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魔力ゼロで聖女試験に落ちましたが、私の作るごはんは魔法より効くみたいです ~味のわからない皇子殿下の専属料理人になりました~  作者: 河合ゆうじ


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【5】初めてのまかない(味が薄いとか言わないで)

 学院生活が一週間を過ぎた。


 毎日の流れはこうだ。

 朝五時半に起きて厨房の仕込みを手伝い、八時から午前の授業に出て、昼食を厨房の隅で食べ、午後は再び厨房に戻って夕食の準備。夜は寮室で予習と復習。

 目が回るほど忙しい。でも、不思議と苦ではなかった。


 授業には、相変わらず波がある。

 魔法理論は快調で、ラングフェルト先生にはすっかり目をつけられた。授業中に難しい問題が出ると、先生の視線がまっすぐ後ろの席に飛んでくるのが困る。

 魔法実技は相変わらず壊滅的。蝋燭の炎は微動だにしない。ヘルダ先生は「不思議ですねぇ」と首を傾げ続けている。

 歴史と礼法は普通。可もなく不可もなく。


 厨房での仕事は、まだ雑用が中心だった。

 野菜の皮むき、食器の片付け、鍋の洗浄、食材庫の整理。

 地味だけれど、大切な仕事だ。厨房の全体像が見える仕事でもある。


 一週間かけて、わたしはこの厨房の問題点をだいぶ把握していた。


 調理工程に無駄が多い。食材の下処理が雑。味付けが塩頼みで旨味の層が薄い。火加減の管理が大雑把。パンの発酵管理が温度任せ。

 一つ一つは小さな問題だが、積み重なると料理の質を大きく左右する。


 でも、わたしはまだ何も言っていなかった。

 入ったばかりの十二歳の小娘が、ベテランの料理人たちに意見するなど、許されるはずがない。


 だから、黙っていた。

 黙って、皮をむいて、鍋を洗って、チャンスを待っていた。


 ――そのチャンスが、突然やってきた。



 * * *



「ヴァイスフェルト」


 その日の午後、厨房でじゃがいもの皮をむいていたわたしに、マルクスさんが声をかけた。


「明日の昼の賄いを、お前が作れ」


 手が止まった。皮むきナイフが空を切る。危ない。


「……え?」


「聞こえなかったか。明日の昼の賄いだ。厨房スタッフの昼飯。お前に任せる」


 マルクスさんは太い腕を組んで、こちらを見下ろしていた。

 熊のような巨体。厳めしい顔。でも、その目は真剣だった。


「一週間、お前の仕事ぶりは見てきた。手際はまぁまぁだ。食材の扱いは……悪くねぇ。だが、それだけじゃ分からん」


 マルクスさんはごつい指でわたしの手元を指さした。


「料理人の力量は、作ったもので計る。明日の賄いがまともなら、正式に調理班に入れてやる。駄目なら、お前はこの先ずっと皿洗いだ」


 皿洗い。

 それはつまり、料理をさせてもらえないということ。

 わたしにとって、それは死刑宣告に等しい。


「……やります」


「当たり前だ。やらんとは言わせん」


 マルクスさんが背を向けかけて、ふと振り返った。


「スタッフは俺を含めて八人。食材は厨房にあるものを自由に使え。ただし、贅沢な材料は使うなよ。普段の賄いと同じ予算内でやれ」


 普段と同じ食材、同じ予算。

 つまり、腕一本で勝負しろ、ということだ。


「分かりました」


「ふん」


 マルクスさんは鼻を鳴らして去っていった。


 わたしは手元のじゃがいもに目を戻した。

 心臓がドキドキしている。緊張ではない。これは――高揚だ。


 やっと。やっと、料理を作れる。


 前世の食品科学の知識。この世界の食材への理解。お母さんから受け継いだ料理の勘。

 全部をぶつける時が来た。


 わたしはじゃがいもの皮むきを再開しながら、頭の中でメニューを組み立て始めた。



 * * *



 翌日、昼前。


 わたしは厨房の一角を借りて、賄いの準備に取りかかった。


 メニューは決めてある。

 具だくさんの野菜シチューと、焼きたてのパン。

 何の変哲もない、シンプルな献立だ。


 でも、シンプルだからこそ、ごまかしが効かない。


 まず、パンの生地から。

 前日の晩に仕込みたかったが、それは許可されなかったので、朝の仕込み時間に生地を作っておいた。


 小麦粉、塩、水、そして酵母。

 この世界のパンは、生地を捏ねて適当に放置して焼く、という大雑把な工程が主流だ。だから硬くてパサパサになる。


 わたしがやったのは、三つのこと。


 一つ。捏ねの工程で、生地に適度な水分を含ませる。この世界のパン職人は生地を硬めに作る傾向があるが、水分量を少し増やすだけで食感が劇的に変わる。

 二つ。発酵温度の管理。厨房の竈の余熱を利用して、生地を温かい場所に置いた。酵母が最も活発に働く温度帯を維持することで、発酵が均一に進む。

 三つ。焼く直前に、生地の表面に薄く水を塗る。これで焼成時に蒸気が発生し、表面がパリッと仕上がる。


 前世の知識で言えば、どれも製パンの基本中の基本だ。

 でも、この世界では誰もやっていない。


 パンを窯に入れたら、次はシチューだ。


 食材庫から持ってきたのは、玉葱、人参、蕪、じゃがいも、豆、それにセロリに似た香味野菜。肉は、塩漬け豚肉の切り落とし。

 どれも普段の賄いに使われている、ありふれた食材ばかりだ。


 さて、ここからが本番。


 まず、玉葱。

 普段の厨房では、玉葱をざく切りにしてそのまま鍋に放り込む。それでは玉葱の甘みが出ない。


 わたしは玉葱を薄切りにして、大鍋に少量の油を敷き、弱火でじっくりと炒め始めた。


「おい、ヴァイスフェルト。何やってんだ? 煮込みじゃねぇのか」


 隣で仕事をしていた若い料理人のトーマスが、怪訝な顔で覗き込んだ。


「玉葱を炒めてるんです」


「炒める? シチューに入れるのに?」


「はい。こうすると甘みが出るので」


「……ふーん」


 トーマスは首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。


 玉葱が飴色になるまで、およそ二十分。

 前世なら「早く飴色にする裏技」みたいな記事が溢れているが、正直に言えば弱火でじっくりが最強だ。砂糖のカラメル化とアミノ酸のメイラード反応が同時に進行し、複雑な旨味と甘味が生まれる。


