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魔力ゼロで聖女試験に落ちましたが、私の作るごはんは魔法より効くみたいです ~味のわからない皇子殿下の専属料理人になりました~  作者: 河合ゆうじ


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【4】授業についていけません(料理以外)

 帝都魔術学院の朝は早い。


 六時に起床の鐘が鳴り、七時に朝食、八時から授業開始。

 実務奨学生であるわたしは、さらにその前――五時半に起きて、厨房の朝仕込みを手伝ってから教室に向かわなければならない。


 眠い。とてつもなく眠い。

 でも、授業をサボるわけにはいかない。実務奨学生でも授業の出席は義務なのだ。成績が一定以下に落ちると、奨学資格を剥奪されるという恐ろしい決まりもある。


 わたしは欠伸を噛み殺しながら、教室の一番後ろの席に滑り込んだ。


「リーゼ、おはよー! 今日もギリギリだね!」


 隣の席からミーナが元気いっぱいに手を振ってくる。

 この子はどうしてこんなに朝から元気なのだろう。清掃班の朝当番は六時からのはずなのに、髪はきっちり編み込みで、目の下に隈ひとつない。


 商人の娘は体力が違う。たぶん。


「おはよう、ミーナ。今日の一限は……」


「魔法理論学だよ! ラングフェルト先生!」


 ミーナが時間割を指さした。

 魔法理論学。名前だけ聞くと、魔力ゼロのわたしにはまったく縁のなさそうな科目だ。


 が。


「では、今日は魔力伝導の基礎について講義する」


 教壇に立ったラングフェルト先生は、白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた、痩せぎすの老教授だった。

 鋭い目つきで教室を見渡し、黒板に流れるような筆跡で数式を書き始める。


「魔力は媒質を通じて伝導する。その効率は媒質の固有抵抗と温度に依存し、以下の公式で表される」


 黒板に書かれた式を見て、わたしは瞬きをした。


 Q=κ・A・(T₁−T₂)/d


 ……あれ?


「この公式において、Qは単位時間あたりの魔力伝導量、κは媒質の魔力伝導率、Aは断面積、T₁とT₂はそれぞれ始点と終点の魔力ポテンシャル、dは伝導距離を表す」


 ……えーっと。


 これ、フーリエの熱伝導の法則そのままじゃないですか?


 Q=κ・A・ΔT/d。

 前世の大学一年生で習った、熱力学の基礎中の基礎。変数の名前が「温度」から「魔力ポテンシャル」に変わっただけで、構造が完全に同じだ。


 わたしは思わず姿勢を正した。


「魔力伝導率κは物質によって大きく異なる。例えば、ミスリル銀のκ値は純鉄の約十二倍、通常の水の約三十倍である。これは、ミスリル銀の結晶構造が魔力の流れに対して極めて低い抵抗を示すためだ」


 ミスリル銀の結晶構造が……低い抵抗……。

 つまり、ミスリル銀は魔力にとって超伝導体のようなもの、ということだろうか。


 面白い。めちゃくちゃ面白い。


 わたしは夢中でノートを取り始めた。

 前世の熱力学と対応させながら、この世界の魔法理論を自分なりの言葉で書き換えていく。


 魔力ポテンシャル=温度。魔力伝導率=熱伝導率。魔力の流束=熱流束。

 だとすれば、魔力にもエントロピーに相当する概念があるはず。魔力が高い方から低い方へ自然に流れ、その過程で「何か」が不可逆的に増大する……。


「――では、ここで質問だ」


 ラングフェルト先生の声に、教室がしんと静まった。


「魔力伝導率κが温度によって変化する場合、伝導方程式はどのように修正されるか。誰か答えられる者は?」


 沈黙。

 教室中の生徒が目を逸らしている。

 最前列に座っている成績優秀そうな生徒たちでさえ、困った顔で教科書をめくっている。


 わたしは、自分のノートに目を落とした。


 κが温度依存性を持つ場合……。

 前世の知識で考えれば、これは非線形熱伝導問題だ。κ=κ(T)として、微分方程式の形に書き直せばいい。


 フーリエの法則を微分形にすると、∂T/∂t=∇・(κ(T)∇T)。

 この世界の言葉に置き換えれば――。


「……あの」


 気がつくと、わたしは手を挙げていた。


 教室中の視線が一斉にこちらを向く。

 後ろの席。実務奨学生の制服。しかも、入学式の魔力測定で「測定不能」を叩き出したことが既に噂になっている、あのリーゼ・ヴァイスフェルト。


 ……あ、やっちゃった。


 でも、もう手を挙げてしまった以上、引っ込みがつかない。


「κが魔力ポテンシャルの関数である場合、基本式は微分形で表す必要があります。伝導方程式は、各点における魔力ポテンシャルの時間変化が、κとポテンシャル勾配の積の空間的な変化率に等しい、という形になります」


