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魔力ゼロで聖女試験に落ちましたが、私の作るごはんは魔法より効くみたいです ~味のわからない皇子殿下の専属料理人になりました~  作者: 河合ゆうじ


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【36】グスタフの料理哲学

 皇宮料理長グスタフ・ベッカーは、五十三歳の冬を迎えていた。


 帝国料理界の頂点に君臨すること二十年。

 その間、皇帝陛下と皇族の食卓を一手に預かり、国賓の晩餐会を百回以上成功させ、宮廷料理の伝統を守り続けてきた。


 誰もが彼を畏怖した。

 後輩の料理人たちは彼の背中を追い、貴族たちは彼の料理に舌鼓を打ち、皇帝陛下からは「帝国の胃袋」と呼ばれた。


 グスタフは、自分の人生に満足していた。

 ——していた、はずだった。


 あの小娘が現れるまでは。



 * * *



 グスタフが料理の道に入ったのは、十二歳の時だった。


 奇しくも——あの小娘と同じ年齢だ。


 帝都の貧民街で生まれ、物心ついた時には両親はいなかった。

 孤児院で育ち、十歳で厨房の下働きとして働き始めた。


 才能があった。

 食材に触れた瞬間、どう調理すれば最も美味しくなるか、直感で分かった。

 十五歳で宮廷料理人の見習いに採用され、二十歳で正式な宮廷料理人になった。


 だが、才能だけでは宮廷では生き残れない。


 宮廷の料理には、魔法が不可欠だ。

 保存魔法、炎制御魔法、調味魔法、幻影魔法——これらを自在に操れなければ、一流の宮廷料理人とは認められない。


 グスタフは血の滲む努力で魔法を習得した。

 生まれつきの魔力は平均以下だった。貴族出身の料理人たちが軽々と使いこなす魔法を、彼は何年もかけてようやく身につけた。


 その過程で、ある信念が生まれた。


 ——魔法を極めた者だけが、最高の料理を作る資格がある。


 魔法なしの料理は、所詮は田舎の素人料理だ。

 魔法があるからこそ、食材の可能性を最大限に引き出せる。温度を精密に制御し、味を均一に整え、見た目を芸術の域に高められる。

 それが、グスタフの料理哲学だった。


 この信念に支えられて、彼は二十年間、宮廷の厨房を統べてきた。


 誰も異を唱えなかった。

 異を唱える必要がなかった。

 グスタフの料理は、確かに技術的に完璧だったから。



 * * *



 リーゼ・ヴァイスフェルトという名前を初めて聞いたのは、あの晩餐会の日だった。


 宰相が「七十年で最も旨い」と評したスープ。

 エレナ殿下が連れてきた、十二歳の少女が作ったスープ。


 グスタフはあの夜、自室でそのスープの残りを飲んだ。


 ——旨かった。


 認めたくなかったが、旨かった。

 コンソメの透明度、香りの深さ、舌に残る余韻。技術的に見ても非の打ち所がない。


 だが、グスタフを震撼させたのは、技術ではなかった。


 あのスープには——何かが宿っていた。


 言葉にできない。魔法ではない。だが、明らかに何かの力が料理の中に溶けていた。

 飲んだ瞬間、胸の奥が温かくなる。懐かしい記憶が蘇る。目の奥が熱くなる。


 グスタフの完璧な魔法料理には、決して生まれない感覚だった。


 あの夜、グスタフは初めて——自分の料理に疑問を持った。


 技術的には完璧。味も完璧。見た目も完璧。

 しかし、誰かを泣かせたことがあるか?

 誰かの心の奥底に触れたことがあるか?


