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魔力ゼロで聖女試験に落ちましたが、私の作るごはんは魔法より効くみたいです ~味のわからない皇子殿下の専属料理人になりました~  作者: 河合ゆうじ


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【35】侯爵令嬢の決断

 宮廷料理人になって三週間目。


 その日は朝から、殿下の昼食用に新しい献立を試していた。

 この世界の豆を使った味噌もどきの発酵が、ようやくいい具合に進んでいる。あと一週間で使えるようになるはずだ。


 厨房で仕込みをしていると、フィンさんが駆け込んできた。


「リーゼさん。お客様です」


「お客様? わたしに?」


「ソフィア・クラインヘルツ嬢です。正門で宮廷への入館許可を求めています」


 ソフィアが——宮廷に?


 慌てて手を洗い、エプロンを外して正門に向かうと、ソフィアがいた。

 いつもの学院の制服ではなく、侯爵令嬢にふさわしい淡い紫のドレスを着ている。髪もきちんと結い上げて、普段の快活な雰囲気とは別人のようだ。


 でも——その目は、いつものソフィアだった。

 真っ直ぐで、強い意志を宿した瞳。


「リーゼ。話があるの。大事な話」


 ソフィアの腕には、革の鞄が抱えられていた。

 中に何かが入っている。書類のようなものが、鞄の口からはみ出していた。



 * * *



 わたしたちは、宮廷の庭園の片隅にあるあずまやに移動した。

 人目につかない場所だ。フィンさんが気を利かせて案内してくれた。


 ネルが茂みの中から姿を現し、ソフィアの足元にちょこんと座った。


「ソフィア嬢か。その格好、見慣れんな」


「猫に言われたくないわ。あなたこそ、宮廷の庭でくつろいでるのね」


「わしは警備だ」


「どう見てもお昼寝してたでしょ」


 いつもの掛け合いに、少しだけ緊張がほぐれた。


 でも、ソフィアの表情はすぐに真剣に戻った。


「リーゼ。わたし、ずっと調べていたの。あなたの料理に宿る力——エッセンスのこと」


 心臓が跳ねた。


「ソフィア、ここで——」


「大丈夫。この結界石が会話を遮断しているわ」


 ソフィアがポケットから小さな石を取り出した。淡い光を放つ魔法具だ。

 さすが侯爵家の令嬢、こういう道具を持っている。


「エッセンスの歴史について、わたしなりに調べたいと思ったの。でも、学院の図書館にはほとんど資料がない。百年前に焚書されたから」


「うん、ネルもそう言ってた」


「だから、別の場所を探したわ。クラインヘルツ家の——私設書庫を」


 ソフィアが鞄を開いた。


 中から出てきたのは、古びた文書の束だった。

 羊皮紙に書かれた手書きの文字。インクは褪せているが、まだ読める。


「これは……」


「クラインヘルツ家の歴代当主が残した私的な記録よ。公式の文書じゃない。だから焚書を免れた」


 ネルが身を乗り出した。老猫の瞳に、鋭い光が宿っている。


「ソフィア嬢。それは、百年前の記録か」


「ええ。第七代当主——アルベルト・フォン・クラインヘルツの日記。百二十年前から百年前までの記録が残っているわ」


 百年前。

 食の賢者エルヴィンが処刑された時代。


 わたしの手が、無意識に震えた。


「読むわよ。覚悟して」


 ソフィアが、日記の一節を読み上げた。



 * * *



 ——帝暦八百七十三年、霜月十日。


 『本日、宮廷料理人エルヴィンが、陛下の御前にて新たな料理を披露した。

  食材の本質を引き出すと称する、彼独自の技法。

  料理を口にした陛下は、涙を流された。

  「これこそ、食の真髄である」と。

  エルヴィンの名声は、今や帝国全土に轟いている。

  彼を「食の賢者」と呼ぶ者が増えた。

  ……だが、宮廷の一部には、彼の力を危険視する声がある。

  魔法ではない、しかし魔法を超える力。

  それを恐れる者がいるのは、当然かもしれない。』


 ——帝暦八百七十四年、花月二十三日。


 『エルヴィンが、親友と呼ぶ男がいる。

  宮廷魔術師団の副団長、ディートリヒ。

  二人は学生時代からの友人で、エルヴィンの研究を最も深く理解する人物だ。

  エルヴィンはディートリヒに、自身の研究——「エッセンス」の理論の全てを打ち明けているという。

  手帳のコピーすら渡したと聞く。

  ……愚かな。

  この宮廷で、誰かを無条件に信じることの危うさを、あの男は知らない。』


 ——帝暦八百七十五年、刈月八日。


 『事態が動いた。

  宮廷魔術師団が、エルヴィンのエッセンスを「異端の魔術」と断定する報告書を提出した。

  報告書の主筆は——ディートリヒ。

  エルヴィンの親友が、エルヴィンを告発したのだ。

  宮廷は騒然としている。

  エルヴィンは牢に繋がれた。

  彼の研究資料は全て押収され、焼却が命じられた。

  ……なぜだ。なぜディートリヒは友を売った。

  金か。地位か。それとも——恐怖か。

  エルヴィンの力が、魔術師団の存在意義を脅かしたからか。

  理由は分からない。だが、結果は明白だ。

  食の賢者は、親友に殺された。』



 * * *



 ソフィアが日記を閉じた。


 あずまやに、沈黙が降りた。


 ネルが——老猫が、微かに震えていた。

 百年以上を生きた猫の体が、小刻みに揺れている。


「ネル……」


「……知っていた。ディートリヒの裏切りは、知っていた」