 教室が凍りついた。


「……さらに、κがポテンシャルに対して線形に変化すると仮定すれば、変数変換によってキルヒホッフ変換……えっと、この世界だと何と呼ぶのか分かりませんが、ポテンシャルの関数を新しい変数に置き換えることで、線形の方程式に帰着させることができます」


 しまった、喋りすぎた。


 ラングフェルト先生が目を見開いている。

 教室は完全に静まり返っていた。


「……君の名前は?」


「リーゼ・ヴァイスフェルトです」


「ヴァイスフェルト……辺境伯家の」


「はい。実務奨学生です」


 先生は細い目をさらに細めて、わたしをじっと見た。


「今の回答は、学院の三年次で扱う応用魔法数理学の範囲だ。君は独学で学んだのか?」


「あ、いえ、その……なんとなく、こうじゃないかな、と」


 前世の熱力学の知識です、とは言えない。言ったら頭のおかしい子だと思われる。


「……ふむ」


 ラングフェルト先生は何かを考え込むように顎に手を当てて、それから小さく頷いた。


「見事だ。正解だよ、ヴァイスフェルト」


 わたしは安堵で椅子に沈み込んだ。

 隣のミーナが、口をぽかんと開けたままこちらを見ている。


「リーゼ……あんた、天才だったの?」


「違うの。ちょっと聞き覚えがあっただけで……」


 嘘だ。ガッツリ前世の知識だ。

 でも、魔法理論がこんなに物理学と似ているなんて、思ってもみなかった。



 * * *



 二限目。魔法実技。


 一限で味わった高揚感は、ここで木っ端微塵に砕け散ることになる。


「では、基礎課題です。手のひらに魔力を集中させ、蝋燭の炎を揺らしてください」


 実技担当のヘルダ先生は、穏やかな笑顔の中年女性だった。

 教壇の上に並べられた三十本の蝋燭が、静かに燃えている。


 周りの生徒たちが、次々と手をかざす。

 蝋燭の炎が揺れる。大きく燃え上がる子もいれば、かろうじて揺らす子もいるが、全員がなんらかの反応を引き出している。


 ミーナも、ぷるぷると手を震わせながら、なんとか炎をほんの少し傾けた。


「や、やったぁ! ちょっとだけ動いた!」


 微笑ましい。


 さて、わたしの番だ。

 蝋燭の前に座り、手をかざす。


 集中。

 精神を統一して、手のひらから魔力を……。


 ……。


 …………。


 何も起きない。

 炎は微動だにしない。まるでわたしの存在を無視しているかのように、安定した光を灯し続けている。


 もう一度。今度はもっと集中して。

 額に汗が滲む。歯を食いしばる。


 ――何も、起きない。


「ヴァイスフェルトさん?」


 ヘルダ先生が心配そうにこちらを覗き込んだ。


「魔力を集中させてみてください。手のひらが温かくなる感覚はありますか?」


「……いいえ。何も感じません」


 先生は眉を寄せた。


「一限の魔法理論では、ラングフェルト先生を唸らせるほどの回答をしたと聞きましたが……」


 もう噂が回っているらしい。教師のネットワークの速さは異世界も日本も変わらない。


「理論をあれほど完璧に理解していながら、基礎の魔力発現ができないというのは……正直、私の教師経験でも初めてです」


 先生、それわたしの目の前で言います?

