。
ネルと名付けたこの老猫は、毎晩のようにわたしの窓辺にやってくる。
最初は「名前を勝手につけるな」と怒っていたけれど、わたしが夕飯の残りを差し出すようになってからは、文句を言いつつも食べに来る。
「今日のは何だ」
「鶏肉と薬草の包み焼き。ルッツ草を使って——」
「違う。今日のスープだ。あれは何をした」
ネルの翡翠色の目が、暗闇の中で鋭く光る。
いつもの気だるい雰囲気とは違う、真剣な目だった。
「え……普通にポタージュを作っただけだけど」
「嘘をつけ。あの鍋から、エッセンスの気配がした」
「エッセンス?」
「食材の本質を引き出す力だ。百年前、わしの主が使っていた力と同じ……いや、まだ未熟だが、同じ系統の力だ」
ネルが言う「主」というのは、以前ちらっと聞いた「食の賢者」のことだろう。
百年前に存在したという、伝説の料理人にして魔術師。料理を通じて魔法を使ったとされる人物。
「わたし、別に何も特別なことはしてないよ。ただ、食材の性質を理解して、最適な調理法を選んだだけ」
「それだ」
ネルが前足でわたしの鼻先を指した。
「食材の性質を理解する。お前はそれを、どうやって知った」
「どうやってって……科学的に——あ、いや、えっと、この世界の言葉で言うと……経験と、観察と、試行錯誤?」
「ふん。まぁいい。とにかく、お前は今日、やらかした」
「やらかした!?」
「声がでかい」
隣のベッドでミーナが「んー……もうたべらんない……」と寝言を言った。この子の寝言は、いつも食べ物関係だ。
ネルは声を落として続けた。
「お前のスープに、エッセンスが宿った。あの金色の光を見た者がいるはずだ」
「……光ってたって噂は聞いたけど」
「この学院には魔術師が山ほどいる。魔力を伴わない魔法現象——それは、百年前に禁じられたものだ。目をつけられるぞ」
禁じられた?
料理に魔法が宿ることが、禁忌?
ネルはそれ以上は語らず、鶏肉の包み焼きをもぐもぐと食べ始めた。
「……ネル、もっと教えてよ。禁忌って何? 食の賢者って何?」
「腹が減っては話もできん」
「今まさに食べてるでしょ!」
「噛む回数が足りん。消化に悪い」
完全にはぐらかされている。
でも、ネルの言葉はわたしの胸に小さな棘のように刺さった。
わたしの料理が、光った。
魔力がゼロのわたしの料理に、魔法が宿った。
それが何を意味するのか、今のわたしにはまだ分からない。
分からないけれど——怖くはなかった。
だって、美味しいものを作ることは、悪いことであるはずがないから。
「ネル」
「何だ」
「明日は、お前の好きな焼き魚を作ってあげるよ」
「……ふん。勝手にしろ」
窓辺で丸くなるネルの背中を見つめながら、わたしは薄い毛布を被った。
帝都の夜空には、見たことのない星座が瞬いている。
この世界に来て十二年。
初めて、「ここに来てよかった」と思えた気がした。
おやすみなさい。
明日も、美味しいごはんを作ろう。