 次に、人参とセロリを加えて一緒に炒める。

 ミルポワ――西洋料理の基本となる香味野菜の組み合わせだ。玉葱二、人参一、セロリ一の比率。この黄金比が、スープやシチューの味の土台を作る。


 香りが立ったところで、塩漬け豚肉を加える。

 ただし、そのまま入れるのではない。前の晩から水に浸けて塩抜きをしておいた。厨房の隅で、こっそり。

 塩漬け肉は保存のために過剰な塩分を含んでいる。そのまま使えば塩辛いだけだが、適切に塩抜きすれば、肉本来の旨味が前面に出る。


 肉の表面に焼き色がついたら、水を加えて煮込む。

 ここで、わたしは一つ、この世界にはない工程を加えた。


 根菜の皮。


 朝の仕込みで出た人参と蕪の皮を、捨てずに取っておいたのだ。

 それを布で包んで鍋に沈める。

 根菜の皮には旨味成分が凝縮されている。前世の日本料理で言う「ベジブロス」の考え方だ。野菜の皮や端材から出汁を取ることで、追加の材料費ゼロで味に深みが出る。


 二十分煮込んだら皮の包みを引き上げて、残りの野菜――蕪、じゃがいも、豆を加えてさらに煮込む。

 蕪はあまり煮すぎると崩れるので、大きめに切って後から加える。じゃがいもも同様だ。


 最後に塩で味を調えて、仕上げに刻んだ香草を散らす。


 煮込んでいる間に、パンの様子を確認した。

 窯の中でふっくらと膨らんだ生地が、美しい焼き色をつけ始めている。


 良い匂いがする。

 小麦が焼ける甘い香り。野菜とハーブが溶け合うシチューの湯気。


 厨房に、少しずつ変化が起きていた。

 他の料理人たちが、ちらちらとこちらを見ている。

 鼻をひくつかせている者もいる。


「……なんだこの匂い」


 トーマスが鍋を覗き込んだ。


「同じ食材なのに、いつもと全然違う匂いがするぞ」


「火加減と順番を変えただけですよ」


「嘘つけ。絶対なんかやっただろ」


 やりました。めちゃくちゃやりました。でも、やったことは全部、基本的な調理科学の応用に過ぎない。


 窯からパンを出す。

 表面はパリッと、叩くとコンコンと良い音がする。中はふわふわのはずだ。

 布巾に包んで、粗熱を取る。


 十二時。賄いの時間だ。



 * * *



 厨房の奥にある休憩室の大きなテーブルに、八人分のシチューとパンを並べた。


 厨房スタッフが三々五々集まってくる。

 マルクスさんが一番奥の席に座り、腕を組んでこちらを見た。その表情からは何も読み取れない。


「今日の賄いは、ヴァイスフェルトが作った。文句は食ってから言え」


 マルクスさんの一言で、全員が席についた。


 八人の視線がシチューに注がれる。

 見た目は地味だ。普段の賄いと大差ないように見えるだろう。根菜と豆と肉の入った、ごくありふれた煮込み料理。


 最初にスプーンを手に取ったのは、ベテランのヨハンさんだった。

 白髪混じりの、もう六十近い老料理人。学院の厨房に三十年勤めている大ベテランだ。


 ヨハンさんがシチューを一口啜った。


 動きが、止まった。


「…………」


 スプーンを持ったまま、微動だにしない。


 あ、まずかっただろうか。味が薄かっただろうか。塩が足りなかっただろうか。

 わたしの心臓が嫌な音を立てる。


「……おい」


 ヨハンさんが顔を上げた。


「なんだ、これは」


 その一言に、わたしは身構えた。

 叱られる。怒られる。生意気な小娘が、と。


「なんで……こんなに美味いんだ」


 ――え?