 今日だけで二回目です、この展開。


「あら、やっぱり。教科書を暗唱できても、魔法は使えないのね」


 聞き覚えのある声に振り返ると、三列前の席からソフィアが肩越しにこちらを見ていた。

 艶やかな金髪を指先でくるりと巻きながら、唇の端を吊り上げている。


「厨房係が教室にいるだけでも場違いなのに、これ以上恥を晒さなくてもいいのよ?」


 周りから、くすくすと笑い声が漏れた。


 ……痛い。正直、ちょっと痛い。

 理論が分かるのに実践ができない、というのは、前世で言えば「料理の論文は書けるのに目玉焼きが焼けない」みたいなものだ。……それはそれで情けない。


 でも。


 わたしは、ソフィアの視線を正面から受け止めて――。


 今夜のまかないは何にしようかな、と考えた。


 昼に厨房の食材庫を覗いた時、根菜類の在庫が多かった。あと、香草が新鮮なうちに使い切りたい。蕪と香草のポタージュなんてどうだろう。蕪の甘みを引き出すには、弱火でじっくり炒めるのがコツで――。


「……聞いてるの?」


「え? あ、ごめんなさい。ちょっと考え事を」


 ソフィアが一瞬、虚を突かれたような顔をした。

 馬鹿にされて悔しがるでもなく、言い返すでもなく、ぼーっと別のことを考えていた人間に対する反応に、彼女は明らかに戸惑っていた。


「……変な子」


 そう吐き捨てて、ソフィアは前を向いた。


 変な子で結構。

 わたしの戦場は教室じゃない。厨房だ。



 * * *



 昼休み。


 一般の生徒たちは大食堂で昼食をとるが、実務奨学生は厨房の隅に設けられた小さなテーブルで食べることになっている。

 特に不満はない。むしろ、厨房に近い方がありがたい。


 問題は、食事の中身だ。


 わたしは目の前の皿を見下ろした。


 パンと、野菜のスープと、塩漬け肉の薄切り。

 大食堂の生徒たちにも、同じものが出されているはずだ。


 パンを一口齧る。……硬い。発酵が足りていない。

 スープを啜る。……薄い。出汁の概念がそもそもない。野菜を水で煮ただけだ。塩だけは入っている。

 肉を噛む。……しょっぱい。塩漬けの戻し方が雑すぎる。


 美味しくない。

 前世の給食の方が百倍美味しい。あれはあれで栄養士さんが血の滲むような努力をしていたのだと、今さらながら痛感する。


 でも、文句を言える立場ではない。

 わたしは黙々と食べながら、頭の中で計算を始めた。


 この学院には生徒が約三百人、教職員が五十人、実務奨学生が二十人。合計約三百七十人分の食事を、朝昼晩の三食提供している。

 厨房スタッフは、マルクスさんを含めて八人。圧倒的に人手不足だ。


 人手が足りないから、手の込んだ調理ができない。

 手の込んだ調理ができないから、味が単調になる。

 味が単調だから、食べ残しが多い。

 食べ残しが多いから、食材が無駄になる。


 この悪循環を断ち切るには……。


 簡単な手順で味を劇的に向上させる方法。前世の食品科学で言えば、「工程改善による品質向上」だ。


 例えば、スープ。

 野菜をいきなり水に入れて煮るのではなく、最初に油で軽く炒めることでメイラード反応を起こし、旨味を格段に増やせる。これだけで、調理時間はほとんど変わらずに味が激変する。