 ——ない。


 グスタフの料理は、賞賛されてきた。「素晴らしい」「見事だ」「さすが料理長」と。

 だが、「泣くほど美味しい」と言われたことは——一度もない。


 二十年。

 二十年間の宮廷料理人生で、一度も。


 あの小娘のスープ一杯に、二十年の積み重ねが揺らいだ。



 * * *



 だから、グスタフはリーゼを冷遇した。


 床掃除を命じ、端材の処理を押しつけ、まともな調理には関わらせなかった。


 合理的な判断だ、と自分に言い聞かせた。

 あの小娘には魔力がない。宮廷の厨房で戦力にならない者に、重要な仕事を任せるわけにはいかない。

 それは正論だ。


 ……正論のはずだ。


 だが、端材で見事な料理を作り上げるリーゼを見た時、グスタフの胸に走ったのは——恐怖だった。


 野菜の皮をチップスに。切り落とし肉をとろける煮込みに。パンの耳を香ばしいクルトンに。

 くず食材から、人の笑顔を引き出す料理を作る。


 魔法は使っていない。エッセンスとやらも——おそらく使っていない。

 純粋な技術と知識と、そして——何かが違う。


 何が違うのか、グスタフには分からなかった。

 分からないから、怖かった。


 もし、魔法なしで最高の料理が作れるなら。

 もし、あの小娘の料理が、自分の料理を超えるなら。


 ——自分の二十年間は、何だったのか。


 血の滲む努力で魔法を習得し、魔法を極め、魔法料理の頂点に立った。

 その全てが、無意味になる。


 魔法がなくても同じことができる。

 いや——魔法よりも深いものが、魔法なしで作れる。


 それは、グスタフの存在そのものの否定だった。



 * * *



 ある夜、グスタフは自室で一人、料理を作っていた。


 宮廷料理長の私室には、小さな厨房がある。

 ここで新作の試作をするのが、グスタフの日課だった。


 今夜作っているのは、玉ねぎのスープ。


 ごく単純な料理だ。玉ねぎを刻み、バターで炒め、水を加えて煮込む。

 宮廷料理人がわざわざ作るような料理ではない。


 だが、グスタフにはこの料理に特別な思い入れがあった。


 十歳の時、孤児院の厨房で、賄い婦のマルタ婆さんが作ってくれた玉ねぎのスープ。

 粗末な材料で、技術も何もない。ただ、玉ねぎをじっくり炒めて、水と塩で煮込んだだけのスープ。


 あれが、グスタフの人生で一番美味しい料理だった。


 四十三年間、あの味を再現できていない。


 何度試しても、何度作っても——あの温かさが、再現できない。

 同じ材料を使い、同じ手順で作り、さらに魔法で味を調整しても。

 あの日の、マルタ婆さんのスープには、ならない。


 今夜も——ならなかった。


 グスタフは匙を置いた。


 技術的には完璧なスープだ。玉ねぎの甘みは十分に引き出されている。味の均一性も申し分ない。


 でも、何かが足りない。

 いつも、何かが足りない。


 あの小娘の——リーゼの料理には、それがある。

 自分の料理には、それがない。


 この差は何だ。

 才能か。天賦の素質か。

 それとも——もっと根本的な、何かか。


 グスタフは、自分の両手を見つめた。


 何千もの料理を作ってきた手。

 魔法を操り、食材を加工し、完璧な一皿を生み出してきた手。


 この手に、足りないものは何だ。



 * * *



 翌朝、厨房に入ると、リーゼが早くも仕込みを始めていた。


 あの小娘は、宮廷の厨房では一番早く来て、一番遅くまで残る。

 学院との掛け持ちで寝不足のはずなのに、手を抜かない。


 グスタフは柱の陰から、リーゼの仕事を見ていた。


 カイゼル殿下の昼食を準備している。

 食材を一つ一つ手に取り、匂いを嗅ぎ、色を確かめ、感触を確かめてから調理に入る。


 その動作が——異様だった。


 普通の料理人は、食材を「材料」として扱う。レシピに従い、必要な量を計り、指示通りに調理する。


 だが、リーゼは違った。

 食材と——対話している。


 手に取った瞬間、何かを聞いているように目を閉じる。

 そして、微かに頷いてから、調理を始める。


 まるで、食材が「こう調理してほしい」と語りかけ、リーゼがそれに応えているかのようだ。


 馬鹿馬鹿しい。食材が喋るはずがない。


 だが——あの動作の後に生まれる料理は、確かに違う。

 同じ食材を使っても、リーゼの料理には「命」がある。


 グスタフは、唇を噛んだ。


 認めたくない。

 認めてしまえば、自分の二十年が崩壊する。


 だが——目を逸らし続けることも、もう限界だった。


 リーゼが作ったスープを、下働きの者たちが嬉しそうに食べている。

 あの端材の料理で、厨房の空気が変わった。下の者たちが明るくなった。仕事に活気が出た。


 グスタフの完璧な料理は、二十年間、厨房の空気を変えたことがあったか?


 ——ない。


 グスタフは背を向け、自室に戻った。


 玉ねぎのスープの鍋が、コンロの上で冷めていた。


 あの日のマルタ婆さんは、魔法なんて使わなかった。

 ただ、孤児院の子供たちのために、ありったけの愛情を込めてスープを作った。


 それだけのことだ。

 それだけのことが——グスタフには、できない。


 いつからだろう。

 料理から、「心」が消えたのは。


 宮廷に入り、魔法を学び、技術を極め——その過程で、何かを失った。

 失ったことにすら気づかないまま、二十年が過ぎた。


 グスタフは冷めたスープを一口すすり、苦い顔をした。


 味は完璧だ。

 だが、温かくない。


 マルタ婆さんのスープは、もっと——温かかった。


「……くそ」


 誰にも聞かれない私室で、帝国最高の料理人は、小さく毒づいた。


 恐怖と苛立ちと、そしてほんの僅かな——羨望。


 あの十二歳の小娘が持っていて、五十三歳の自分が持っていないもの。


 それが何なのか——グスタフには、まだ分からなかった。

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