「同じ食材だろう? 同じ材料で、なんでこんな味が出る?」


 ヨハンさんの言葉に背中を押されたように、他の料理人たちも次々とスプーンを口に運んだ。


 沈黙が広がった。

 でも、それはさっきとは違う沈黙だった。


 誰もが黙ってスプーンを動かし続けている。

 パンをちぎり、シチューに浸し、口に入れ、また次のスプーンを。


「くそ……なんだよ、これ」


 トーマスが呟いた。


「パンがうめぇ。柔らかくて、でも表面はカリッとしてて……こんなパン食ったことねぇぞ」


「シチューも……なんて言うんだ、この、奥の方にある味。塩味じゃなくて、もっと深いところにある……」


「旨味、って言うんだよ、馬鹿。知らねぇのか」


 年配の女性料理人のエルザさんが、目元を拭いながら言った。


「昔、わたしの祖母が作ってくれた煮込みに似てる。もう四十年も前の話だけど……ああ、こんな味だった」


 エルザさんが泣いている。

 わたしは慌てた。


「あの、す、すみません。何かお気に障りましたか?」


「馬鹿ね、褒めてるのよ」


 エルザさんは鼻をすすりながら笑った。


「美味しいってことよ、これは。泣くほど美味しいってこと」


 わたしは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 そして、誰も気づいていなかった。


 エルザさんは今朝から腰痛がひどくて、何度も腰をさすっていた。それが、シチューを食べ進めるうちに、いつの間にか消えていた。

 トーマスは昨夜の夜更かしで目の下に隈を作っていたのに、頬に血色が戻っている。

 ヨハンさんの、この一年ほど調子が悪いと言っていた古傷の膝が、痛みを感じなくなっている。


 全員が、それぞれの不調を忘れていた。

 シチューを食べた温もりの中に溶けるように、疲労と痛みが消えていた。


 ――マルクスさんだけが、気づいていた。


 厨房の責任者として三十年。何千何万という料理を食べてきた男だ。

 身体の変化には人一倍敏感だった。


 自分の慢性的な肩凝りが、嘘のように軽くなっている。

 だが、この料理に魔法は使われていない。それは断言できる。マルクスさんには、微弱ながら魔力を感知する能力がある。この小娘からは、魔力の気配が一切しない。


 なのに、この効果。

 ただの煮込みと焼きたてのパンに、こんな力があるはずがない。


 マルクスさんはスプーンを置いて、リーゼの顔を見た。


 十二歳の、やせっぽちの少女。

 栗色の髪を後ろで一つに束ねて、くたびれた実務奨学生の制服を着た、どこにでもいそうな子供。


 だが、料理をしている時のあの目は――。


 こいつは一体、何者だ。


「……ヴァイスフェルト」


「は、はい!」


 リーゼが背筋を伸ばした。


 マルクスさんは太い腕を組んだまま、低い声で言った。


「明日から、正式に調理班だ。朝の仕込みから入れ」


「……え」


「聞こえなかったか。明日から調理班だと言ったんだ。遅刻したらクビにするからな」


 リーゼの目が大きく見開かれた。

 唇がわなわなと震えている。


「あ、あ、ありがとう、ございます……っ」


 泣くな、と言おうとしたが、もう遅かった。

 十二歳の小娘は、厨房のど真ん中で、ぼろぼろと涙を流し始めた。


 厨房スタッフたちが顔を見合わせた。

 エルザさんが「あらあら」と笑い、トーマスが「泣くことかよ」と照れくさそうに頭を掻き、ヨハンさんが黙って二杯目のシチューをよそった。


 マルクスさんは大きく息を吐いた。