 パンだって、生地を捏ねた後の発酵時間と温度を適切に管理するだけで、ふわふわになる。


 頭の中で、改善案が次々と浮かんでくる。

 今はまだ、厨房では雑用しか任されていないけれど。


 いつか――いつか、この学院の食事を変えてみせる。


 小さな野望を胸に秘めて、わたしは薄味のスープを最後の一滴まで飲み干した。



 * * *



 放課後。


 午後の厨房仕事を終えて、わたしは一人で学院の屋上に来ていた。

 ここは誰も来ない。屋上に続く階段は「立入禁止」の札がかかっているのだが、厨房の換気用の通路から裏道があることを、初日に見つけてしまったのだ。


 夕暮れの帝都を見渡しながら、膝を抱えて座る。

 遠くに皇城の尖塔が見える。街並みの向こうには、城壁と、その先に広がる穀倉地帯。


 綺麗だなぁ、と思う。

 でも、少しだけ寂しい。


 魔法実技の授業で、蝋燭の炎すら揺らせなかったこと。

 理屈は分かるのに、身体が応えてくれないもどかしさ。

 ソフィアの嘲笑を、悔しいと思えなかった自分自身への違和感。


 ……わたしは、本当にこの場所にいていいのだろうか。


「暗い顔してんじゃねぇよ」


 びくっ、と肩が跳ねた。


 振り返ると、屋上のへりに灰色の猫が座っていた。

 翡翠色の目がこちらを見下ろしている。ふてぶてしい面構え。


「ネ、ネル……! いつからいたの?」


「さっきからだ。お前が『蕪のポタージュの隠し味には白味噌……いや、この世界に味噌はないから発酵豆ペーストで代用して……』とかぶつぶつ言ってる時からいた」


「聞いてたの!?」


「聞こえたんだ。お前、独り言が多すぎる」


 ネルが身軽に飛び降りて、わたしの膝の横に座った。

 猫の体温が、ほんのりと温かい。


「……魔法、使えなかったんだって?」


「見てたの?」


「見てねぇよ。お前の落ち込み具合を見りゃ分かる」


 ネルは前足で顔を洗いながら、欠伸をした。


「いいか、ガキ。この世界の連中が使ってる魔法ってのは、魔力――マナを燃料にして術式を発動させる仕組みだ。お前にはマナがねぇ。だから使えない。当然の話だ」


「……分かってる」


「だが」


 ネルの翡翠の目が、すっとこちらを見た。

 猫の目とは思えない、深い知性の光。


「魔法ってのは、マナだけじゃねぇんだ」


「……え?」


「今の時代の連中は忘れちまったが、百年以上前にはもう一つの系統があった。マナを使わず、物事の『本質』に触れることで世界に干渉する力。名前は……まぁ、色々あるが、昔の賢者たちは『理』と呼んでいた」


 ネルは尻尾をゆらゆらと振りながら、続けた。


「お前の料理。あれは、食材の本質に触れてる。素材が持つ力を最大限に引き出す調理。それがどういう意味を持つか、お前は分かってないだろう」


「……わたしの料理が、魔法だってこと?」


「そうは言ってねぇ」


 ネルがぴしゃりと遮った。


「お前の料理は、食材の『本質』に触れている。それは事実だ。だが、それが魔法かどうかは、お前次第だ。本質に触れるだけなら、腕のいい料理人なら誰でもやってる。だが、その先――本質を理解し、意図を持って引き出せるようになった時、それは『理』になる」


 ネルはそこで言葉を切り、夕暮れの空を見上げた。


「……昔、そうやって食材の理を極めた人間がいた」


「食材の理を極めた人間?」


「ああ。『食の賢者』と呼ばれた。百年前の話だ」


 食の賢者。

 その言葉に、わたしの心臓がどくんと跳ねた。


「マナなんぞ一滴も持たずに、料理だけで国を救った大馬鹿者だ。俺は――」


 ネルはそこで口を閉ざした。

 何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。


「……まぁ、今はどうでもいい話だ」


「どうでもよくない! ネル、その食の賢者って――」


「しつこいガキだな。今日はもう寝ろ。明日も朝が早いんだろ」


 ネルはひらりと屋上のへりに飛び乗ると、こちらを一瞥した。


「一つだけ言っておく。マナが使えねぇことを嘆くな。お前にはお前の道がある。蝋燭の炎を揺らす代わりに、お前は鍋の中で別のものを揺らせる人間だ」


 そう言い残して、ネルは夕闇の中に消えていった。


 わたしはしばらく、その場に座ったまま動けなかった。


 食の賢者。

 マナを使わない、もう一つの魔法。

 わたしの料理が、食材の『本質』に触れている。


 ……正直、まだよく分からない。

 でも。


 蝋燭の炎を揺らせなくて、ちょっとだけ泣きそうだった心が、少しだけ軽くなった気がした。


「……よし」


 わたしは立ち上がって、埃を払った。


 明日の朝は仕込みの手伝いがある。蕪が余っているなら、ポタージュの試作をマルクスさんに頼んでみよう。


 蝋燭は揺らせなくても、鍋の中身なら揺らせる。

 ネルの言葉を、わたしはそう解釈した。


 ――たぶん、ちょっと解釈が違う気もするけど、まぁいいか。

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