 ネルの声は、いつもの皮肉な調子ではなかった。低く、掠れた声。


「だが——こうして、記録として読まされると、な。堪えるものがある」


 ネルはエルヴィンの猫だった。

 百年前、主人を失った猫。その主人は、親友に裏切られて死んだ。


 わたしは何も言えなかった。ただ、ネルの背中にそっと手を置いた。


「……続きがあるの」


 ソフィアが言った。その声も、僅かに震えていた。


 ——帝暦八百七十五年、刈月二十日。


 『エルヴィンの処刑が執行された。

  罪状は「異端魔術の行使」「帝国秩序の紊乱」。

  処刑には、ディートリヒも立ち会ったという。

  ……あの男は、最後まで友の顔を見なかったと聞く。

  処刑後、ディートリヒは魔術師団長に昇進した。

  エルヴィンの排除が、昇進の手土産だったのだ。

  吐き気がする。

  私は今日、エルヴィンの残した料理のレシピを一部、密かに書庫に隠した。

  いつか、この記録が日の目を見る時が来るかもしれない。

  あるいは、永遠に忘れ去られるかもしれない。

  だが、私は記録する。歴史が改竄される前に。真実を。』


「ここまでよ」


 ソフィアが文書を鞄に戻した。


 わたしの目から、涙が流れていた。

 エルヴィンという人に会ったことはない。百年前に死んだ、見知らぬ料理人。

 でも、同じ「食の力」を持つ者として——彼の無念が、胸に刺さった。


 親友に裏切られた。

 信じた相手に殺された。

 それでも、彼の料理は消えなかった。手帳が残り、ネルが語り継ぎ、そして今、わたしの手に受け継がれている。


「リーゼ」


 ソフィアがわたしの手を取った。


「わたし、決めたの」


「何を?」


「あなたの味方になる。正式に。クラインヘルツ侯爵家の名において」


「ソフィア、それは——」


「分かってる。危険なことよ。百年前、エッセンスに関わった者は皆、粛清された。クラインヘルツ家のアルベルト当主も、記録を隠した翌年に不審な死を遂げている。暗殺だった可能性が高いわ」


 つまり、ソフィアの先祖もエッセンスのために命を落としたかもしれないのだ。


「それでも——いいえ、だからこそよ」


 ソフィアの声が、強くなった。


「クラインヘルツ家は、百年間この記録を守ってきた。先祖がなぜ命を賭けて記録を残したのか、わたしにはやっと分かった。いつか、真実を明らかにする人が現れると信じたからよ」


「……ソフィア」


「あなたがその人よ、リーゼ。魔力ゼロの、十二歳の、料理馬鹿のあなたが」


 料理馬鹿は余計だ。

 でも——否定できない。


「わたしは侯爵令嬢よ。政治の場で動ける。書庫にある記録を守れる。あなたが料理に専念できるように、外堀を埋めることができる。それが、わたしにできること」


 ソフィアの目には、涙と決意が同居していた。


「ただし、条件があるわ」


「条件?」


「もう二度と、一人で抱え込まないで。辛い時は言って。怖い時は頼って。わたしたちは——対等な仲間なんだから」


 対等な仲間。

 侯爵令嬢と、辺境伯家の末娘が。

 身分も、立場も、能力も違う二人が——対等。


 前世の記憶が、ふと蘇った。

 日本の食品会社で、研究室の仲間と夜遅くまでデータを分析していた日々。

 一人では絶対にできないことが、仲間となら実現できた。


 料理も、研究も、同じだ。

 一人で作るより、誰かと一緒の方が、美味しくなる。


「ソフィア」


「何?」


「ありがとう。……わたしも、もう一人で抱え込まない」


 ソフィアが笑った。

 泣き笑いの、くしゃくしゃの顔で。


 ネルが小さく鼻を鳴らした。


「まったく。百年前のエルヴィンにも、こういう仲間がいれば——」


 老猫は、そこで言葉を切った。


 いれば——殺されなかったかもしれない。

 その先の言葉を、ネルは飲み込んだ。


 わたしはネルを抱き上げた。


「ネル。今度は違うよ。わたしには仲間がいる。ソフィアも、カイゼル殿下も、フィンさんも、マルクスさんも、ヴェルナー教授も。そして——ネルも」


「……わしは、ただの猫だ」


「うん。世界一頼りになる、ただの猫」


 ネルは何も言わなかった。

 でも、わたしの腕の中で喉を鳴らしていた。


 ソフィアが文書の束から、一枚の紙を取り出した。


「これ、アルベルト当主が書庫に隠したレシピよ。エルヴィンの料理の、ほんの一部だけど」


 古い羊皮紙に書かれた、百年前の料理人の筆跡。


 わたしは——前世の食品科学者としての目で、その文字を読み解いた。


 そこには、エッセンスを料理に込めるための、基礎理論が記されていた。

 ヴェルナー教授が持つ手帳とは別の——より実践的な、調理現場での技法。


 これがあれば、エッセンスの制御がもっと上手くなるかもしれない。


「ソフィア。これ、借りてもいい?」


「あげるわ。クラインヘルツ家の書庫には、まだいくつか関連文書が残っている。少しずつ持ち出すわね」


「危なくない?」


「大丈夫。書庫の管理はわたしに任されているの。父上は学術書にしか興味がないから、料理関連の文書なんて見もしないわ」


 ソフィアは悪戯っぽく笑った。

 侯爵令嬢の決断は、静かだけれど、揺るぎなかった。


 その日、わたしたちの同盟は正式なものになった。


 料理馬鹿と、侯爵令嬢と、喋る老猫。

 奇妙な組み合わせだけれど——百年前の悲劇を、繰り返さないために。

 わたしたちは、手を取り合って進むことを誓った。

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