「泣くな。厨房で泣くと料理に塩味がつく」


「すみませんっ……ぐすっ……でも、嬉しくてっ……」


「味が変わるから泣くなと言っている」


 ……この人は、不器用な優しさの塊だと思う。



 * * *



 夜。


 学院の東棟、上級生向けの個室寮。

 ソフィア・クランメルは、机の上に広げた教科書から目を離し、小さく溜息をついた。


 コンコン、と扉がノックされた。


「お嬢様、お食事をお持ちしました」


 専属の侍女メリッサが、トレイを手に入ってきた。

 トレイの上には、学院の厨房から運ばれた夕食が並んでいる。


 パンと、肉の煮込みと、サラダ。


 ソフィアは席に着き、フォークを手に取った。

 煮込みを一口。


「…………」


 不味くはない。

 だが、美味しくもない。塩気ばかりが強くて、味に奥行きがない。パンは硬く、サラダの野菜は水っぽい。


 故郷のクランメル侯爵邸では、専属の料理人が腕を振るった食事が毎日出てきた。

 繊細な味付け、美しい盛り付け、季節の食材をふんだんに使った贅沢な料理。

 それが当たり前だった。


 ソフィアはフォークを置いた。


「……もういい。下げて」


「お嬢様、まだ半分も召し上がっていませんが」


「食欲がないの」


 メリッサが心配そうな顔でトレイを下げていく。


 一人になった部屋で、ソフィアは窓の外を見つめた。

 夜の学院の中庭に、小さな灯りが点々と灯っている。


「……お家の御飯が、食べたい」


 誰にも聞かれないように、小さく呟いた。


 帝国随一の名門、クランメル侯爵家の令嬢。

 魔法の才に恵まれ、成績は常に上位。教師からも一目置かれ、同級生たちからは憧れの眼差しを向けられる。


 でも、時々思う。

 こんな不味いご飯を毎日食べるくらいなら、お家に帰りたい、と。


 ――それは、ソフィア・クランメルが誰にも見せない、小さな弱さだった。



 * * *



 同じ頃。


 学院の厨房の天井近く、太い梁の上に、一匹の灰色猫が丸くなっていた。


 ネルは、細めた翡翠の目で、暗くなった厨房を見下ろしていた。


 昼間の光景を、思い出していた。

 あの小娘が作った煮込みの匂い。食材の力を極限まで引き出した、混じりけのない香り。

 食べた者たちの顔に浮かんだ、あの表情。


 百年。

 百年間、あの匂いを嗅ぐことはなかった。


 ネルは小さく身震いをした。


「百年ぶりに、こんな匂いを嗅いだ」


 誰もいない厨房に、猫の低い声が落ちた。


「あいつ……食の賢者と、同じ匂いがする」


 あの馬鹿は、まだ何も分かっていない。

 自分の料理に何が起きているのか。食材の本質に触れるということが、どれほど途方もないことなのか。

 百年前、あの力を持っていた人間が、世界に何を成し、何を失ったのか。


 ネルは前足で顔を覆った。


 あの時、俺は守れなかった。

 使い魔として、一番近くにいたのに。


 ――だが。


 ネルは顔を上げた。

 翡翠の目が、暗がりの中で静かに光った。


「今度は、見届ける」


 灰色猫は梁の上で丸くなり直し、目を閉じた。


 学院の厨房に、静かな夜が降りていく。

 明日もまた、あの小娘は朝早くからこの厨房に立つのだろう。

 眠い目を擦りながら、それでも鍋の前に立てば目を輝かせて。


 百年の眠りから覚めた老猫は、小さく欠伸をして、眠りについた。

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